出会いそのいち

 俺にはもったいない、美人の恋人。

 出会いはさぞやロマンチックなものかと言われれば、実際はそうでもない。というかむしろ全然で最悪だ。だからか八重と出会った日のことは忘れられないもので、いつでも鮮明に思い出せる。そう、八重との出会いは――

 「う、え、え、えぇ」

 「お嬢さん大丈夫? 店員呼ぶか?」

 居酒屋のトイレだった。


 全国展開しているがチェーン店ではない、社会人向けの居酒屋。

 酒を飲んでほろ酔いで気分がよかった俺がトイレに行くと、女子トイレのほうから女性の呻き声と聞き慣れた吐瀉物が便器に叩きつけられる音が聞こえた。あー、節制の効かない大学生がバカみたいに飲んで吐いてるんだな、と思いながら用を足して戻ろうとしたところ、女子トイレが並んでいることに気が付いた。並んでる女性はちょっとイラついていて、ため息を吐いたり舌打ちをしている人がいた。中で吐いてる人は気付いていないのか、それどころじゃないのか、まだ呻き声をあげている。

 「あの、あっちは男女共用だからそっち使ったらいいんじゃない?」

 「なら今入ってる子がそっちで吐けばいいでしょ?! 男が使った汚いトイレなんか使えるわけないじゃない」

 並んでる女性に提案すれば、半ギレ気味でそう言われた。男が使ったから汚いなんて酷い偏見だ。しかもさっきまで目の前のおっさんが使ってたんだが……。俺が汚いと言いたいのか。

 「もう待ってられない! ちょっと、いつまで入ってるの!」

 並んでいた女性の一人が俺を押し退けて乱暴なノックをした。しばらくその女性がノックしていると、ゆっくりとトイレのドアが開き、げっそりとした顔の女の子が出てきた。

 「すいません……今出ます……」

 女の子が緩慢な動きでトイレから出ると、先頭にいた女性が急いでトイレへ入った。そんなに我慢してたのなら、もっと早く行動していればよかったんじゃないか?

 「じゃあ、俺はこれで……」

 別に挨拶とかいらないんだけど、なんとなく言ってその場を去ろうとする。

 「うぇっ」

 「うわっ、大丈夫か?」

 すると女の子が口許を押さえ、その場にうずくまった。このままだとこの場で吐きかねないと判断した俺は、女の子を抱えあげて男女共用のトイレへ連れ込んだ。……連れ込んだ、という表現は悪いな。駆け込んだ、にしよう。

 トイレに入ったことで安心した女の子はすぐに便器へと顔を寄せ、また嘔吐し始めた。

  「う、え、え、えぇ」

 「お嬢さん大丈夫? 店員呼ぶか?」

 背中でも擦ってやりたいところだが、セクハラやら犯罪やら言われるのが嫌で声をかけるだけにする。というかドアが開いたままとは言えこのまま一緒にトイレに入っているのもよろしくない。同僚に見られたらなんと言われるかと想像したら背筋がぞっとした。

 「すいません、すいません」

 女の子はゲロを吐く合間合間に何度も謝る。先程店員を呼びに行くか聞いたが、この状態の彼女を置いていくこともできない。変な男がここに入ってきて、この子に乱暴をする可能性だってある。危険から子供を守るのは、大人として当然のことだろう。

 「う、ぉえ、え」

 ――仕方がない。

 女の子が落ち着くまで俺はトイレの出口に立つことにした。


 「すいません……」

 「落ち着いたか?」

 「はい……」

 三十分……ぐらいか? まあそれぐらい経ったころ、よたよたとしながら女の子がトイレから出てきた。落ち着いたと言っているが、顔色はとても悪い。本当ならもう彼女をお仲間のところへ戻したいが、もう少し顔色がよくなるまでどこかで休ませたほうがよさそうだ。

 「変なことはしないから、ちょっと別の座敷で水でも飲もう」

 我ながら怪しさ満点の発言である。これは絶対に断られるだろうな、と思っていると女の子は無言で頷いた。

 「えっ、いいのか?」

 まさかそう来るとは思わず、俺は驚いて言った。

 「あそこに戻りたくないです……」

 「…………そうか」

 目を伏せて言う女の子に、俺は顔をしかめる。経験上だがなんとなくわかる、これは厄介なことになるぞ。


 俺の身の安全のため個室の扉は閉めず、そして向かい合って女の子と座席に座る。運ばれてきた水が入ったコップも触らずに目で自分で取るように訴えれば、女の子はコップに手を伸ばし、ちびちびと水を飲み出した。俺のほうは飲み足りなくて注文した日本酒を口につける。

 「で、どうするんだ」

 少しずつ顔色がよくなってきた女の子に聞けば、女の子が「えっ」と言って目を丸くする。

 「お仲間のところに戻りたくないって言っても、戻るしかないだろ。荷物とかあるんだし」

 俺も考えなしに提案したが、この子もなんも考えてなかったのか。どれだけ仲間のところに戻りたくなかったんだ。

 「あ、えっと……、その」

 女の子は言葉をつまらせながら視線をさ迷わせる。

 「えーっと、そうですね……」

 「……」

 特段言うこともない俺は女の子をじっと見る。しかし吐いてるときは気付かなかったが、かなりの美人だな。ってこれ、セクハラとかにあたるか? いかんいかん。間違っても口にするなよ。

