姪の襲来そのいち
寒空の下、どれほど待ってただろう。スマホで時間を見れば八時を過ぎたころに、桜ちゃんは自宅へ帰ってきた。薄暗いマンションの廊下の奥で、楽しそうな桜ちゃんの声が聞こえる。そして暗闇をくぐって桜ちゃんが家のドアの前、つまりはあたしがしゃがんでいたところにたどり着いた瞬間、あたしは立ち上がった。
「桜ちゃん、おそーい!」
「は、え? えっ? 雪?」
桜ちゃんにそう文句を言えば、桜ちゃんが戸惑いながら何かを自分の後ろに隠した。いつもなら何を隠したのかしつこく聞くが、今はそうじゃない。
「寒い疲れたトイレ行きたい! 桜ちゃん、家に入れて!」
長時間外にいたせていで、あたしは色々限界だった。
「え、え? なんでいるんだ?」
「あとで話すからトーイーレー!」
「わかった。わかったから大声出さないでくれ」
いまだ混乱する桜ちゃんを大声で急かすと、桜ちゃんは慌てながら家のドアを開けてくれた。あたしは家主の桜ちゃんが入るより早く家に入ると、靴を脱ぎ捨ててトイレへ一目散に向かった。
ようやくトイレに行けたあたしが清々しい気持ちでリビングに行くと、ふて腐れた顔で桜ちゃんがソファーに座っていた。そんな桜ちゃんの隣には、居心地が悪そうに絶世の美女がいる。彼女に見覚えがあったあたしは、すぐに女の人が桜ちゃんの彼女さんだと気付く。ははーん、さっき桜ちゃんがあたしから隠したのは彼女さんだったってわけね。そりゃ恋人といちゃいちゃしてる姿を人に見られたくないかー。
「兄貴に聞いたぞ。今日だけだからな」
どうやら桜ちゃんはパパに電話して、あたしがママと喧嘩して家を出たことを知っているみたいだ。こっちの話を聞かずに即パパに電話って判断早すぎ。最悪。
内心で桜ちゃんに唾を吐きつつ、どうやら泊めてくれるみたいでその優しさに笑顔になる。さっすが桜ちゃん! 話早すぎ! 最高!
「そ、れ、よ、り! 桜ちゃんの彼女さんですよね。あたし、桜ちゃんの姪で大和雪っていいます!」
今のあたしは目の前の美女に興味津々だった。前に遠目に見たとはいえ、向こうはあたしのことを知らないから実質今日が初対面。桜ちゃんとの馴れ初めとか、どこまてま行ってるのとか、とにかく聞きたいことがやまほどある。
「一色……八重、です」
あたしの勢いが強すぎたのか、彼女さん――八重さんは言葉を詰まらせながら名前を言った。名前だけじゃなく名字もきれなことに驚いて、名は体を表すっていうのはこの人のことを言うんだなって思った。
「ねーねー。八重さんと桜ちゃんの出会いってどうだったんですか?」
美人局だと勘違いしてた頃は彼女さんからの逆ナンだと思ってたけど、到底そんなことをするような男慣れしてる人には見えない。だからと言ってさえないおっさんなことを自覚している桜ちゃんがナンパするようにも見えない。二人はどこでどう出会ったのか、女の子として気になっちゃうよ。
「であい……」
桜ちゃんとの出会いを思い返したのか、八重さんの顔がさぁっと青くなる。えっ、やだなにあたしなんか地雷踏んじゃった?! どうしようどうしよう! 謝るにしても何に?
あたしがうろたえていると、ずっと八重さんの隣に座ってた桜ちゃんが深くため息を吐いた。KYな桜ちゃんのナイスな行動に、心の中でガッツポーズをする。
「雪、さっさっと風呂に入って寝ろ。どうせ服は持ってきてるんだろ」
「はーい」
サンキュー、桜ちゃん! ごめんね、八重さん!
八重さんにはあとでちゃんと謝ろう。そう思いながらあたしは着替えを持ってお風呂へ向かった。
やっぱり桜ちゃんはおっさん。お風呂って言ったのにシャワーだった。普通はシャワーならシャワーって言うよね?! もー、全然体温まんなかった!
