出会いそのに
そんな事件があった翌週、俺は会社のデスクで頭を抱えていた。
「免許証と社員証がない」
そう、この二枚のカードをなくしたのだ。財布、カードケース、手帳、何かを挟めるものの中は確認したがまったくみつからない。両方とも再発行はできる、が、個人情報が載ったカードをなくしたのは普通に絶望の一言だろう。クレジットカードのように利用停止にできるわけでもないし、落としたらもうそれまでなのだ。何かに悪用されていないことを祈るしかない。
「なぁ、受付でお前に会いたいっていう女の子が来たらしいんだけど何したんだ?」
人事に新規の社員証の申請をしに行かなくては、と重い気持ちでいると、同僚が俺のもとに駆け寄ってきてそう言った。
「は? え、何もしてないが?」
身に覚えがない。突然の来訪者に俺が固まっていると、同僚は話を続けた。
「すごい美人で、居酒屋で会ったって……。とにかく会いたいって言って聞かないみたいなんだ。大事にならないうちに早く行けよ」
美人、居酒屋。その二つの単語で俺はあのときの酔いつぶれて吐いてた女の子だと気付く。なぜ俺の職場がわかった。別れたあと付けられていたのか? それだけで職場がわかるはずはないだろう。ではなぜ?
「行ってくる。係長には適当に話つけてくれ」
俺は急いでロビーへと向かった。
一階にある受付へたどり着くと、そこには何やら受付を担当している社員と先日居酒屋で会った女の子が何やら揉めているのが目に入った。
「お願いします! 大和桜さんに会いたいんです!」
大和桜とは、俺の名前だ。なぜ名前を知っている。
「申し訳ありませんが用件をおっしゃっていただかないと……」
「お願いします!」
頭を下げて何度も「お願いします!」と言う女の子に俺は走っていき、恐る恐る彼女の肩に手を置いた。すると女の子は驚いたのか体を飛び上がらせて、俺のほうへと振り向いた。
「お嬢さん、俺に何の用?」
俺の顔を見た女の子は、眉を寄せて困っていた表情からみるみる明るくなっていく。そして俺の手を取り、嬉しそうに笑った。
「大和さん……! 会いたかった……!」
だからまずは用件を言ってくれ。俺たちを面白そうに見る会社の人間の視線が痛い。
本当なら会社から出て近くの喫茶店で話を聞きたいが、勤務中の会社員はそうもいかない。俺はぐさぐさと刺さる野次馬の視線の中、女の子をロビーのソファーに座らせた。
「で、用件は」
「これをお返ししたくて」
女の子はリュックサックを漁り、硬質カードケースを二枚俺に差し出した。返したかった? 何をだ? 俺は疑問に思いながらカードケースを受け取って確認すると、それはなくしたと思っていた免許証と社員証だった。
「は、え、え??」
なんでこの子が持ってるんだ?! なくしたカードたちと女の子を交互に見ていると、女の子が「忘れてたんです」と小さな声で言った。
「居酒屋に……」
「わす、れ…………え、……あ!」
そうだ、忘れていた。
俺は居酒屋でこん女の子の前に免許証と社員証を出してから、しまってないこととそのまま自席に戻ってしまったことを今さらながらに気付く。そしてどうやらこの子は店員に届けずに、自分で保管していたようだった。店に置き忘れたことすらわかっていなかった俺としては、こうして俺に直接届けにきてくれたのはありがたいことだ。店が保管していたら永遠に俺の手に戻ってくることはなかっただろう。
「ありがとう。助かったよ」
へらりと笑って礼を言えば、女の子が頬を染めて視線を逸らした。やっぱおっさんの笑い顔はきついのか。傷付くなぁ、と思いながらも何かお礼をしなけれとも考える。俺は少し考え、そうだと思い付く。腕時計を見れば、あと一時間程度で昼休みになるので時間もちょうどいい。
「お礼におごるから、もし君さえよかったら近くの喫茶店で昼飯でも食べないか?」
いつもコンビニ飯か社員食堂で昼飯は食べているが、職場の女性がよく話しているのを聞いてるため、一応会社の近くに個人経営の喫茶店があることは知っている。飯をおごるのは無難だが、これっきりの関係で終わらせるには最適解と言えるだろう。それにおっさんと飯を食いたくないなら、時間がないと言うなどして断りやすい提案でもあるはずだ。
女の子からの返事を待ってると、なかなか返事がない。やっぱりドン引きされたか……と思いながら女の子のほうを見れば、女の子は顔を真っ赤にして俺を見ていた。
「わ、私なんかが、そのっ、いいんですか?」
「まあ……礼なわけだからな」
判断するのは女の子のほうだし、俺のほうにはいいとか悪いとかないと思うんだが……。とりあえず拒否されたわけではないってことなんだよな?
