第漆話・別離

「あら…」

 三鈴の自宅にて。母の由良ゆらが振り返ると、時折そこにいる『影』。

 初めに見た頃のそれは、多少哀しげではあったが普通の表情で。台所の壺の陰や棚の後ろにひっそり佇み、こちらを見つめていた。

 それが時が経つにつれ、顔つきはどんどん変化する。物寂しげな表情であったのが徐々に目尻がつり上がり、口角は逆に下がってゆく。

 由良はそれに恐怖を覚えてはいたが、次第にわき起こるは、同情心。

「そう…そうよね。悔しいよねぇ。そんな若くして死んじまうなんて」

 うん、うんと頷きながら、恐らくは他のも者には見えていないであろう、黒い霧を纏う影に一人で声をかける。

「そうなのね、あの子が憎いんだね。わかる。あんな役立たずよりもお前がいてくれた方が、きっと全てが良かった筈よ」

 影は無言のまま、黒い霧をうごめかせている。

「大丈夫。私があの子を消してあげる。そうしたら、お前はまたお母ちゃんのお腹に入っておいで。でも…」

…くれぐれも女には生まれ変わらないでおくれ。女になっても、何も良い事なんてないのだからーー。





 ーーーーー


 深々とお辞儀をする三鈴。詫びの言葉と、離別の言葉をひたすらに吐きながら。

「私はやっぱり、若様に相応しくないように思います。現に日本人の私といるせいで、若様の身が危険な事になっているし、今はこうして仲良しでいても、いずれはきっと、拗れる気がしています」

「……」

 ギョヌは黙って聞いている。三鈴の突然の別れ言葉に頭の整理が追い付かず、呆然とするしかないのであろう。

「私の事はもう、放っておいてほしいです。どうかお忘れ下さい」

「…私を、嫌いになったのか?」

 ギョヌがようやく口を開く。虚ろな表情で目の前の可憐な少女を見据えながら。そして。

「どうなんだ!」

 押し黙る三鈴に、突如声を荒げた。三鈴に対し怒りの感情をぶつけたのは初めてだ。彼女にだけは穏やかでいたいと常々思っていたのにだ。

「…元々、この国の人は、乱暴で平気で嘘をつくし苦手でした。お父ちゃんと市場に買い出しに行った時も、わざと道を間違えて教えられたり、お金をちょろまかされたりで迷惑でした。今日も今日とて、集団で石を投げてこられて…一気に嫌になりました」

「…三鈴」

「大嫌いです。もう、全部が嫌です」


『全部が嫌い』

 言葉というものはえらく残酷なもので。たとえ本心ではなきにしろ、向けられた側は少なからず痛みを伴うものだ。

 ギョヌは何も返す事が出来なかった。言うだけ言って、そのまま自宅の方向へと去りゆく三鈴の姿を見送るしかなかった。


「ふうん、そう来たか」

 呉服屋の少し錆び付いた看板にて、長身をかがめながら隠してかの二人の悶着を一人眺めていた阿波野。これまで二人が来日できるよう軍の上層部に伝達を頼んだりと、協力はしてきたが。

 人との繋がりは脆い。しかも一度切れた糸は二度も繋がらない。

 ふん、所詮はこんなものだろう。

 二人で勝手に盛り上がっておいてこの体たらくだ。

「せっかく本国から良い返事が来そうだったのに。本当にバッカみてぇ」

 鼻で笑いながら、それでも少し哀れむように呟きながら。棒立ちしたままのギョヌに気付かれぬよう、阿波野もその場を後にした。

「それより、ギョヌにシメられてたあの集団が気になるなぁ。何だ、変な念仏みたいなのを唱えて。あいつ聴こえてたかな…?」




 早寝早起きの規則正しい生活。薬もたまたま良い感じに効いたおかげかしら?