 「どうしよう……」

 無言で彼女の熟考に付き合っていると、結局何も思い付かなかったのか女の子はそう呟いて涙目になってしまった。俺ならさっさと戻って飲み直したいが、どうしてそこまで戻りたくないのだろうか。

 「友達と飲むのは嫌なのか?」

 一杯目を飲み干してしまい、二杯目を注文する。女の子のほうには温かい緑茶を頼んだ。

 「あ、その……違うんです」

 女の子が戻りたくない理由を考えて尋ねれば、女の子は控えめに首を横に振る。

 「合コン?」

 「数合わせって言われて……」

 「無理矢理たくさん飲まされた?」

 女の子が今度は首を縦に振った。

 「一応聞くけど、二十歳過ぎてるよな?」

 「先月誕生日で……」

 そこは守られていてよかった、と俺は安堵する。無理矢理飲まされたとしても、未成年というだけで世間の見る目は悪いほうに変わる。

 そして女の子が戻りたくない理由を知って、さてどうするかと考える。これを聞いてまで戻らせるほど俺は冷たいやつではないし、彼女のお仲間を呼んで持ってきてもらおうとしてもまずそのお仲間がわからない。それどころか席に戻れと言われかねない。いくらなんでもかわいそう過ぎる。ここまできて見捨てるなんてできるわけがない。くそっ、やっぱり厄介なことになった。

 「……もし君さえよかったら、俺がとってこようか?」

 「お願いします!」

 「え」

 そして頭をひねって考え抜いた末にやけくその申し出をしたところ、女の子が間髪入れずにそう言って頭を下げた。初対面のおっさんの提案に即答するなんて、そんな嫌だったのか……。俺としては「なら自分で行きます!」とか言われて断られると思っていたため、ただ驚くことしかなかった。しかし自分で言った手前、やっぱりなかったことにしてくださいとは言えない。

 「あー……とりあえず、これ、俺の免許証と会社の社員証。不安なら写真を撮ってもいいぞ」

 俺はスーツの胸ポケットに入れている財布からその二枚のカードを取り出してテーブルに並べる。女の子は俺のしたことの意味がわからないのか、目を丸くして首をかしげている。

 「君なぁ、俺が君の荷物を持って逃げるとか思わないのか?」

 女の子の防犯意識が低いところに、だから酒を無理矢理飲まされるんだよ、と言いたいのをぐっと堪えてそう言う。そんなこと微塵も思っていなかった女の子を見ていると、免許証だけでは信じられないだろうと思い社員証まで出した俺がちょっと間抜けに感じる。

 「これはそういうのはしないっていう意思表示だ。で、君のいた席を教えてくれ」

 「あっ、はい。トイレから右に曲がって行って、三つ進んだ個室です」

 女の子から席を聞き出した俺はは、親父くさく「どっこいしょ」と言いながら立ち上がる。

 「ちょっと待ってろよ」

 さて、どういう理由で荷物を取ってこようか。俺は今さらそんなことを考えながら女の子の荷物を取りに行った。揉めないといいのだが……いや無理か……。


 結末だけ言うと、最早地獄の一言に尽きた。揉めに揉めて、最終的には店員まで呼んで俺は女の子の荷物を取ることができた。

そりゃ突然知らないおっさんが自分達の輪に入ってきたら驚くだろうし、一緒に飲んでいた子の荷物を取りに来たなんて言われたらさらにら驚くだろう。おまけに俺はあの子の名前も知らない――これは聞き忘れていた俺の失態だ――のだから、何かあったと思うのが当然だろう。騙して連れてきたくせに女は彼女を心配し、下心しかない男は彼女を返せと言ってきた。元はと言えば全部お前らのせいだろ、と言いたいのを我慢して店員から女の子の荷物を受け取り、さっさと女の子のもとへと戻った。店員が味方でいてくれてよかった……。

 「取ってきたぞ」

 テーブルにつっぷしていた女の子に声をかければ、女の子は勢いよく顔を上げた。

 「すいません、寝てません!」

 「……そうか」

 このまま店から出して俺は同僚のところへ戻ろうと思ったのだが、俺がくるまで寝ていた女の子を見て一人で返して大丈夫だろうかと心配になる。やっぱり変な輩に捕まりそうだし、電車の中で寝て降りる駅を寝過ごしそうだ。せめて駅まで送るべきだろうか。……いや、なぜ俺がこれ以上面倒を見ないといけない。ここまできたらもういいだろ。

 「気をつけて帰れよ。俺はいい加減戻るから」

 自分の決断が揺らがないうちに女の子にそう告げ、返事を待たずに個室を出ていく。

 「あの、本当にありがとうございます!」

 後ろから女の子お礼が聞こえたが、もう会うことはないだろうと思いながら俺は振り返ることなく、片手を挙げてそれに応えた。

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