「おーふーろーでーたー」
とは言え連絡なしで泊めてもらう身としては、あまりわがままは言えない。濡れた髪を拭きながらリビングへ行けば、ぐつぐつと何かが煮える音が聞こえた。それになんかいい匂い。晩御飯を食べずに桜ちゃんを待っていたので、空腹のお腹がぐぅと鳴った。きっとご飯作ってるんだ!
「お風呂出たよー」
もう一度言ってキッチンを覗けば、無地のエプロンを身に付けた桜ちゃんと八重さんが料理をしていた。桜ちゃんはどんぶりにご飯を盛っており、八重さんは浅い鍋に溶き卵を入れていた。
「何作ってるの?」
そう尋ねれば、二人はあたしに気付いて二様の反応をした。
「げ」
「カツ丼です。もしよかったら、雪さんも食べますか?」
桜ちゃんは嫌そうに顔をしかめ、八重さんは優しいことを聞いてくれた。彼氏への料理アピールとしてカツ丼ってどうなの? とは思ったけど、がっつりご飯を食べたかったあたしとしてはラッキーな献立だ。ところで桜ちゃん、かわいい姪っ子になんていう顔してんの?
「食べる! もうお腹ぺこぺこ~」
喜びながらリビングのイスに座れば、きれいに盛り付けられたカツ丼を八重さんは持ってきてくれた。すごい優しい! 桜ちゃんが向こうで「自分で持っていけ!」と怒っている。ごめんて。
「スーパーのお惣菜コーナーの残り物ですけど……」
「平気! いただきまーす!」
あたしは元気よく言って、カツ丼を食べ出す。温かくてお出汁がきいてておいし~い。
「お味噌汁もどうぞ」
「ありがとうございます!」
今度は味噌汁を飲めば、シャワーでは温まりきれなかった体の芯から温まる。
てゆーか彼氏とのご飯がスーパーのお惣菜がオッケーな関係まできてるってすごいね?! 最早嫁じゃん!
「桜ちゃん、結婚いつすんの?」
二人分のどんぶりを持ってきた桜ちゃんに言えば、桜ちゃんは何も言わず照れくさそうにあたしから視線を逸らした。
「食ったら寝ろよ」
誤魔化すの下手くそかよ。桜ちゃんの反応がつまらないので八重さんのほうはどうかな? と思い、八重さんを見ればタイミング良くこの場を離れて桜ちゃんと自分のぶんの味噌汁をよそっていた。くそっ……もう少し周りを見てから言えば良かった。
「大和さんもどうぞ」
「ああ、ありがとう」
八重さんが一人分の味噌汁をテーブルに置き、八重さんは突然のようにローテーブルのほうへ向かってしまった。しまった。こっちのテーブルにはイスが二脚しかないことにあたしは気付く。八重さんは遠慮して一人あっちのローテーブルで食べようとしていた。
「八重?!」
「うおっ、びっくりした」
あたしがそっちで食べるよ、と言おうとしたところ、桜ちゃんが勢い良く立ちたがって八重さんの名前を呼んだ。驚いたあたしはシンプルに自分の感想を述べてしまったが、桜ちゃんはあたしよりも驚いている様子だ。てかびっくりしてイスから転げ落ちるところだった。
「え、あ、なんでそっちで食べるんだ。嫌なのか? え、は? その、やっぱりおっさんと飯食うのは嫌だったか?」
桜ちゃん、正常な判断ができてねぇー。まず一緒にご飯食べるのが嫌ならまず付き合ってないでしょ。このおじさんはなんでそういうところに気が付けないかなー。もうちょっと自分に自信持ったら?