 私の左肺の化物は大人しくしているみたい。

 でも、決して消える事はない。またいつ暴れだすかも知らないんだ。

「あら、最近あの貴族さんと会ってないのね?」

 由良が珍しく、自分から声をかけてきた。例の病の件以来、最低限の事でしか娘の三鈴と話す事がなくなっていた。

「うん…、もう会わないんだ」

「へえ。あんな仲良さげだったのに。それこそ結婚でも出来ればあんたも玉の輿に乗れたろうにね。それに、」

 母は不意に含み笑いを浮かべる。

「あの人器量も良いから、きっと…」

「え…?」

「何でもない。あ、ちょいと出掛けてくるから留守番してなね」


 膝を抱えて、以前ギョヌに買ってもらった珊瑚色のコッシンを眺める。

 彼に会うたびに履いていたこれも、もう捨てた方が良いとは思うが、綺麗に洗って自室の小さな棚に置いてしまっているのだ。楽しい思い出だけは残しておきたいという思いからであろうか。

 写真もまた同様だ。こちらはギョヌの姿そのものがいる。目にするたびに辛くなるだろうが…やはりすんなりとは廃棄出来ない。

「そういえば、赤い染みは…」

 三鈴の胸元の部分に不自然に付着していたそれはまだある。が、それ以上の変化はみられず。

 その代わり、今度はギョヌの方に微妙な変化が生じているのである。しかし、自ら彼を突き放した罪悪感からか、少し顔がきつくなっているように思えてしまうのだろうと三鈴は目を反らした。

