第19話 若手No. 1モデルは妹みたいな存在でした。

「あのさー、社長」

「なに?」

「最近現場でもえねえが引退するって声をよく聞くんだよね……」


塔子は髪を弄りながら、こんなの馬鹿馬鹿しい噂話だと一蹴いっしゅうする態度。

けれども瞳がわずかに揺れている。


「……それでさ。まさか……まさかとは思うんだけど、念の為に確認しとこうと思って。こんなの根も葉もないただの噂話だよね?」

「それは――」


詩葉は一瞬返す言葉に詰まった。

引退はしない。

けれども根も葉もない噂話でもない。

どのように伝えたものか、考えあぐねてしまう。

そんな曖昧な態度が、塔子に一抹の不安を覚えさせた――


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


八車やぐるま塔子とうこは十三歳の頃にティーンズ向けのファッション誌からデビューしたモデルだ。


容姿は可憐で、触れると弾ける泡沫うたかたのごとき儚さ。

しかしそれに相反した鋭いまなざしをしている。

また斜に構えた生意気な振る舞いや言動が目立ち、それが思春期真っ盛りの同世代の中高生女子に受けまくって大ブレイク。

以来、とんとん拍子でスターダムをのし上がっている。


塔子はまだ挫折を経験したことがなかった。

それどころか何をしても順風満帆じゅんぷうまんぱん

十五歳になった今では、モデルの仕事以外に有望な若手新人女優としてドラマ出演を果たし、ほかにも数々のテレビ、ネットバラエティに引っ張りだこだ。

日々の暮らしに優越ばかりを感じている。

まさに絵に描いたようなスターへの道を歩んでいるのである。


華やかな成功体験は、生来は聡明であった筈の塔子をこれでもかと増長させた。

なので塔子は基本的には他者を見下している。

しかしそんな彼女にも憧れの存在が現れる。

それこそが同じ事務所の先輩モデルM・O・Eだった。



塔子は初めてM・O・Eの撮影風景を目の当たりにしたとき、そのあまりの輝きに我を忘れた。


M・O・Eは異常だった。

いや最初のうちは正常――というかハイレベルではあるものの、至って普通のモデルなのだ。


撮影を開始した直後のM・O・Eは、カメラマンのオーダーを良く聞き出し忠実に再現する。

スタッフの言い付けもきっちり守る。

そうして周囲を丹念に観察し、注文を完璧にこなしてのける。

それだけでも現場スタッフの誰をも満足させる、まさにプロの仕事だ。


しかしそこから少しおかしくなる。

あるタイミングを境に、観察を終えたM・O・Eは雰囲気を変える。

目線、指先の角度、表情、姿勢――

それらを少しずつ少しずつ変化させカメラマンにオーダーの一歩先を見せる。

さっきまでより素晴らしい被写体が、そこに現れたのだ。

カメラマンは否応なく食らいつく。

無視することなど出来やしない。

そしてカメラマンが思う存分撮影できたと満足すると、M・O・Eはまたその先にある理想を見せる。


こうなると流れは止まらない。

M・O・Eは手を変え品を変え、カメラマンや現場スタッフの思い描く理想を、次々に体現していく。

理想のはるか先を、夢を見せる。

鮮烈な個性と魅力を放ち始める。

その振る舞いが、仕草が、周囲の視線を惹きつけて止まない。

逃れようにも逃してくれないのだ。

張り巡らされた糸に絡め取られたカメラマンは、M・O・Eはまるで蜘蛛だと思う。


ああ、もっと撮りたい。

理想の先がみたい。

いや、見せてくれ。

欲望が濁流となって撮影現場に渦巻き始める。

誰もが無我夢中になって撮影を続ける。

そうして撮影スタッフみながM・O・Eに導かれながら精魂尽き果てるまで彼女を撮り続け、最後には素晴らしい成果がついてくる。



M・O・Eの凄まじさを目にした塔子は喝采した。

――すごい。

すごい、すごい、すごい、すごい!

こんな真似は自分には出来ない。

いやM・O・E以外のどんなモデルにも出来ない。


塔子は感動に打ち震えた。

同時に少しの敗北感が脳裏を掠める。

もしかするとこれが彼女にとって初めての挫折と言えるのかも知れない。

だが塔子はそんな感情などすぐに頭から追い払った。

何故なら自分のちっぽけな敗北感などどうでも良くなるくらい、鮮やかな憧憬を抱いたから。


それからの塔子はM・O・Eに心酔した。

ファンになった。

崇拝し、近づき、よく懐くようになった。

萌ねえと名前で呼ぶようになった。


日常生活においては柔和で人当たりの良い萌華も、塔子を妹のように可愛がった。

そうしてやがて二人は、誰がみても仲の良い姉妹になっていた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


――塔子は今しがた詩葉がみせた煮え切らない態度に不安を覚える。

それを紛らわすように早口になる。


「い、引退とか絶対ただの噂だよね! だって私、萌ねえから何も聞いてないし! でもたしかに最近あんまり萌ねえを事務所で見ないから、ちょと心配してて……あ、もしかして病気? だったら私、お見舞いに――」

「落ち着きなさい」


黙るのを待ってから、詩葉は続ける。


「引退なんてしないわ。させない」


その端的な回答に、塔子は安堵した。

いくらか緊張を緩め、ほっと息を吐く。


「そ、そうだよねぇ? 絶対そうだと思ってた! あ、でもさ。じゃあなんで萌ねえ、最近いっぱい仕事をキャンセルしてるの? や、やっぱり……病気?」


今度は心配そうにしてみせる。

塔子は普段は無表情なたちだ。

けれども萌華について話す場合に限っては、様々な表情をみせる。


「……ねぇ社長。萌ねえ大丈夫だよね?」

「病気かどうかってこと? それなら心配しないで良いわ。さっき会ってきたばかりだけど、あの子なら元気そのものだったわよ」

「よ、良かったぁ……。でもそれなら何で事務所にこないのよ? 私にも連絡ないし。萌ねえと話したい事色々あるんだけど」


詩葉は考える。

活動休止については、どうせマスコミへの公表に先立って社内に伝達する予定だ。

なら先に塔子に話してもさしたる問題はないだろう。

というより萌華を姉のように慕っているこの子だ。

気乗りはしないが、ある程度事情を説明せねば納得するまい。


「……萌華は、しばらく活動休止させることにしたわ。だからこれからもっと事務所に来なくなるわよ」

「――えっ⁉︎」


塔子は己の耳を疑った。


「な、なんで?」


詩葉はため息を吐き、言って聞かせる。

萌華は拓海を引き取り、世話をしていく為に活動休止を願い出た。

その経緯を淡々と説明した。

塔子が唖然とする。


「従兄弟? つ、つまりその何処の馬の骨だか知れない一般人のせいで、萌ねえはモデルの仕事が出来なくなるわけ?」


塔子の怒りに火がついた。

……許せない。

そんなことは断じて許せない。

萌ねえはこの自分より遥かな高みに至ったトップモデル。

決して足を引っ張って良い相手ではない。

なのに……それを……!

顔を歪めながら言う。


「……ねえ社長……。その一般人の名前を教えて。私、そいつに会って話をしたいの……」

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