人と夢

道草

人と夢

 目を瞑る。

 目を瞑ってもそこは完全な暗闇ではなく、奥行きのある、いわば宇宙空間のような、荒涼たる黒である。それはいくつもの黒い顆粒が寄り集まってできたように蠢き、私の意識を飲み込もうとする。

 目を澄ませば、その黒の中にふと、ちらちらと光るものが見える。それは時として波を打ち、小さく弾け、薄く伸び、淡く色を放つ。それは色というには朧げなもので、子ども時代の線香花火を記憶の靄越しに見つめるようなものである。

 視線を更に奥へと進めていく。

 瞼の裏の奥の奥、更に奥へと行くと、遂には何も見えなくなる。漠然とした黒も、ちらつく光も、何も見えなくなる。

 そして私は夢を見る。


      *


 今自分が夢を見ているのか、見ていないのか、その区別さえつかないほど頭はぼんやりとしていたが、ただ自分がそこに立っているということだけがはっきりとしていた。

 私は金属の本棚の前に立っていた。

 何故か。

 私はその理由を知っている。

 ふと本棚から視線を逸らして、横を見る。

 隣に、一人の女性がいた。

 これも何故か知っていた。

 私は問う。

「何をしているのですか」

 女性は分厚い本の活字を目で追いながら答える。

「三角形の謎を追っているのです」

 それは音の振動、すなわち声というよりは文字を読んだときのように、頭の中に直接響くようであった。

 私はまた問う。

「貴女の名前は」

 今度はこちらの方を向いて女性は答えたが、女性が口を動かすのに合わせて雑音が被さり、よくわからなかった。

 ただ名前を聞いただけのはずが、何やらとても大切なものを聞き逃してしまったような、虚しいような気持ちが突如として私を襲った。

 すると女性は本を閉じて、出口へと歩いて行った。

 私はそれを追いかけようとして足を前に出そうとするが、まるで泥沼にはまったように体が思い通りに動かない。

 私は力一杯に体を前方へと押し出すが、足は一向に踏み出せない。

 そうしているうち女性はどこかへ消え、本棚の前に私だけが残った。

 再度本棚に目を移すと、「さんかく」と記された本が目の前にあった。先程女性が読んでいたものである。

 私はそれを手に取って、開いてみた。

 どの頁も真っ白で、何も書いていなかった。

 それでも私は頁をめくり続けた。

 最後の頁にだけ、三角形が描かれていた。

 歪な形をした、一つの三角形である。

 私はにわかに恐怖を感じたが、その頃には視界がぼやけ、体が夢から引き剥がされつつあった。 


      *


 私と女性は向かい合わせになって座っていた。四方は無機質な色をした壁に囲まれており、扉がない。

 女性はやはり本を読んでいた。表紙を机に伏せてあるため、何の本なのかは判断できない。

 私は試しに問うてみる。

「それは何の本ですか」

 女性は顔を上げて答える。

「文芸に関する本です」

 そういえば、私は文芸部だった。恐らくこの女性もそうなのであろう。

「貴女は何か書きますか」

 私はまた問う。

 女性は答える。

「何も」

 すると不意に女性は席を立ち、扉の方へ歩いた。いつの間に扉が出現したのだろうか。

 女性は扉の取っ手に手を掛けた。私は最後にもう一度質問する。

「本当に何も書かなくていいのですか」

「ええ、私は幽霊部員として生きていくので」

「幽霊……」

 女性は部屋の中に私を残したまま音もなく扉を閉めた。

部屋は恐ろしく閑寂としていた。


      *


 がたごとと音がして、体が不規則に揺れる感覚があった。

 目を開けるとそこは列車の中で、窓の外は黒い。どうやら丁度トンネルを通っているところらしい。車両の照明が黄色く明滅して、窓の外にもう一つの車両を作り出していた。

 手には切符が握られていて、東京から青森と記されている。そうだ、私は青森へ行くのだ。

 車内には私とその左前に座る女性がいるだけで、他に人はいないようである。車両の横の扉もなかったが、私は特に気にも留めなかった。当たり前のことである。

 またがたごとと音を立てて列車が揺れ、窓の外に夜空が広がった。先程のトンネルの黒とは異なる、墨汁のようなとろみのある黒で、今にも空から滴り落ちてくるのではないかと思われた。