「行ってらっしゃい…」

 おもむろに母を見送る。父にもまだ、店に出ることを許されず。

 このまま私は役立たずの疫病神のまんま、朽ち果てていくんだろうな、と三鈴は虚ろに小さな自室の天井を見上げた。






 由良は、それから自宅に生きて帰る事はなかった。

 後日、朝鮮側の今にも崩落しそうな廃屋にて、凄惨な姿で発見されることとなる。

 死因は、自害とされた。

 血を大量に吐き、激しくのたうち回ったのか、扉や壁のあちこちに赤黒い引っ掻き傷や手形がこびりついている。

 数日前に獣の争うような凄まじい声を聞いたと話す住民がいたが、この辺りは虎や熊などの猛獣が出たという前例がないため、由良の断末魔の叫びであると断定された。

 朝鮮側の役人より日本の憲兵に引き渡される。

「そういやこの女、武官長を訪ねてきていたな。自害と見せかけて、まさかあの人…」

 当然噂をする者もいた。しかし、そのような事実があっても揉み消す事の出来る手だてをオ家は持っていた。

 そしてこの件は、役人の中で禁句とされていったのである。


「待たれよ。倭人の者が何用か」

 数日前、由良が訪れたのは捕盗庁の出先の役所。現在でいう県警の役割を担う朝鮮の機関であった。当然であるが、門番の役人に止められる。

「あら、ご失礼を。こちらにオ・ギョヌ様という方はいらっしゃいます?」

「オ武官長なら只今、罪人の尋問中である。勝手に持ち場を離れるわけにはいかん」

 ではこれをお渡し下さいと、年齢の割に若々しく、どこかしら妖しい色香を醸し出す由良は、一枚の封を役人に託すとすんなりと去っていく。

「何だ?オ武官長殿はあのような熟女と知り合いなのか?」

「いや俺の聞いた話だと、小娘だったような…」

 首を傾げて顔を見合わせる二人だが、門の奥から私語を慎むようにと一喝され、慌てて体勢を整える。





「よく来てくださいましたね」

 ギョヌを誘い出した場所は、前述した通りの廃屋であった。

「どういうおつもりで…」

 先日は三鈴に一方的に別れを告げられ、さらにその母親には職場に押し掛けられて、件の同僚から冷やかしを受け。不機嫌な表情のまま、ギョヌは由良に続き中へと上がり込む。

「そんなお顔はなさらないで。貴方にお願いがあるんですよ」

 元は農民の民家であったであろう廃屋の小さな部屋は、比較的綺麗に片付けられ、真ん中には数本の地酒と、丸型の食卓には肴になるであろう軽食が並ぶ。

「おひとつ」

 二人で席につくやいなや、早速酒を注がれる。朝鮮のものとは異なる匂いがした。

「これは九州の地酒ですの。飲み始めは少し癖を感じますが、慣れると美味しいですよ」

 言われるまま、ギョヌは一つ、口に流し込む。

 なるほど、確かに珍しい味わいである。しかもなかなか濃度が強そうだ。

 由良が何やら後ろにある銀色の香炉に、火を灯し始めている。

「そろそろ本題に入って頂けますか」

「あら、ごめんなさい。出来るだけ気を楽にして聞いて頂きたくて」

 切れ長の目を細め、仄かな妖艶さを放ちながら由良は向き直った。

「ご存知の通り、私達家族は日本からの移民です。もっとも夫の意向でこの国に来たわけですが。

 残念な事に、我が家には店の跡取りとなる子供がいません。娘の三鈴ではとても用が足りなくて。元々、三鈴の上に兄が一人いたのですが早逝してしまいまして」

 由良は自らも酒を嗜みつつ、おもむろにキセルをも取り出す。

 それに火をつけて直ぐ様、ギョヌは察した。

「意外ですね。まさか阿片アヘンなど」

「そこまで沼にはまってはいませんが、時折吸っているんですよ。日本では取締りが厳しくて。あれも駄目これも害だと、うるさい国でしょうもないわ」

 ふう、と阿片の毒息を吹き出す。なるべく吸い込まぬようにと、ギョヌは目を逸らしつつ酒を更に含んだ。

「そこでご提案なんですが、私、子種が欲しいんです」

「!?」

 唐突に下世話な話をふられ、ギョヌは思わず酒を吹き出しそうになる。

「今の年齢ではやや遅いかもしれませんが、まだ大丈夫。失礼ですが、旦那も三鈴と別れたと聞きました。旦那はご器量も良く、頭も切れるようで」

 由良の阿片のみならず、後ろの香炉からももっさりとした匂いが立ち込めてくる。ギョヌの視界と思考力もいよいよ揺らぎ始めているのか、次第にまぶたが重くなってきた。

「…頭より、体を使う方が得意だが」

「まあっストレイトなご冗談。でも嫌いじゃありませんよ」

 いつしか向かい合って座っていたはずの由良が、すぐそばまで寄り添ってきていた。

「私は立派で丈夫な子種が欲しいの。女なら当然の本能ですよ。そもそも娘なんていらなかったし、ね」

「トッ…、三鈴のことが…可愛くないのですか?」

「いいえ全然。肺煩いのうえに何の芸もない穀潰しですから。早死にした息子も同じ病でしたが、地頭の良い子でしたしさぞ無念だったでしょう。あの子、どことなく貴方に似てるのよ。だから…」


 もう一度、あの子をお腹に入れたい。

 ギョヌの手をとり、己の頬に寄せる。

 ぞわりと来た。


 いくら相手が美女でも、今しがた立ち込めている香が媚薬であろうとも。最早嫌悪でしかない。

 おまけに、三鈴を役立たずの穀潰しとは。私は彼女をそのように思った事はなかったが、確かに一緒にいると、どこかしら己に自信無さげな雰囲気は感じられた。

 だが、それは少なからずこの母の影響ではなかったか?顔や態度に表しては彼女の自尊心を削りに削って来たのでは?


 そして、何とも利己的な理由で、今や私の精を搾り取ろうと押し迫って来ている。仮にも娘の夫候補であったはずの私に…!