「っと、そろそろ戻らないと。十二時になったら迎えに来るから、ここで待っててくれ」
これ以上は周囲の視線に耐えきれないし、本当にそろそろ自席に戻らないと上司に怒られかねない。
「はいぃ……」
なぜか怯んだような声で女の子が返事をしたのを確認して、自席へ戻る。
……これ、嫌なの我慢してるとかないよな? 俺は女の子の反応の意味がわからなくて、かなり不安になった。
昼休みになって再びロビーへ向かうと、女の子は別れたときと変わらない位置に座っており、スマホをいじっていた。一見どこにでもいる若者の光景のはずなのに、女の子がきれいだからか、その光景は絵になっていた。こんな美人な子が居酒屋でゲロを吐いていたなんて、言われただけでは到底信じられない。
「すまない、待たせたな」
「わっ」
後ろから声をかければ、女の子は猫のように飛び上がってスマホを落とした。
「あ。えっ、あぁ……っ」
そして真っ赤になった顔でこちらを振り向き、俺を見たと思ったら今度は顔を青くする。顔の血流が忙しい子だな、と思いながら落ちたスマホを拾えば、女の子は「見ないでぇ」と泣きそうな声で言った。
「見ないよ。ほら」
人のスマホを覗き見する趣味はない。ましてやほぼ赤の他人の女の子だ、絶対に見るわけがない。スマホを女の子に返せば、女の子はそさくさとそれを鞄の中にしまった。
「じゃあ行こうか」
「はい」
再びロビーにいる社員から突き刺さるような視線を受けながら、俺たちは自動ドアをくぐった。
女性社員に教えてもらった喫茶店へ行けば、昼飯時だというのに混んでおらず、空席が目立っていた。てっきり混んでいると思った俺はゆっくり飯が食えることに安堵する。そのため席にはすぐに案内されて、俺たちは向かい合って座る。
「好きなの選んでいいぞ」
「ありがとうございます」
一冊しかないメニュー本を女の子に差し出して、先に選ばせる。俺はスパゲッティとかでいい、ナポリタンとかそんなもん、なんか一つぐらいあるだろ。女の子はしばらくメニュー本を見たあと、俺へとメニュー本を見せてサンドイッチを指差した。
「これでお願いします」
「飲み物は?」
メニュー本を見る片手間に尋ねれば、女の子は首を横に振った。
「大丈夫です」
「そうか」
手を挙げて店員を呼ぶ。
「ナポリタン大盛りとベーコンレタスサンドイッチ、一つずつ。あとこの子にオレンジジュース」
「えっ」
彼女の主張を無視して飲み物を頼むと、女の子は目を丸くして反応する。
「おごりなんだから遠慮するな。嫌いか?」
「……」
女の子がうつむいて黙ってしまった。もしやこれはあれか。
「すまん、本当にきら――」
嫌いだったか? と言おうとしたところ、女の子が俺の言葉を遮るように立ち上がった。
「違います好きです!」
「そ、そうか」
そして喫茶店にいる全ての客の視線が集まる中、女の子が大きな声を出して言った。今まで見せなかった女の子の勢いに俺はたじろぐ。そんなに好きなら最初から頼めばよかったのに、と思っていると女の子がハッと何かに気付いたように口を押さえ、体を縮こまるようにして座った。また顔が真っ赤になっている。
「あぁあ、これは、その、そのぉ。うぅ~、私のバカぁ……」
頭を抱えて「あー」だとか「うー」だとか唸りだしてしまった女の子を眺めながら、俺は注文した料理がくるの待つ。口が寂しくて喉が渇いていないのに水を飲んでしまう。しまった、俺もアイスコーヒーを頼めばよかったな。
ナポリタンとサンドイッチと調理時間があまりかからないものだったからか、ありがたいことに注文した料理は十分ほどで運ばれてきた。
「サンドイッチ来たぞ。食べないのか?」
「たったべ、食べますっ。いただきます!」
