第60話 水鏡
――ヴェルデ大迷宮 5層 『水鏡の洞』――
中層街は4層と5層をまたぐ場所に作られている。4層側は『上門』、5層側は『下門』があり、その門をくぐらないと出入りできない。
ネイロの暮らす集落は下門から半刻ほど歩いた場所にある。それくらいの距離にありながら、外の人間で存在を知る者はほとんどいない。
「私の祖父は五十年ほど前に大迷宮にやってきました。その時には外の都市……エルバトスも今よりは小さかったそうです。私はまだ見たことがないのですが、ファレルさんたちはそこから来られたんですよね」
「ああ、そうだ。エルバトスで冒険者として登録して、大迷宮に潜っている」
「そうなんですね……冒険者の人たちはいつも活気に満ちています。中には、危険だから近づいてはいけないという人もいますが、ファレルさんたちは違いました」
『黎明の宝剣』のような連中が、ネイロを見つけたらどうなっていたか――楽観的な想像はできない。
ジュノスたちは中層街に向かっていると、そうガディは言っていた。すでに到着しているのか、どこかで足止めを食って遅れているか。俺たちも中層街に入る以上、遭遇する可能性は高い。
「ファレルさん、この先の洞窟に入ってください」
ネイロの言う通り、前方に洞窟――岩壁に十個ほど穴が開いているが――を見つけた。
「……
ネイロは目を凝らしたあとにそう教えてくれる。今日ということは、日によって変わるということか――正解の道が。
セティ、アール、リィズが先に穴に入っていく。しばらく薄暗い穴の中を進み続ける――すると。
「ひゃっ……!?」
「きゃぁっ……!」
「っ……!」
パシャッ、と音がした――そして、先に進んでいた三人の姿が見えなくなった。
『ファレル様、ファレル様っ……!』
『ど、どうなっているんですの……っ』
『これは……そういうことか。ファレル殿、私たちは無事です』
姿は見えず、三人の声だけが聞こえてくる――なんとも面妖な状況だ。
「そのまま進んで大丈夫です、驚かせて申し訳ありません」
「まあ、今さら疑いはしないけどな……おっと」
進んでいくうちに気づく。目の前に、透明な膜のようなものが張られている――結界の類ということか。
そのまま進むと、パシャッと膜が弾けるような感覚があり、視界が切り替わった。
「これは『水鏡結界』というものです。結界を解除せずに通るときは、通行を許可された人がいなくてはいけません」
「なるほどな……いきなり俺達を連れてきたら、ネイロの仲間は警戒するんじゃないか」
「――その通りだ」
聞こえてきたのは硬質な女性の声だった。進行方向の先、洞窟の出口に人影が現れる。
以前見た、迷宮の民。カルアの装いに良く似た、蓑虫のような格好をしている――彼女やネイロがつけているマスクは、俺たちのものとは違う素材でできている。魔獣の革か、それとも他の何かか。
「その子を助けてくれたことには礼を言う……しかし、今はここから通すわけにはいかない。この洞窟を出る前に引き返してほしい」
「キリエ姉様、この方々は……っ」
「なぜ外に出られたのです。ネイロ様のものとおぼしき痕跡が見つかったあと、私たちがどんな思いをしたか……」
俺達はネイロの血の痕を見つけ、それを追って彼を発見した。ネイロの集落からも捜索が出ていたとしたら、行き違いになったということか――それとも。
「……姉様、ごめんなさい。勝手に外に出てしまって」
「俺たちはネイロを送って来ただけだ。これ以上進んではならないってことなら、もちろん従うよ」
ネイロを降ろすと、彼はキリエの方に歩いていく――こちらを振り返って何か言いたげにするネイロに、俺は首肯で応じる。
「……キリエ殿とおっしゃいましたか。あなたたちは迷宮の民……なのですね」
「外の人間はそう呼ぶだろう。しかし、我らのことは絶対に外には漏らさないこと……限られた外の人間のみとしか、我々は繋がりを持っていない」
「ああ。口は固いほうだ」
「……キリエ姉様、ファレルさんはとてもお優しくて、強い方です。父上にもきっと認めていただけるくらい……」
「っ……ネイロ様、あなたはご自分のしたことを分かっておいでなのですか」
ネイロの訴えを遮るキリエ――カルアは感情をほとんど出さなかったが、キリエは目だけでも感情が伝わりやすい。
「その子を怒らないでやってくれ……と、俺が言うのも違うか」
「いえ、ファレル様は確かにお優しくて、誰にも負けないほどに強いので、訂正の必要はありません」
セティが俺を信奉しているみたいになってしまっている――ほどほどにするように頼んだ方がいいだろうか。さすがに少々恥ずかしい。
「……そうか。そちらの女性もだが、異なる種族に信頼されているということは、こちらとしても好ましいことではある」
「私のこと、見ただけで分かってしまいますのね……鋭い方ですわ」
「キリエさん、それはどういう……」
「今はこれ以上話すことはできない。我々は中層街にも連絡所を持っている……日を置いて、この場所を訪ねてもらいたい」
キリエはセティに紙片を渡す――そして、ネイロと一緒に深々と頭を下げてきた。
「次の長であるこの子を助けてもらったこと、どれだけ礼をしてもし尽くせない。ここで追い返してしまう無礼を、どうか赦してほしい……」
「謝ることはないさ。礼も気にしなくていい、俺たちがそうしたかっただけのことだ」
「ファレルさん、皆さん……本当に、ありがとうございました……!」
ネイロは顔を上げないままで言う。それでも彼が泣いていることは分かった――涙の雫が落ちていたからだ。
「……洞窟を出たあとは、こちらに入ることはできなくなる」
「ああ、分かった。元気でな、ネイロ」
「はい。皆さんも、どうかお元気で」
俺たちは『水鏡結界』の洞窟をあとにする。洞窟から出る前に振り返ってみると、どういった原理なのか行き止まりになっていた。
「幻術の類でしょうか……優れた術師がいるようですね」
「あのキリエっていう人もなかなか腕が立ちそうだ……最初はいつでも戦えるって空気だったが、途中から敵意がなくなった。セティとリィズのおかげかもな」
「僕たち……ですか?」
「何だか分かりませんけれど、そういうことなら良かったですわ」
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