第伍話・結核

 二週間程経過しても、三鈴の体調はあまり改善しなかった。微熱と、長引く咳。眠りから覚めると、身体が汗ばみっぱなし。家にある常備薬では全く効く気配がないので、医師の元へ。

 一度めは風邪だろうということで片付けられたが、二度めに足を運んだ際に言われた病の名。

「労咳、でありますな」

 三鈴は微動だにしなかった。この事実に頭が追い付かないのだ。一方でやっぱり、といった感じで眉を歪めた表情の、付き添いの母。

「今すぐにどうなるという状態ではないけどね。しっかりと薬を服用して養生しなさい。この病には、それしかありませんので…」

「…はぁ」

 それ以上、母子二人は言葉を発することがなかった。ただぼんやりと、医師の後ろにある窓に視線を向ける。

風が少し強かった。


 天に召された兄ちゃんと、同じ病。いずれは真っ赤な血を吐く怖い病。死にとうない、とうわ言を言い続けながら。軍人さんになるという夢も叶える事もなく逝ってしまった、大好きな兄ちゃん。

 私もさほど遠くない未来に、同じような末路が待っている。血を吐くのはどのくらいに苦しい?想像もつきやしない。口の中が真っ赤に染まって、さび臭い味が充満して。

 怖い。

 嫌だ。

 助けて兄ちゃん。

 若様…。

 診療所から戻り、時間がたつにつれてじわじわと恐れがわいてくる。出された飯も喉を通らず、掛け布団にくるまる三鈴。

「布団虫になるだけじゃ治るもんも治せんぞ。栄養取らなけりゃ、病気の進行以前に飢えちまう」

 父に諭されても、とても聞き入れる余裕などなかった。



「こうなるのは十分ありえる事だっただろ!新天地に行くとかほざいて異国なんかに移住したから、更に面倒になったじゃない。これであの若様とも、病気を理由に駄目になるに決まってる!!」

 その夜、然程広くない庭に出て、母は父に文句をひたすらぶちまけていた。今までにたまっていた鬱憤やら不満を、全て。

「だからって今更帰国しても、また後ろ指刺される日が待っているだけだろ。源助の時の事を忘れたか!?」

「どこ行ったって同じよ!ああもう…あの聡明な源助が何故死んでしまったのよ。あの子なら立派な軍人にでもなって、こんなちんけな家ももう少しは豊かにしてくれた筈なのよ。三鈴なんて言ってしまえば、トロ臭くて何の役にも立たない子じゃない。あの後仲買人に絡まれた時に、いっそ遊郭に行ってくれたら良かったんだわ!」

 段々と、興奮している母の声が上ずってゆく。近隣にも聞こえてしまいそうだ。

「お前…それ、本気で言ってるのか?」

 じわじわと怒りが沸き上がる父。殴りかかりたいのを抑え、辛うじて握りこぶしだけを作っている。

「言うわよこの際…」

 母も一呼吸置きながら、更に続ける。

 昔から三鈴は頭の足らない子で育ちもゆっくりだった。小学校にあげてもろくに勉強も出来なくて。今現在こうして店番させても、落ち着きがなくて失敗ばかり。客には怒られるし、尻拭いもうんざりだ、と。

 散々に彼女の失態を蒸し返したかと思えば、今度は下世話な話に発展していく。

「そうね、…若い頃の私のように、女郎にすらなれないなら、せいぜい夜鷹よたかにでもなればいい。…知ってるわよ、あの子」

 顔を硬直させながら黙って聞き入る父に、止めとばかりに母は言葉を突き刺す。

「もうとうに男を知ってるよ。まぁ相手は丸わかりだけど」


時々見るんだもの。首や胸元に、そういう跡が…。


 言いかけて、母の身体は不意に吹き飛ぶ。父により左の頬を拳で打たれ、赤く腫れ上がってきていた。

「最悪、だ…。人生で最も最悪な日だ!」

 右に握りこぶしを作ったまま父はそれだけ吐き捨て、家へ一人戻っていく。

 暗がりの庭の真ん中で、残された母はハンケチを水に浸し、打たれた頬に当てる。

「飲まなきゃだめね、今夜は」

 その顔は能面の如く無表情のままで。しかし内心は言いたい事を言いきったという満足感で満たされていた。





 私の手は、こんなにも荒れていたか…?

