第17話 知らぬはお隣りばかりなり。

「お帰りなさい、たっくん!」


笑顔の萌ねえが両手を伸ばして飛びついてくる。

正面からむぎゅっと抱きしめられた。

やわらかな胸に顔を押し付けながら、もごもごと返事をする。


「た、ただひま」


萌ねえはオレの抱き心地を確かめつつ、矢継ぎ早に聞いてくる。


「学校どうだった? 友だちは出来たかしら? 授業にはちゃんとついていけてる? あ、そうだ! 拓くんてば、もしかして今朝私が作るの失敗しちゃったお弁当持っていった?」

「う、うん」

「やっぱり! 食べちゃったの?」


胸に顔をうずめたまま、こくりと頷く。


「美味しくなかっでしょうに。でもどうして黙って持っていったの?」

「勝手なことしてごめん。でもせっかく萌ねえがオレの為に作ってくれた弁当じゃないか。ちゃんと食べたかったんだ。ご馳走様」

「……ああ、拓くん……」


萌ねえは感極まって震えている。

全身でギュッとオレを抱きしめながら、声を上げる。


「なんて良い子なの! もうっ、もうっ! 本当に優しいんだからぁ!」


萌ねえは感情をちっとも抑えようとせずに、オレを撫でたりさすったり頬擦りし始めた。

スキンシップが激しい。

だがこれは萌ねえなりの愛情表現だ。

オレはそれらの行為を一切拒絶せず、全て受け入れる。


――ふと、視線が気になった。


隣りを見る。

すると顔を向けた先、すぐ側で上園うえぞのさんがドン引きしていた。


「……ぅ、ぅわぁ……」


なんか頬をピクピクと引き攣らせて、ヤバいものでも目撃したみたいな態度。

不思議に思ったオレは声に出して聞いてみる。


「どうしたの?」

「い、いや……なんていうか……凄いなって……。えっと、その人は、小鳥遊のお姉さん?」

「そうだけど」


まぁ正確には従姉なんだが、いまや萌ねえはオレにとってただ一人残された家族だ。

姉と紹介しても何ら差し支えあるまい。


「……そっかぁ。アンタってさぁ、シスコンだったんだね。それも重度の。そっちのお姉さんもブラコンだし……うへぇ、怖ぁ……」


上園さんはオレたちを眺めながら、じりじりと後退あとずさっていく。

失礼な態度だ。

というかオレはともかく、萌ねえはブラコンなんかじゃない。

単に優しいだけである。

そんなことも理解できないなんて上園さんには人を見る目がないのかもしれない。

第一これくらいのスキンシップは、仲の良い姉弟きょうだいなら普通のことだと思う。



ふぅ、とため息が聞こえた。


「はいはい、そこまで」


そばでオレたちの様子を静観していた苺谷さんが、間に割って入ってきた。


「ほら萌華。拓海くんを離しなさい」

「あ、マネージャー。居たんだ?」

「居たのよ! ったく、今頃気付くなんて、貴女ほんとに拓海くん以外は眼中にないんだから……」

「やだぁ。そんな褒めても何も出ないわよ?」

「褒めてないから!」


苺谷さんは抵抗する萌ねえを無理やりオレから引き剥がす。


「ところで貴女……その顔は……?」


萌ねえは何故かマスクとゴーグルを着用していた。

綺麗な顔がすっかり隠れている。

これでは誰が見ても萌ねえとは分からないだろう。

いやオレは分かるけど。


萌ねえは右手にスプレー缶を握っていた。

苺谷さんが尋ねる。


「……何それ? えっと、殺虫剤?」

「あ、そうだ! 聞いてよぉ! ジ、『ジー』が出たのよぉ! だからマスクして家中殺虫剤を撒いたんだけど……ううぅ」

「ジー?」


繰り返す苺谷さんに、萌ねえは心底嫌そうな口調で言う。


「分かんない? ……うう、本当は名前も言いたくなんだけど、仕方ないわね。『G』といえばゴキブ――」

「ええ⁉︎ 嘘ぉ!」


萌ねえの言葉を遮ったのは、上園さんだ。