桜ちゃんが狼狽えている理由がわからないのか八重さんは目を丸くさせ、首を傾げた。それどころか、
「大和さんとご飯を食べるのは好きですよ?」
とちょっと的外れなことを言っちゃっている。
「じゃ、じゃあ、なんっ……」
……このカップル、大丈夫かな。
あたしは二人の未来が心配になりながら、カカカッとカツ丼を口にかきこんでから喉を鳴らして味噌汁を飲み干した。
「ごちそうさま! 八重さん、こっちでご飯食べられるよ!」
八重さんの返事を待たず、あたしは食器を片付けて歯を研くために洗面所へ行った。
桜ちゃんの家に泊まる気満々だったあたしは、着替えのみならずマイ歯ブラシもちゃんと持ってきた。歯磨き粉は勿論借りる。
「ん~ん~んん~……ん?」
鼻唄を歌いながら歯を研いていると、洗面所の歯ブラシを立てるクソインテリアに二本の歯ブラシが刺さっていた。へぇ……、桜ちゃんの家には八重さんの歯ブラシが置いてあんのね。これはもしやお泊まりはかなりの回数を重ねているのでは? とあたしは疑問に思う。だってあの桜ちゃんが、いくら恋人とは言えわざわざ前もって人の歯ブラシを用意しておくようには見えない。ならずっと置いてあるほうが自然な話だし、だとすればお泊まりも二~三回とかではないだろう。さっきの晩御飯のやりとりを見るに、桜ちゃんは八重さんにめろめろみたいだし、これは結婚秒読みだろうか。あんな美人な人があたしの叔母さんになるのかー。叔母さんっていうよりお姉ちゃんができた気分だけど。
「てか、ちょっとお邪魔虫だったかな」
よりによって、お泊まりデートだから、ね。……あっ、だから桜ちゃんあんなふて腐れた顔してたの?! うわ、まじでごめん!
とんでもないことに気付き、あたしは「あちゃー」と天を仰いだ。とは言えもう帰るなんてことも出来ないので、ここは図太く朝までいさせてもらうとしよう。
歯磨きをし終えて、暖かいリビングへ戻れば桜ちゃんは穏やかに喋りながら八重さんと食事を取っていた。桜ちゃんはさっさと寝ろと言ったけど、あたしにはやらなきゃいけないことがある。
重い気持ちで学生鞄から予備校の教材を取り出す。そしてそれをローテーブルにならべ、床に座ったあたしはのろのろと教材を開いて予習を始めた。はぁ……ほんとやだ。何が何だか全然わかんないし、もうやめたい。
「勉強なんていいだろ……。いいから早く寝てくれ」
問題を一切解かずにぼーっとしていると、ご飯を食べ終えたのか桜ちゃんが嫌そうに言った。どんだけ桜ちゃんはあたしに早く寝てほしいんだ。あたしだってこんなもん、放り投げてベッドに入りたい。
「宿題なんだもーん。早く寝てほしいなら代わりに桜ちゃんがやってよ」
「八重。片付けは俺がやるから、先に風呂に入っていいぞ」
「無視!」
そう言えば、桜ちゃんはあたしを完全無視して八重さんに言う。無視はひどいけど、言ってることは良い内容なのがむかつく。
「はい、ありがとうございます。
雪さん。お風呂上がってからでいいなら、一緒に宿題やりませんか?」
「女神! お願いしますっ」
あたしは手を合わせてお願いのポーズをとる。こんな優しい人が桜ちゃんの恋人なんてやっぱ信じられない。桜ちゃんにはもったいなさすぎるよ。
「風呂溜めていいぞ」
「お気遣いありがとうございます。でも私もシャワーで大丈夫です」
「そうか」
ねぇ桜ちゃん! あたしの扱い酷すぎない?! あたしには問答無用でシャワーだったじゃん!
「服はいつもと同じでタンスに入ってるぞ」
恨めしい目で桜ちゃんを睨んでいると、桜ちゃんがなんともないようにそう爆弾発言をした。
「ハァ?」
「ひゃ」
『いつも』? あたしはそのワードに反応する。一方八重さんのほうはと言うと、かわいい悲鳴を挙げた。桜ちゃんは自分が何を言ったのかわかってないみたいで、八重さんに「タンスの場所忘れたか?」とすっとんきょうなことを聞いている。桜ちゃんの発言で、あたしは二人はお泊まりデートはもう何回もしてることを確信する。桜ちゃんは隠す気はないのか、バレてないとでも思っているのか……。
「でででで、でっ、できるだけ早く出てきますね」
桜ちゃんのデリカシーのなさに呆れていると、八重さんが顔を真っ赤にして隣の部屋に入っていった。……タンスに下着とか取りに行ったんだな。つい八重さんが入っていった部屋のドアを眺めてしまう。
「桜ちゃん、ここ教えて」
ずっと眺めていたら八重さんも出てきづらいだろう。あたしは桜ちゃんのほうに向き直り、未だ空白の設問を教えてほしいと言う。八重さんがお風呂を済ませるまで、アテにならないけど桜ちゃんに教えてもらおう。
ちなみに桜ちゃんと話しているとき、八重さんが音を立てないように部屋から出てお風呂へ行った姿はがっつり視界に入っていた。
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