ずっと頭を抱えて唸っていた女の子に声をかければ、女の子はサンドイッチを掴み、がぶりと食いついた。なんとなく見た目のイメージから、小さくかじるように食べるのかと思っていた俺は彼女の予想外の食べ方に少しだけ驚いた。とはいえ、俺もナポリタンを食べないとな。なぜかフォークと箸を持ってきてくれたので、箸で啜らないが麺を食べるようにして口の中へ入れていく。うん、美味いな。提供も早いし、今度は同僚を連れて利用したい。
社会人になってから、昼飯を食う速度が早くなった俺は早々にナポリタンを食べ終わる。テーブルに灰皿は置いてあるがタバコは吸わないし、食後にスマホをいじるようなこともしない。手持ち無沙汰になってしまったので女の子ほうを見たら、女の子は頬を膨らませてサンドイッチを食べる手を停止させていた。女の子の顔をよく見れば、心なしか苦しそうに眉を寄せている。これは無理をして急いで食べていたのだろう。
「ゆっくりでいいぞ。残したら俺が食う」
こんなに美味いのを残すなんて作り手に申し訳ないしもったいないし、姪との食事でよく半分食べさせられているため、残ったサンドイッチの一切れ二切れなら余裕で食える。そういった考えで言えば、女の子が持っていたサンドイッチを落とした。やはり限界だったようだ。量は多そうに見えなかったが、この子が少食なのだろう。俺は勝手にそう結論付けたところ、女の子が胸元を叩いてむせこんだ。
「ぐっ、んぅ!」
「大丈夫か?! ほら、水飲め、水!」
いっぺんに無理して食べるからそうなるんだよ。本当に手のかかる子だな!
女の子へと目の前にあった水を手渡せば、彼女はゆっくりと水を飲んでいく。コップの水を飲み干すと、女の子は再び苦しそうに胸元を叩いてむせた。もう一度彼女へ水を差し出したところ、水が少なかったこともあり、ぐいっと一口で水を飲んだ。
――まずい、やってしまった。
女の子が音を立てないようにコップを置いた瞬間、俺は自分の失態に気付く。
「すいません、本当にすいません……何度も何度もすいません……」
幸いなことに女の子には気付かれていないようで、女の子は頭を下げて謝り出す。しかし俺は俺で謝らなくてはならない。
「俺のほうこそ、その、すまん」
まごつきながら謝れば、女の子は「何がですか?」と不思議そうに聞いてきた。
「いや、こんなおっさんが口つけた水を、その、だな……」
俺はそこまで言って、手で顔を覆う。頼むから皆までは言わせないでくれ。セクハラやらなんやらと言われないようにさんざん気を付けまくった末、自分が口をつけたコップを差し出してしまうとはどれだけ馬鹿なんだ。というか、女の子が気付いていないのであればわざわざ言う必要はなかったのではないだろうか。
だが言ってしまったものは仕方がない。それにしたことは事実なのだ。こうなれば気持ち悪いでも変態でもどのような言葉で罵られようとも黙って受け入れよう。
「ひゃ」
来るであろう罵倒に身構えていると、女の子は間抜けな声を出す。
「ひゃ?」
『ひゃ』から始まる罵倒が思い付かない俺がおうむ返しにそう言えば、女の子は炎ように顔を真っ赤にさせ、頬に手を当てていた。さっきまでサンドイッチを掴んでいた手で顔を触るな、汚いだろ。頬と手を拭くのを促すために未開封のおしぼりを女の子へと差し出すが、女の子はなかなか受け取ろうとしない。
「ひゃあ、あぁ、あ……い、いやあぁあっ」
「あ、こら待て!」
それでもなおおしぼりを差し出していたら、女の子が大声で叫びながら喫茶店を出ていってしまった。俺のおしぼりを握ったままの行き場のない手が虚しいし、突然叫び走り出した女の子のせいで店内の視線が俺へと突き刺さる。会社の人間にさえ見られなければそれでよいが、誰かしら見ているだろうし、それは無理な話だろうとすぐに望みは捨てる。
しかしあれだ。俺がおごるから食い逃げにはならないが、問題が一つ発生する。
「おいおい、鞄置きっぱなしだぞ……」
女の子は自分のリュックサックを置いたまま走り去っていた。
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