バレンタイン当日

八重との待ち合わせで、八重を待たせてはいけない。それは桜が一方的に、当人である八重には伝えずに、勝手に自分の中で決めたことだった。そのため普段は待ち合わせ時間より三十分前には待ち合わせ場所に付き、彼女を待っているのだが、仕事終わりに会うとなるとそうはいかない。どうしても学生で時間に余裕のある八重のほうが先に着いているし、そうなると待たせてしまわざるを得ない。なぜそのようなことを気にするのかと言えば、理由は単純明快。

 ――またナンパされている……。

 八重を一人で立たせていると、確実にナンパされるからであった。

 鼻の下を伸ばして八重に話しかける男と、困り顔でその男の対応をする八重。いつもなら男の様子を伺いながら八重のもとに行く桜だが、今日はそうも言っていられなかった。桜は後ろから男に大股で歩みより、男の肩を強く掴んだ。

 「おい、人の恋人に何のようだ」

 桜が威嚇するように言うと、男は飛び上がるように驚いて桜と八重を交互に見る。これは信じられていないな、と思った桜であったがここで引くわけにもいかない。

 「で、何のようだ。道でも聞いてたのか」

 しかし男はまだ桜と八重を見るばかりで、何も答えない。せめてどこかへ行ってくれればいいのに、この場を動こうともしなかった。八重を待たせてしまっていることに焦っている桜は、これ以上男に付き合っていられなかった。

 「八重、待たせてすまなかったな。行こう」

 「は、はいぃ……」

 男から手を放し、桜は八重の手を取って歩き出す。この前はうっかり腰を抱いてしまったので、今回は油断することなく彼女の手に触れる。どれだけ外で待っていたのか、暖冬だというのに八重の手は氷のように冷たかった。


 桜は八重の手を引き、歩いている途中で目についたカフェへと入った。そして八重の好きなハニーミルクラテと、自分の分として特段好きでもないコーヒーを注文する。

 「それで、今日は朝に突然ラインを送ってきてどうしたんだ?」

 桜は手を放すタイミングを失い、四人がけの座席に八重と隣り合って座る。なんだか懐かしい光景だと懐古しながら、八重と繋いでいないほうの手で熱いコーヒーカップに手を伸ばす。

 今朝、八重から送られてきた『お仕事終わりに会えませんか?』という普段に比べると意思の強いメッセージを桜は思い出す。そのメッセージの理由を尋ねれば、八重は店内の音楽に消えそうなほど小さな声を出した。

 「……たし、たくて」

 「ん?」

 よく聞こえなかった桜は体を傾けて八重に近付く。すると八重が桜から手を放し、持っていたリュックサックの中から、長方形の箱を取り出した。そしてもう一つ取り出した紙袋にそれを入れて、紙袋を桜へと差し出した。

 「バレンタインのチョコを、大和さんに渡したくて」

 わがまま言ってすいません。と付け加えて、八重は耳まで赤くなり、頭を下げる。八重の手は小刻みに震えており、彼女が勇気を出して桜にチョコを渡そうとしていることが伺えた。

 「やっぱりバレンタインチョコだから、どうしても今日渡したくて……。あとで捨てても構いませんから……今は受け取ってください」

 今にも泣きそうな声を出す八重に対して、桜は口をぽかんと開けて、八重と同じように顔を赤くして硬直していた。桜はまさか八重からチョコレートをもらえると思っていなかったため、目の前の状況を上手く整理できずにいた。

 「やっぱり迷惑ですよね。すいません」

 いつまでも紙袋を受け取ろうとしない桜に、八重は拒絶をされたのかと思い、伸ばしていた腕を降ろして紙袋を自分のほうへ寄せた。そして紙袋をリュックサックにしまおうとしたところ、桜が彼女の手を掴む。

 「俺にくれるのか? 俺でいいのか? こんなさえないおっさんにだぞ」

 桜が畳み掛けるように言う。もらえると思っていなかっただけで、欲しくないわけではない。すると八重は頷き、涙目で桜を見つめ、もう一度桜へと紙袋を差し出す。

 「大和さんにしか渡したくありません。大和さんじゃないと嫌です」

 あまりにも欲しかった言葉に、桜は思わず八重を抱き締めたくなる。しかしいくら恋人とはいえ、カフェという人目が多いところでそのような触れあいはすべきでないと考え、桜はぐっと耐える。

 「ありがとう。嬉しいよ」

 その代わり八重の手を包み込むようにして自分の手を重ね、紙袋を受け取った。それを見た八重は、目元に涙を溜めたまま満面の笑みを浮かべた。

 「中、見てもいいか?」

 「はい。大和さんのお口に合うといいのですが……」

 「八重が俺のために選んでくれたものなら、なんだって美味い」

 桜がそう言えば、八重は「ひゃ」と小さく悲鳴をあげた。紙袋から長方形の箱を取り出せば、そこには『東北』という文字が他のそれよりも大きく書かれているラッピングをされていた。

 「これって……」

 それは八重が自分の家に置いていったカタログに、購入必須とマークされていた日本酒のボンボンであることに桜は気付く。それと同時にあのカタログに書かれていたメモや貼られていたふせんは、すべて自分のためにつけてあったことにも気付いた。結局桜はこのチョコを買えなかったので、八重がこれを購入することは簡単なことではなかっただろうと考える。

 「大和さんは日本酒が好きなので、どうしてもこれを贈りたかったんです」

 桜は不安そうにこちらを見る八重の手に自分のそれを重ねた。

 「ああ、好きだよ」

 「本当ですか? よかったぁ……」

 八重の手は、すっかり暖かくなっていた。

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