 そこにぷかぷかと浮かぶのは飴色の月で、その輪郭からは幾重にも輪が描かれ、夜空に飴色の雫を一滴垂らしたかのようであった。

 再び車内に視線を戻すと、先程まで左前の席にいた女性が消えていた。どこへ行ったものかと辺りを見回すと、彼女は私の後ろの席でこちらに背中を向けて座っていた。

「貴女も青森へ御用ですか」

 私がそう問うと、女性は振り向かないまま答えた。

「ええ、まあ」

「どのような御用で?」

「青森で暮らす姉に会いに行きます」

 私は髪を結い上げた女性の、露わになった白いうなじを見ながら、「なるほど」と曖昧に返事をした。

「そちらは?」

「林檎をたらふく食べようと」

「ご冗談を」

 女性は相変わらずこちらに背を向けたまま、くすくすと笑った。どのような表情で笑っているのかはよくわからない。

 すると車両が大きく揺れて、照明が点滅した。窓の外を見やると、そこは一面の海で、月明りが漆黒の水面を滑るようにして照らしていた。列車はその月光の線路を、水飛沫をあげながら進んだ。雨粒が打ち付けられるように、窓に水滴が付いた。

 やがて列車は車体を傾け、海の中へと潜っていった。水飛沫の音が消え、辺りはにわかに静寂に包まれた。

「本当に青森へ向かっているのですか」

 私は不安になって、女性に尋ねた。

「ええ、もちろん」

 女性は窓の外を眺めながら答えた。窓に女性の顔が映って、二人の女性が見つめ合っているように見えた。

 私は「そうですか」と言って、拭いきれない不安を抱えながら目を瞑った。


      *


 心と書いてごらん、と女性は私に言ったので、私は人差し指で空に「心」と書いた。

「貴方には何が見えます?」

「何って、そりゃ『心』という字でしょう」

 女性はふふんと微笑んで、「ではもう一度書いてごらんなさい」と言った。

「今度はもう少し、丸く書いてみてください」

 私は言われた通りに丸く「心」と書いた。

「さて、何が見えます?」

「やはり『心』です。丸っこい『心』です」

「私にはもっと別のものが見えます」

「それは何ですか」

「笑顔です」

 そう言って、女性は私の顔の前に「心」と書いた。否、「スマイル」を描いた。

「二画目は口で、三画目と四画目は目です。どうでしょう、笑顔に見えませんか」

「確かに、言わんとしていることは分かります。しかし、一画目は何ですか」

 すると女性は顎に手を当て、しばらく沈黙してから言った。

「きっとえくぼですよ」

 そう言って、「貴女」はふふと笑った。


 そのとき不意に視界が歪み、辺りに薄靄が立ち込めてきた。眼球が裏から引っ張られるような感覚と共に視界が白く覆われていき、「貴女」も靄の中に消えていった。

 私は溺れるようにして夢と現の間を彷徨い、流木のように波に揺られた。

 意識と身体がうまくはまらず、私はしばらく悶々とした。やがてそれが落ち着くと、瞼越しに温かい光が私を包み込んだ。

 私はゆっくりと目を開けた。外から差し込む曙光が部屋の中に筋をつくり、私の隣に畳まれた空の布団を照らし出していた。布団はひんやりとしていて、とても人間が眠っていたとは考えられなかった。

 しかし、この布団は確かに人間に使われていたものである。私の妻が使っていたものである。

 私は夢を見ていたらしい。ひどく懐かしく、温かい夢だったように感じられた。しかし一方で、心を締め付けられるような感覚もまたあった。

 私は心の中にしまい込んだ記憶が漏れ出さないように、思い切って布団を出た。

春の空気がふわりと舞った。

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人と夢 道草 @michi-bun

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