第9話

明くる朝、私は曇天のような心持ちを奮い立たせて身支度を整え、それを顔に出さないよう気をつけて朝餐を済ませた。


そしてマストレットとガネーシャを書庫に案内する。二人とも目を輝かせて多種多様な蔵書の棚を見回していた。


「こちらの棚は語学、その隣は経済学ですわ。あちらは古くから伝わるものから流行を捉えたものまで含む物語、それから──」


「ガネーシャ、あの扉は?」


私が書架ごとの説明をして回っていると、マストレットが書庫の奥に目をつけた。


扉の奥には二人に見られたくない書物がある。鍵がかけられているから、マストレットが好奇心でドアノブを捻っても開かない。


「マストレットお兄様、その扉の向こうには希少で特別な書物が収められた書架が並んでおりますの。入室出来るのは公爵家でも限られた者のみですわ」


「ガネーシャは入る事を許されているのか?」


「私は公爵家直系の娘ですので、お父様より鍵を与えられておりますわ」


「ガネーシャが鍵を与えられているのなら、その鍵を持ってきて開けてくれないか?」


ああ、マストレットの執着心が面倒くさい事。


「残念ですが、本日はそちらへの案内をお父様から許されてはおりませんので、致しかねますのよ」


あしらおうとしたら、マストレットは瞳を翳らせて、見るからに不満そうな顔になった。


「そうか、私達は公爵家に迎え入れられても、所詮はよそ者なんだな」


「考えすぎですわ、マストレットお兄様。まだ公爵家に来て日も浅いですもの、単にそれだけの理由でしてよ。それより先ほど紹介致しました語学と経済学の書物をご覧になって下さいませ。長男のマストレットお兄様には必須になりますわ」


内心ではうんざりしながら話題を変えようとしたものの、マストレットは諦めようとしなかった。


「ダリア、お前も同じ思いだろう?」


「ええ、お兄様。私達は公爵家から認められていない存在……招かれざる者なのですわ。今なお使用人さえ私達によそよそしいですし、こんな惨めな思いをさせられるだなんて」


言い募る二人は、すっかり悲劇の主人公気取りだった。本心でも何かを狙っているとしても、お父様から許しを得ていないのは事実だし、こんな事を私に言い募られても迷惑でしかない。


かと言って、冷たく突き放して私への悪意が増幅してしまうのも、後でお父様にどのような告げ口をされるかと思えば都合が悪いから、言葉は選ばないといけない。


「お二方とも、寂しい事を言わないで下さいませ。私達はもう家族ではありませんか。お父様もお二方が我が家に馴染めば、必ずお許しを下さいますわ。まずは公爵家の子として然るべき学びに励む事から始めて下さいませね」


落ち着かせようとすると、マストレットは目尻を吊り上げた。


「私に学びが足りないと言うのか?これでも父上から子爵家に居た頃から、様々な事を教わってきたんだ。それも知らずに侮るというのか?」


呆れたわ。デビュタントもまだの子供、それも少女に向かって感情的になって、鬱屈していたものを爆発させて声高にがなり立てるだなんて、どれだけ幼稚なのよ。


「私を責められても困りますわ……マストレットお兄様……私はただ、お父様のお言いつけを守って、お二方に書庫の内容を説明させて頂いておりますだけですのに……」


幼稚には幼稚な正論で返すわ。私はショックを受けた様子を作り、うつむいて指先で目もとを押さえた。さすがに涙までは上手く出てくれないわね。


それでも消沈している姿には見えたようだわ。マストレットが慌てだした。


「ガネーシャ、お前の言い分を歪曲して責めるつもりはなかったんだ。どうか泣かないでくれないか?確かに子爵家と公爵家では学ぶ内容も、深さや幅広さも違うだろう」


譲歩せざるを得ないわよね?告げ口が困るのは私だけではないわ。愛人の子として公爵家での立場がまだ確立されていない二人も足場が脆くなりかねないの。


「……マストレットお兄様……私の立場にご理解を下さいますの?私もご希望に沿えない事は心苦しくございますのよ」


「ああ、理解出来るとも。ダリア、お前も今はまだ致し方ないと、時が経てば父上も認めて下さると納得出来るだろう?」


「……ええ、お兄様。ガネーシャお姉様はお父様のご意向に添って、ご自身のお時間を割いてまで、私達を案内して下さっているのでしたわよね。申し訳ございませんでしたわ、ガネーシャお姉様」