己の手を眺めながら、ギョヌは思い耽っていた。三鈴に言われて軟膏を貰うまで、殆ど気に止めていなかった両の手の傷痕。

 刀や槍、弓や銃など何かしらの武器を常時持ち歩き、万一に備えた訓練も怠らない。今日も今日とて罪人への尋問があり、自らもその指示や、『周牢チュリ』と呼ばれる拷問のための凶器を手にしたばかりである。

 優れた戦術と判断力を買われ、若くして上の役職についたが、歳上の部下に命令を下さねばならず妬まれたりと、良いことばかりではない。それでも家から独立するためだ。

 罪人がいかに苦しもうが、最早何も思わぬ。手が荒れようが血を流そうが、何だってしてやる。

無論、あの子の幸せの為にも。



「オ武官長、お疲れ~。今日飲みに行かねえ?」

 唯一、昔と変わらずに接してくれる同じ歳の部下で、幼馴染みのチャンに誘われる。中人の身分であり、オ家のかかりつけ医師の息子だが、そのような立場など関係無く長い付き合いが続いている。

「また妓生目当てか?フラれたばかりで懲りないな」

「お前~、自分が上手くいってるからって」

「まぁ、いいよ。明日は非番だからな」

 軽口を叩き合いながら街を歩いている。と、不意に斜め後ろから声をかけられる。そこには洋式の軍服を着た男。誰だお前は、と警戒するチャンを制し、ギョヌは慣れたように日本語で問いかける。

「阿波野殿、その姿であまりこの街には来ない方が良いかと。しかし、どうかしたのか?」

「ああすまん。ちょいと倭人街に来て欲しいんだ」

 行きながら話そう、と阿波野に促される。その顔つきからあまり良き話では無いのだろうと、すぐに理解できた。

「チャンすまない。また次に誘ってくれ」




「休業しているだと?」

「そう、ここ一週間くらいかな?外から声をかけても音一つ声一つ聞こえやしないのさ」

 三鈴の自宅の店がここ暫く閉まっているのだ。見回り中の阿波野が近隣の者に聞いても首を傾げるばかりであったが、うち一人の熟年の女が、数日前の夜に男女の言い争う声を聞いたという。それもたいそうな大声で。

「何か良くない事があったのは明らかだ。でも他人の家の事に俺一人しゃしゃり出るのも何だ。ここはやっぱりみぃちゃんと仲良しのお前さんが…」

 聞いていくうちに、ギョヌの顔が徐々にこわばってゆく。阿波野に話を続ける間を持たせずに、思わず詰めよってしまう。

「異変を感じたならば、何故早くに言わなかった!?」

 軍服の襟首を掴みながら凄まれ、怯みかける阿波野だが、普段は呑気に見える彼も決して暇ではなく、言い分もある。

「あっあんたこそ、ここ暫く会いにこなかったろ!その間何をしていた?さっきだって仕事の後に飲みにいくつもりだったんじゃねえのか。会話が聞こえていたぞ!」

 俺とて多少なりとも朝鮮語を勉強していたんだ、舐めるなよ。とギョヌの手を鋭い音をたてて払い除けた。

「…それは、悪かった。私も仕事がたてこんでいたうえに、付き合いもある。とにかく資金を蓄える事に頭が一杯で…。トッキに会わねばな」

 阿波野の怒声に今度はギョヌの方が驚いたようだ。詫びながら少し息を切らしている。

「ああ…落ち着いてくれて良かったよ。行こう」


 やれ、彼女の事になるとつい感情的になるようだな…。それだけ『好き』という事なのだろうか?

 俺には恋とか愛とか、曖昧なものはよく知らない。むしろ、わかりたくもないとさえ思っていた。下半身が疼いて女を抱く事はあってもそれ以上はない。

『人の不幸は蜜の味』とはよく言ったもの。表面的には協力しても、この二人の哀れな末路を見届けて、ほくそ笑みたい自分がいるのだ。それが決して正しくは無いと自覚はしていても。


 没落士族の出自の阿波野。実の父は田原坂の戦にて散った。母はその父の弟にあたる男と再婚をしたが、その環境は散々なもので。じきに二十歳になる頃に、漸くそこから抜け出せた。朝敵と見なされた阿波野家にとっては、皮肉にも官軍である政府軍に志願して。

 ちなみに二人の親は、自宅の土間の中にて朽ちているはずである。





「ごめんください。いませんか、佐山のおじさーん?」

『佐山』は、維新後に授かった三鈴の家の姓。まずは阿波野が決して大きくはない家屋の玄関の扉を叩く。が、案の定反応はない。

 ……居ないのか?