「…ならば、先ず。後ろを向いて下され」

「あら、後ろからなんて、大胆ですねえ旦那も」

 彼女の肩をゆっくり掴み、背を向けさせる。

 そんなギョヌの所作にすっかり気を良くする由良。

「どうぞこれを。更に心地好くなりますゆえ」

 ギョヌは新たに注いだ酒を、背後からするりと手を伸ばし。

 由良の口内に一気に流し込んだ。




「お帰りなさいませ、旦那、様…?」

 普段より遅くに帰宅した主を迎える壮年の使用人。一目で様子がおかしい事に気づく。

 ゆらりと馬から降りるギョヌは顔を赤らめ、息も切れぎれである。それこそ熱病にでもかかったように。

「旦那様、もしやお身体の具合が」

「大事ない。馬を繋いでおけ…」

「でも普通のご様子じゃありませんよ。ちょっと額をお貸しくださ…」

「大丈夫と言っておろう!!」

 使用人の手をバチンと払い除け、足早に部屋に籠ってしまった。

「旦那様ったらどうしたの?またえらく荒れてるみたいだけど」

「…悪いがチャン先生を呼んできてくれんか?熱がありそうだ」

 使用人の女がかかりつけ医の元へ急ぐ。門を出る際に鼠の骸が転がっているのを横目で見る。

「うわぁ…素晴らしい効果ね、日本の殺鼠剤ってのは」


「この症状は、明らかに媚薬のものですね。残り香からして恐らく獣心香、と呼ばれるもので、感情もかなり激しくなる」

 何でもないのに勝手なことを、と怒りを露にするギョヌに、チャン医師はなるべく落ち着くように宥める。

「ギョヌ、何があったんだ?」

 息子でギョヌの幼馴染みも父の助手として訪れていた。

「ユジンよ、お前はここに残ってギョヌ様の看病をしてくれ。身体から薬が抜けるまで待つしかない。だいたい一晩で治まると思うが」

「わかった…父さん」


 その後のユジンは使用人共々、ギョヌを宥めて押さえつける事に難儀する一夜を過ごす事に。

 刃物や銃を持ち出すと更に厄介なので、極力触らせぬように隠す。

 周囲の者に悪態やら暴言を吐きまくり、やがて矛先は…。

「トッキ…トッキはどこだ?」

「は、トッキ?ああ…あの」

 ユジンは三鈴の存在を写真で知っていた。質素な和服を着ているが、彼から見ても本当に可愛らしいあの娘。

「トッキを連れてきてくれ…治まりが効かぬ、早う」

 はあ、はあ、と息を切らしながら、三鈴を求めるギョヌ。薬のせいで下半身のものがもどかしくて仕方がないようだ。

「いや、無理だ。流石に連れてはこれない」

「ならば、私から行く」

「やめろって。ちょ、誰か来てくれッ!」

「邪魔をするなぁ!!」

 ガッ、とユジンの股間を蹴りあげ、部屋の扉に衝突させる。扉の金具が外れた。

「痛え…子供作れなくなったらどうしてくれる」

 急所を押さえ悶絶するユジンを一瞥して、外に飛び出していくギョヌ。

「トッキー!!見ていろ。お前を絶対に…許さんぞ、離すものか!お前の母のではない、お前のアレに、ねじ込んで二度も抜けないように栓をして…大泣きさせてやるからな!覚悟しておれーー!!」

 使用人総出で彼を制しても、彼は卑猥な暴言を吐いては荒ぶることを止めなかった。





 ーーーーーーーー


 そして今、由良の遺体は三鈴の家に安置されている。壮絶な死に方をしたであろう彼女のその表情は、地獄の亡者のようで。

 三鈴はそっと、白い布を被せる。

 父は次々と訪れる弔問客に気丈に対応しているようだが、たまに目が赤くなっている。だが、三鈴自身は、不思議と涙が出てこない。何も感じる事が出来ないのだ。


「みぃちゃん、大丈夫?」

 阿波野が弔問にきた。

「阿波野さん…何でだろ、私。あまり何も感じられなくて」

「現実感がまだないんだろ。気にする事ねえよ。ところで、ギョヌ殿は来たのか?」

「来ませんよ、だって…お別れしたから」

「……え」

 それ以上は聞かなかった。やはり、そうだろうなと。

 遺体の前で手を合わせ、では今日はこれで帰ろうと阿波野は踵を返す。と、ぼろぼろと水滴が床に落ちるのが見えた。

「みぃちゃん、」

「うぅ…う~~ッ」

 三鈴は母が死んでから、初めて涙をこぼした。口を押さえて、遺体に背を向けて泣いた。

「あのさ、…やっぱりギョヌに来てもらうか?」

「うぅ…ぐっ」

「色んな理由で身を引いたけど、やっぱり好きだよな?」

「う、うん…嫌いなわけない」

 じゃあそうしよう、俺もあいつに話があるからな、と三鈴の小さな頭をクシャ、と撫でた。




 その足のまま阿波野は、ギョヌの元へ向かう。暫し待ち、ギョヌが勤務を終えて役所の門から出るのを待ち、声をかける。

「久しぶりだなギョヌ殿」

 大使館に訪れる暴徒と共闘したり、たまに三鈴を含めて遊んだりと、仲良くしていたはずの二人の青年。


 今は、言葉で言い表せないような、不穏な空気が漂っている。




 第漆話・終




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