なぜダリアは不機嫌も不満も、全てをあらわにして言葉を紡げるのかしらね。


その嫌味たらしい言い方は、マストレットも気づいているのではないかしら。どこか気まずそうにしているわ。


「ガネーシャ、私は公爵家の子息として、今許されている勉学と求められている勉学に励もうと思う。そうすれば父上に認められる為の近道にもなるだろう」


先ほどまでの高圧的な態度から、がらりと変えて出てきたわ。謙虚で前向きなようでいて、卑屈に見えるのよね。


やはり育ちのせいかしら。そこを蔑んでも誰の為にもならないから、敢えて口にも顔にも出さないけれど。


「マストレットお兄様、そのお言葉をお父様が耳にされましたら、どれだけお喜びになるでしょう。私も仲違いせずに済んで嬉しいですわ。兄妹ですものね」


マストレットはとりあえず押さえたわ。今日の言動から考えると、我慢は続かないでしょうけれど。それでも時間稼ぎは一日でも出来た方がいいもの。


──問題はマストレットに応えた後に黙り込んだダリアね。どうにも何かを狙っているようにしか見えない。マストレットを陰でけしかけるかもしれないわ。


「ダリアはマストレットを上手く操ってるよ。恐らく鍵を手に入れる為に暗躍するだろうね」


不意にベリテが語りかけてきた。ダリアとマストレットの関係性を観察していたようね。これには私も同感だわ。


「まずは語学に関する書物を何冊か部屋でゆっくり読み込みたいが、それは許されるのか?」


「……あら、お兄様。それなら私は流行りの物語をお借りしたいですわ。ガネーシャお姉様、よろしいかしら……」


私は二人の本性をぶつけられたし、それは起きた事実で現実なのだから、今さら擦り寄ってみせても遅いわ。まあ、蒸し返せば私が意地の悪い人間扱いされるから耐えるけれど。


「マストレットお兄様、もちろん大丈夫です。むしろお父様も喜ばれますわ。この書架の書物は語学の基礎から応用まで学べますもの。ダリアも好きな物語を選んでね。今の流行といえば悲劇ね」


「ありがとう、ガネーシャ」


「ガネーシャお姉様、ありがとうございます」


「どういたしまして。では、お二方とも読みたい書物を選んだら出ましょうか。書庫に来てから、だいぶ時間が経ってしまったわ」


「ああ、分かった」


二人には昼餐に遅れないようにと言うつもりで勧めたけれど、正直げんなりしきってしまった私には、食欲なんて微塵もないわ。


部屋に戻ったら、メリナから厨房に私の分の食事は軽いものを中心にするように言ってもらう事にして、私は書物を漫然と選ぶマストレットとダリアを眺めた。


好奇心のあるふり、というのは分かりやすいものなのね。二人ともページを繰る手こそ止まらないものの、目が文字を滑っているのが、ひと目で分かるの。


本当にくだらない事に時間を使わされたわ。鍵のある書庫に入れない時点で、さっさと怒りに任せて出ていけば良かったのに。


下手に機嫌を伺う兄妹というのも面倒だと思うけれど、もっと面倒なのは企みを捨てない兄妹よ。


この場はやり過ごせたものの、問題はその後、表面上は平穏に済ませていたマストレットが、執念深く書庫の奥の鍵を狙っていた事から状況が動き出してしまう事だった。


ただ、それはまだ先の話。私への害意を表すのはダリアの方が早かった。


公爵家の娘として迎え入れてもらえたのに、それを内外問わず認められていない現状は、ダリアからすれば自尊心を傷つけられたらしい。


その矛先を向けるのが私というのも、前世の最期にダリアが告げた言葉を思い出せば、なるほどとは思うものの、──ダリアはまだ精神や思考が幼く、そこから起こす行動も幼かった。


幼さは無邪気でも時として毒になる。それが毒として意識しながら動く幼さならば、それはもう純粋な殺意に近いのよ。


ダリア本人は、それを自覚していたのかしら?


推察する事すら、前世で苦しめられた私の脳は拒否するけれど、ダリアは止まらないもの。


止められない動きには、対応してゆくしかないんだわ。


だって、前世とは違う新しい運命は、私という歯車を変えて回り始めているもの。


私はそれを狂わせないように、潤滑に回ってくれるように、慎重に丁寧に様子を見て、待ち受ける未来が回り切った歯車により、来たるべき時を確かに指し示す事を目指すのみよ。

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