 訝しげに互いに顔を見合せ、ギョヌが今度は声をかける。

「トッキー、私だ!居るなら返事をしてく…」

「しつこいぞ、放っておいてくれ!!」

 ギョヌの呼び掛けを遮るように、中年男の罵声が轟く。

「おじさん!?」

 明らかに三鈴の父である。人がいたのにはまずは安堵した。しかし何故に、店を閉めて引きこもっているのかがまだわからない。

「おじさん、トッ…いや、三鈴に会わせてくれますか?彼女も中にいるのでしょう?」

「三鈴…あいつはだめだ。もう誰にも会わせられやしねえ…」

 何故です?とギョヌが更に問いかけたところで、微かにだが咳をする女人の声を聞く。

 あの声は、やはり…。


 からりと乾いた音を立てながら、漸く玄関の扉が開く。

 三鈴の父がふらりと出てきた。やや恰幅の良かった容貌はやつれ、目の青グマがくっきりと表れている。

「オ家の若旦那様よ…あんたに三鈴の事は、とてもではねえが支えきれない。諦めておくんなせい」

「…?」

「あいつは病が…それも助からんやつだ」

 父がぼそぼそと呟くと共に、階段をコトンコトンと、ゆっくりと降りる音がしてきた。

 父の後ろに、白の寝巻に淡い杏色の着物を羽織った三鈴が漸く現れる。いつも後で団子風にまとめていた長い髪も、今は無造作に一本に結わえている。

「トッキ!?」

 目の前でとうせんぼをする父の横をギョヌは素早くすり抜けていく。こら、と誰が止める間も無く、目の前のやつれた少女の元に駆け寄り、勢いに任せてしがみついていた。

「…若様、だめ。移ります。労咳なんですよ。既に血痰まで出てるんです…」

「……」

「…こんなボロボロな姿、貴方には見せたくなかった」

 何を言われても彼女の身体を離す気がないようだ。

「トッキ、私は身体だけは丈夫だ。そう易々と移ることはないはず。だから、これまで通りに一緒の時間を過ごさせてくれ。それに…」

 たとえどんな姿のお前でも、見られなくなる事の方が今の私には辛い事だ、という。

「全く口が上手いもんだな」

 傍で茫然と眺めていたが、半ば呆れたように毒を吐く父。それでも、そのように思われても結構です、と気にするでもなく言い切るギョヌに、思わず父は踵を返してしまった。

「もう、二人とも勝手にしろッ」

 肩を震わせている。娘をこれ程に想う男がいることに、内心嬉しさと安堵を感じているようであった。


「親父さん、今から少し飲みにいく?暫く二人だけにしたげようか」

「バカヤロお前は、相変わらず呑気な軍人さんだよ。少しだけだぞ」

 軽口をたたく阿波野にも少し心が和らいだのか、父も漸く外に出る気になったようだ。

「よし、奥さんに怒られない程度に、って、そういや奥さんはどうしてる?」

「あいつは…、ちょいと出掛けてる」

 父は言葉を少し濁した。阿波野もその様子に気付いたようで、これも聞き出した方がいいのかな、いや面倒臭い家族だな…、と薄暗い空を見上げた。

 月が雲に覆われて、申し訳程度に顔を出していた。



「旦那、ちょっとよろしくて?」

 久しぶりに三鈴との時間を過ごしたギョヌが、名残惜しげに帰路につく丁度日付の変わる頃。父が「いない」と言ったはずの三鈴の母が何処からふらりと現れる。

 無表情で、目に光がない。美人の部類に入り、それでいて父に負けず劣らず威勢のよいあの姿は何処やら。

「おばさん、何か…?」

「あの、何でしたら、娘を今すぐにでも連れ出して、好きにしても構いませんよ…これ以上、」

 そして、ギョヌは到底信じられぬ言葉を聞く事に。


「…これ以上、厄介者の面倒を見るの、私共わたくしどもも懲りごりですから」


 絶句。意味を理解するのに、暫の間があった。





 二人で仲良くうつる写真。

 かの風変わりな写真屋に強引に撮られたそれには、現代ほど画質は良くないとはいえ、元々しみも汚れも何一つなかったはずである。

 いつしか、三鈴の左胸の部分に小さいが歪な形の赤い点が小さく付いていた。昨日二人で眺めていた際にはこのようなものは無かったのに。

「ケホッ、ゴホッ」

 写真から顔を反らして咳をしながら、三鈴は訝しげに眺めていた。

 後にその赤い点は、日増しに大きくなっていき、彼女はえらく狼狽する事になる。



 まさかとは思ったが、こんなに早く発病するとは。しかも、血痰まで出るなんて。以前に三鈴の兄の話を聞いた後に、結核についてチャン医師に聞いたりと色々調べてはいたが、進行がやけに早い…。

 しかしあの母親も…。あの夜は適当に言葉を濁して帰路についたが、何を考えているのだ?今まで三鈴を煙たがるような素振りは無かったようだが。嗚呼、色々な問題が立ちはだかって頭を整理しきれぬ。

「この赤いものといい、いつから…」

 ギョヌの持つ写真にも、同様に赤い点が出ていた。彼は用心深く、持ち歩いて落とすのを避ける為にも、常に自宅の机にこっそり隠していた。最初は自分の怪我の傷から出たものか、とも思っていたが。


…それこそ、まるで呪いのようだ。


「旦那様、旦那様」

 部屋の外から使用人の男の声。それに気付くのに少し間があった。

「お父上がいらっしゃいました」

 さほど頻繁に来ないギョヌの父が、何故にこの最中さなかに。またお説教かと面倒な気分だが、追い返したとてどうせまた日を改めて来る。

「通せ」

 中に入れるよう使用人に促す。無論、写真は机上の『脱亜論』を含む書物の間に隠した。






 第伍話・終















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