第肆話 修羅
※今回は性的・暴力等の過激な表現がございます。尚、時代考証が史実から外れている場面もあるかも知れませんが、あくまで読み物と割り切って読んで下さると幸いです。
※ ※ ※ ※ ※
「ソジンよ、そなたの婚姻もいよいよだな」
「……」
「時を同じくして、おめでたとは。それも、嫁とは異なる女とな!!」
全く何ということをしてくれた、と初老に差し掛かる男は眉をひそめる。
二十数年前のオ・ギョヌの生家にて。
若かりし頃の父・ソジンの挙式を控えていたが、全く気の進まぬ様子の彼に、ギョヌの祖父に当たる、時の当主によって大雷を落とされていた。
「父上、お言葉ですが申し上げた筈です。私にそのつもりは無いと幾度となく」
「ああ、イム・ミミとかいう使用人の小娘を気にしてな。婚約を避けたいが為に、ここぞとばかりに子作りをしたわけか」
かつての日本もそうだったように、とかくこの時代は身分による制約が厳しく、特に平民より更なる下の階級である賤民は、人に非ずと言わんばかりの扱いを受けていたようだ。無論、目上の者の言い付けは絶対とされた儒教の教えに毒されていた祖父もしかりで、下女とただならぬ関係となった己の息子を許せるはずがなかった。
「とにかく、だ。先方も大監の職にまで就いた方の御息女だ。破談にすれば互いに面汚しになるゆえ、何としてもこの縁談を進めよ」
祖父の強固な態度に逆らえる筈もなく。父は下女のミミと夫婦となることはなかった。しかし、ミミの腹の子はどうしても守りたいがゆえ、ひとまず彼女を実家に帰し、度々様子を見に訪れていた。
やがて、一人の男児が生を受けた。父により、ギョヌと名付けられた。
少々夜泣きが激しかったが丸々と健康的な体型となり、順調に育ってゆく。それに反比例する形で、何故かどんどん弱ってゆく母の体。
しまいには、床に伏したまま動けなくなった。
「ミミよ、食事が喉を通らなくなったと聞いた。一体どうしたというのだ」
家を訪れた父は、ミミの変わりようを案じる。
「ええ、口にものを入れても直ぐ吐き戻して、何も受け付けなくなりました。この子のためにも生きなくてはなりませんが、もしやと考えてしまいます」
明らかに以前とは違う顔色に、こけてきた頬。とても十八の乙女とは思えない。
「果物か何か、これは食べられそうと思う物はないか?」
「お構い無くどうぞ…。いえ、それとは別に旦那様にお願いが…」
少し咳こみながら、ミミは僅かに布団から身体を起こす。
「私に何かありましたら…。坊や…ギョヌをどうか、」
……どうか旦那様の元で、大事に育て上げてくださいまし。そして、嫡子と変わらぬような…。
「ミミ?」
「…何て、図々しいですよね。でも、私の本心で、最期のわがままです」
ミミはそれを悟るように、静かに笑う。そしてそのまま、回復する事もなく。
死にゆく途中にて、夢を見ていた。戦火の中、馬に乗り目の前を通りすぎる武官服に身を包んだ青年の姿。すれ違い様にちらりと此方を見ている。
旦那様?
