第10話 湯浴み


 窓から差し込む光で、時刻が昼になったと分かる。


 彼はもう泣いてはいない。ずっと近くにいてもそれはそれで気になるかと思い、俺は厨房で療養食の献立を見ていた。


(精神的なもので食事が摂れない場合、どうすればいい? 身体的なことで食事が摂れないなら、そう説明されるだろうし。エドガーはヤブ医者じゃない)


 消化の負担が小さく、栄養のあるもの。食事を摂っていなかった身体を驚かせないくらいに優しい味付けで、それでいて滋味のあるもの――それは、理想を求めすぎているか。


 竜人が好きな食べ物というのも考慮に入れるべきか。『グライドアーム』のグラは翼竜種で好物は肉だが、葉っぱや果実も好んで食べる。


 どんな竜の性質を持つ竜人かが食べ物の好みにも影響すると思うが、それを知るすべはあるだろうか――と考えて。


(……角……メネアさんは竜の角も薬の素材として使うから、形状が分かる図鑑を持ってたな)


 迷宮3層の砂漠地帯に『スピノドレイク』という大蜥蜴が生息しているが、これも分類としては竜の一種で、背中に生えている角を採取したことがある。


 それ以外にも竜種の角を見つけたら報酬をはずむと言われたが、その時にメネアさんは図鑑のページを開き、何種類かの竜を見せてくれた。


「すまん、ちょっと出かけてきていいか。すぐに戻る……」


 一声かけようとダイニングルームに向かう――すると。


 彼がコップに口をつけている。飲まないかと思って後で下げるつもりだったミルクを飲んでいる――ほんの少しだけだが。


「っ……の、飲めるのか? 普通のミルクだけど……」


 ふるふる、と首を振る――飲めないという意味かと思ったが、彼はもう一口飲んでみせる。


「んっ……」


 そして俺をじっと見る。どうすればいいのか――俺は一つ思いつき、紙を持ってきてペンで幾つかの単語を書き記した。


「えーと……王国語自体は分かるんだよな?」


 頷きが返ってくる。読み書きができないだけで、聞いたり話したりはできる――それならば。


「これが甘い、塩辛い、辛い、酸っぱい。熱い、冷たい、良い、悪い……他にも色々あるけど、まず、今のミルクはどれだった?」


 彼は人差し指で『甘い』と『良い』を示す。そして、『熱い』と『冷たい』の中間あたりを示した。


「……あ……ぅ」

「よし、温度は丁度良かったんだな。もし熱めの方が好みだったら、そのときは『冷たい』『悪い』を示してくれ」


 話せるようになったら文字で伝える必要もなくなるが、どれくらいかかるか分からない――それまで、不自由をさせないようにしたい。


「…………」

「……ん?」


 紙をじっと見ていて、何も言わない――それはどういうことか。


「この中にはない、ってことか? 何かしたいことがある?」

「…………」


 彼は自分を指差す。そして――『悪い』の方を指差した。


 もしかしてここにいて気分が悪いとか、居心地が悪いということか。そんな考えが頭を巡るが、どうも違うようだ。


「…………」


 何かを気にしている――そんなふうに見えなくもない。


「……違ってたら悪いが……風呂に入ってなくて気持ち悪いとか?」


 そんな話をリベルタがしていたことを思い出す。彼は俯いてしまったが、しばらくして頷きが返ってきた。


「分かった、風呂の準備をしよう。沸かすところからだから少しかかるが」

「…………」


 今度は首を振っている。これは難しい――風呂には入りたいが、沸かすところからでは手間がかかるので遠慮していると、そういうことか。


「大丈夫だ、風呂は大事だからな。傷に障らなければ入った方がいい」


 その問題はないらしく、彼は服の袖をそろそろとめくって腕を見せ、そして指差す。傷がない、もう治っているということか。


「なるほど、大丈夫みたいだな。じゃあ俺は風呂の準備をしてくるから、ここで待っててくれ」


 今度は頷きが返ってくる。庭にある釜を使って湯を沸かし、その湯を家の中にある風呂に持ってくる必要がある――俺は浴槽に浸かることはそう多くないが、今回ばかりは湯を張ることにした。彼は浸からないかもしれないが、どうするか選べるようにはしておきたい。