彼女は青褪めた表情で萌ねえの近くまで歩み寄って行くと、恐る恐る問う。


「ゴ、ゴゴゴ、ゴキ――じゃなくて『G』が出たんですか? それって303号室の話ですよね? じゃあ302号室うちにもいるかも……」

「ええ、たしかに出たわ! まだ1センチくらいの小さな『G』なんだけど、2匹も!」

「ひ、ひぇぇ……」


上園さんは萌ねえと肩を寄せ合い、一緒に震え上がっている。


というか萌ねえは繊細な女性だから無理もないが、上園さんは陽キャのくせに何をそんなに怖がっているのか。

だってただのゴキブリだぞ?

たしかに生理的嫌悪は覚えるけど、そんなぶるぶる震えるほど恐ろしい相手ではない。


そんなことを考えていると、ようやく萌ねえが上園さんの存在に思い至った。


「そういえば貴女は?」

「あ、あーしですか? あーしはここの住人だけど……」


上園さんは自分の家302号室を指差した。

萌ねえがパンと手を合わせる。


「ああ、なるほど。お隣さんだったのね! 先日引っ越しの挨拶にお伺いしたときは親御さんしかお出にならなかったから、分からなかったわ」

「ど、ども。あーし上園沙耶香っていいます」


ぺこりとお辞儀をしてみせる上園さん。

萌ねえもお辞儀で返す。


「これはどうもご丁寧に。私は――」

「あ、萌ねえ。ちょっと補足するとさ、こちらの上園さんは家がお隣さんってだけじゃなくて、オレのクラスメートなんだ」

「へえ、そうなの」


萌ねえはオレを招き寄せると「さっそくお友だちが出来て偉いわ」とか「初めての友だちがこんな可愛らしい女の子だなんて、ちょっと妬けちゃう」とか「でもさすが拓くん、モテモテね!」とか言って甘やかしてきた。


上園さんはまた「……うわぁ……」と言う顔でオレたちを眺めている。


萌ねえはオレの撫で心地を一頻ひとしきり堪能してから、再び上園さんに向き直った。


「えっと、ごめんなさい。自己紹介が途中だったわね。沙耶香ちゃん、よろしくお願いします。私、瀬戸萌華って言います」


その名前を聞いて、上園さんは察したようだ。


「それって……たしか昼間に小鳥遊が言ってたモデルの?」

「あ、そうそう。その話なんだけどさ」


オレは彼女に説明しようとする。


「上園さんの憧れてるモデルさんの話。M・O・Eって人なんだろ? それなら今ちょうど目の前に――」

「ちょ⁉︎ ちょっと待てぇぇぇぇい!!」


ビクッとする。

突然、苺谷さんが大声で叫んで話を遮ったのだ。

い、一体なんだ⁉︎


「――待て待て待て待て待て待て待て待て、待って! ほんと待って! 拓海くん待ちなさいっ!」


苺谷さんは猛烈な勢いでオレの両肩を掴むと、慌てて廊下の端へと引き摺っていく。

耳に口もとを寄せて、小声で囁く。


「……ちょっ、ちょっと、拓海くん! キミ、いま何を口走ろうとしたの……」


それは上園さんに「M・O・Eは萌ねえだよ」って教えてあげようとしただけだ。

だって彼女はM・O・Eに凄く憧れているらしいのだし、崇拝するその相手が近くにいると分かれば喜ぶだろう。


オレの返事を聞いた苺谷さんは、深くため息をいた。

ゆっくりと左右に首を振る。


「はぁ、拓海くんは、もうM・O・Eのことに気付いちゃったのね……」


そりゃそうだ。

遅かれ早かれ気付く。

だって今日も帰宅途中に気を付けて観察してみると、街中至る所に萌ねえのポスターが貼られていた。

今まで気付かなかったのが鈍すぎたくらいだ。

苺谷さんが続ける。


「でもダメよ。その話は誰にもしちゃダメ!」

「……どうしてですか?」

「どうしてもよ! もしこのことが誰かに知られようものなら、キミと萌華は今の同居生活を続けられなくなる。そう肝に銘じなさい」

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