否、確かに似ているけど、何処かしら異なる。
ああ、そうだ…間違いない。でも、戦に行けとは言ってない…。
「ギョヌ…だめよ。行かないで」
己の情欲を貫いたがゆえ、結局は愛する者を失い、父は悔やまれた。せめて母の最期の願いを出来る限り叶えたいと、正妻を迎え入れてもそればかりを気にしていた。
遺言通り、ギョヌはオ家の元で育つことになった。祖父母をどうにか説得し、正妻ともあまり接触させぬようにと、離れに部屋をつくり。無論、家督を継ぐ権限は無いが、それでも両班の子としての教育を施された。
しかし、父はそれだけでは気が済まず。
ギョヌを引きとって間も無くの事。気がついたら、彼は人里離れた舗装もされぬ道を歩いていた。強い霊力を持つと噂の、かの祈祷師の母子の元へ。現在は代替りで息子が主となっているが、当時は修行中の身であった。
「これはオ家の若君。如何なされました」
派手で風変わりな服装の中年の女が出迎える。
「頼みがある。金はいとわぬ」
こうして。
正妻の子宮に安産祈願という名目のその実、真逆のまじないをかけて。子の出来にくい身体にしてしまう。
流産・死産を繰り返す妻。それでも一人生を受けたが、ギョヌの異母妹となる女児のヨンミ。
漸く男児が出来たと思えば、数年経っても言葉を発せず、他人と接するどころか視線すら合わせる事すらない。
到底、後継ぎには向かなかった。
その異母弟ウソクが、後に行うようになった『裏拍手』。
庶子であるギョヌを快く思わぬ祖父母のさしがねで、何処でその禁忌を知ったかはさておき、彼の気配を感じれば手の甲を合わせ叩くように、とけしかけていたのだ。
その祖父母も既に居なくなったが、奇異な拍手だけはすっかりウソクの癖となっていたのである。
欧米諸国を意識した大きな建造物にて。日本軍の駐在するその一室にギョヌはいた。
阿波野一等卒とその上官、松野伍長と更にもう一人の軍人と向かい合って座り、様々な文書や地図を広げながら、今後について相談しているようであった。
「そうだな、とりあえず留学という名目で来日するのはどうだろう?ほら、この『脱亜論』の福澤先生のいる慶應義塾という大学があってだな…」
「それも良い話だ。しかし、とにかく収入が無くては心許ない。私の家財を売ってもいずれは底をつきる」
うーん、何かしらの手当ては出るであろうが、確かに金はいくらでも必要だ、と松野と阿波野は首を傾げる。
「ところでトッ…いや三鈴ちゃんにこの事は伝えてあるんだよな?」
「ああでも、少し渋っているようだ。それでもトッキは帰国した方が良い。この国は合っていない。それに…彼女の万一を考えると」
万一…?と、阿波野が問いかけたところに、硝子の割れる音が聞こえた。続いて、大きな石が建造物にぶつかる鈍い音。罵声と共に、どかどかと、幾度も。
「総員、着剣!直ちに正面玄関口へ集合っ!!」
同時に召集命令が下り、顔を見合わせつつも銃を取りに向かう阿波野一同。
「ギョヌ殿はそこにいてくれ」
銃剣を装着し、騒がしい玄関先へと向かうと、二人の軍人が肩や脇腹から押さえて横たわる姿がある。赤黒い血が滴っている。
問うと、土地の農村部の者を含む武装集団が、この駐在所に押し掛けてきたという。言葉はわからぬが、確かに此方を罵っているであろう大声と、扉や壁にぶつかる石の音か耳を刺激する。
「ひい、ふう、み、で開けるぞ」
扉の前にて、松野の呼び掛けに阿波野達は無言で頷く。程なくして、扉は勢いよく放たれた。
「うらぁ!!」
一面、人だかり。農民と思われる者がしきりに石を放ってくる。更にクワや斧を構える者、刀を扱う間者のような男達もいる。軍人たちと揉み合い、既に双方に負傷者が出ている状態だ。
「出てイけ侵略者!この国に倭人も西洋人も要ルか!」
辛うじて日本語が聞こえた。なるほど、そういうことか…。
「こら静まれ!こっちはお前らと争いたいわけじゃない」
「ぼうっと突っ立ってるな阿波野!取り押さえろ」
松野にはっぱをかけられる。さぁ、どうしたものか…と取り敢えず銃を構える。
「刀を貸してくれ」
後方から聞き覚えのある声。振り向くといつしかギョヌが来ていた。負傷した軍人から軍刀を受け取っている。阿波野が声をかけようとする間もなく、直ぐ様外に飛び出していってしまう。
「ここは日本の管轄内だ。騒ぎを起こすな」
自分達と同じ韓服姿の男が、前に立ちはだかり刃をこちらに向けている。一瞬は怯んだ群衆だが、再び罵声と石が飛ぶ。