   ◆◇◆


 風呂の準備を終えたあと、俺は彼に風呂場にあるものは自由に使って良いと伝えて、脱衣所に送り出した。


 意志の疎通ができるように、単語を書いた紙をいくつか用意する。普段用、食事関係、その他諸々。


 ――だいぶ時間が経って、チリンチリン、と鈴の音が聞こえた。


 困ったことがあったら鈴を鳴らすようにと渡しておいたのだが、何かあったのだろうか――と思って、脱衣所の戸を開けると。


「…………」


 さっき見たのと同じ状態――服を着たままで彼が立っていた。


「最初は入り方を教えた方がいいか……よし、分かった。とりあえず服を脱いでだな、風呂場の方に入っててくれ。椅子があるから、そこに座るんだ」

「…………」

「ああ、俺はいったん外に出てるから」


 脱衣所の外に出る――今度は鈴の音は聞こえてこない。代わりに、浴室の戸を開け、閉める音がした。


「一人で何とかなりそうか?」


 聞いてみるが、風呂場から鈴の音がする――風呂場に持ち込んでしまったのかとも思うが、細かいことは良しとしておく。


「じゃあ、入るぞ」


 さっきはあまり気にしなかったが、沸かしたばかりなので湯気が凄い。温度の調節はしたのだが。


 俺が自分で作った椅子に彼が腰掛けている。後ろにいる俺をうかがう――ちょっと身構えているようだ。


「まず、髪から洗っていくか。ここにある洗髪料を髪につけて泡立ててから、湯で流すんだ」


 彼は頷かずに、ただ見ている――こういう形での入浴は経験がないということか。


 もう『黎明の宝剣』が彼にどんな仕打ちをしていたのか、考えることはせずにおく。今度顔を合わせたら冷静でいられる自信がない。


「まあ、こんな感じだな……こんな髪の色してたのか」

「…………」


 泡立てる段階で髪の汚れが落ちた――銀色に近い髪。思っていたより長く、背中の半ばまで届いている。


 そして、二本の角。それは一見してアクセサリーのようにも見えるが、確かに頭から生えている。そして一本は折れてしまっていた。


「っ……」

「す、すまん……っ、こっちは触れると痛むか。こっちは大丈夫か?」


 折れていない方の角は触れても問題はなかった。正式な洗い方があるのか分からないが、とりあえず立てた泡をつけて綺麗にしておく。


 桶に汲んだ湯に水を入れてぬるめにしてから、泡を流す。このまま身体を洗うと泡がつくので、布を巻いて髪を上げておく。


「次はこっちの石鹸を、こうやって布に擦って泡立てて、身体を洗う。背中は俺が流すけど、いいか?」

「…………」


 頷きが返ってくる。背中の傷は薄く残っているものが幾つかあるものの、ほとんど綺麗に消えていた。


 まだ身体が出来上がっていないからか、食事の不十分から来るのか、線が細い――というか、ずいぶん華奢だ。


 竜人の特徴である尻尾は表面が滑らかで、一部だけ鱗がある。尻尾の付け根の部分の上にあるのは逆鱗というやつか――と、あまり見すぎてもいけない。


「…………」

「後は自分でできそうか?」


 頷きが返ってくる。俺は顔の洗い方と、浴槽に入っているお湯と、汲んである水を混ぜて温度を調節する方法を説明し、浴室を出ることにした。


「何か分からないことがあったら呼んでくれ。一応注意だが、浴槽に頭から落ちたりするなよ。風呂で溺れたら洒落にならない」

「…………」


 そんな心配はないくらいの年齢ではあるが、どうも俺も過保護になっている。


 居間に戻ってきて、これからどうするかを考える。ミルクが飲めるようになったなら、スープは飲めるか――そう考えてようやく、何を作るかが見えてきた。


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