「貴様、良く見れば
「若造がいきがるな!」
ギョヌの黒帽に石が強く当たる感触がした。見ると、手の平大の先の尖った石。無表情・無言でそれを拾い上げ、すかさず投げ返す。その先で響く苦悶の声。誰かに当たったようだ。
「やはり言葉ではわからぬようだ。では遠慮なく」
わっ、と一気に群衆が押し寄せてくる。しきりに応戦する洋装の日本軍と、一人の韓服の男。
「すげえ…」
阿波野の目に映る、日頃の穏和な雰囲気から一変しているギョヌの姿。強烈な蹴りで数名をなぎ倒し、それでも襲いくる相手には刀を振り下ろす。急所は外しているようだが、それでも負傷し動かなくなる者が出ている。それをすかさず軍の者が拘束していた。
続いて武装した間者をも、身を翻し軽々と地面に叩きつけていく。流石に剣の心得のある相手は体術のみとはいかず、ギョヌの刀により血飛沫が飛んでいく。一人腕のたつ間者がおり、隙をつかれ危うい場面こそはあったが、敵の刃を素手で掴みそれを真二つにへし折ってまでいる。無論、ギョヌの手の平も血だらけだ。
恐れをなしたか、その場を立ち去ろうとする間者の男。
「止まれッ!」
それまで相手を取り押さえるのみであった阿波野が、先回りして間者の前に立ちはだかった。無論、手には銃剣を構えている。
「仲間を散々な目に合わせておいて、ただで帰れると思うんじゃねえ」
間者は阿波野の凄みに一瞬は怯むも、まだ武器を隠し持っていたようだ。懐から短刀を二本取り出し、うち一刀を阿波野の腹部目掛けて投げつける。
が、命中せず。
そこに追い付いたギョヌに身体の斜め下から上へと軍刀で裂かれ、ほぼ同じく、阿波野の銃剣で刺され、続けて弾丸が一つ、間者の胸を貫いた。
黒ずくめの衣服が裂け、一瞬で血が吹き飛ぶ。そのまま地面に転がり、果てた。
「…彼にあれだけの腕があるとはな。ならば、勉学の傍ら用心棒で生計をたてるのも有りかも知れんな」
「まっつん。何かしらコネでもある?」
「ああ。まずは上官にも話して、本国と掛け合ってみねえと」
騒ぎが終結し、捕らえた者達を朝鮮側の役人に引渡す手続きをする中、阿波野と松野はギョヌの要望に出来るだけ応じるべく話しを進める。
「出来れば、早い方がいいかもね」
「
「うん。何となくそれでなくちゃ駄目な気がするのさ…」
…これも軍人の勘、というべきのかな?
言いようのない、悪しき空気を阿波野は感じずにはいられなかった。
「トッキ、また会えて良かった。あれから暫く顔を出さなかったし、怒っていると思った」
かの騒動から数日経ち、いつもの海の見える草原にて、ギョヌは再び三鈴と顔を合わせる。半ば強引に身体を重ねてしまい、長時間離さなかった事を詫びる。
「…いいえ。少し怖かったけど、いずれはこのような関係になっていたと思うから」
数日会わなかったのは、体調が崩れていたという。微熱が続き、気だるさが抜けなかったと笑う。
「そんな顔しないで。単なる風邪ですよ風邪!そうそう。もうじき若様のお誕生日でしょ?今日は贈り物があるんですよ」
三鈴が小さな包みを開けると、蓋が黄色で施された円形の缶が現れる。
「私は卑しい身分だからこういうのしか差し上げられないけど。これは軟膏です。傷や肌荒れに良く効くんです」
ギョヌの手をそっと取り、優しくそれを塗っていく。
「若様は、いつも手が傷だらけ。仕事柄いつも武器を握っているみたいで、時々心配になります」
苦笑いをしながらも、伏し目がちな顔で呟く三鈴。いつもより更に、顔色が白くて仄かな桃色を滲ませている。
…ああ、そんな姿を見せられては、また欲望を抑えられなくなるではないか?
「ありがとう。必要以上の無理はしないから、あまりそんな顔をしないでおくれ」
塗り終わるのを待って、再び三鈴の身体を抱き寄せる。
「…今日も身体が熱いな」
「若様のせいですよ」
目を細めて笑う二人。人がいないのを良き事に、そのまま再び、蜜な行為に耽るのである。
「や、…あぁん」
漏らしたくなくとも出てしまう艶声。破瓜の際の痛みも最早なく、濡肉の中にゆるりと入り込む陽物が、三鈴を悩ませる。
アゲハが一羽、潤んだ目の前を通りすぎて行くのが見えた。
「しっかしなぁ、この写真…まるで彫刻と
「ムジナって…お父ちゃんに似たせいでしょ!!」
改めて二人の写真を眺める父に元気良く悪態をつく三鈴だが、再び体調が崩れてしまっていた。
怠さと熱、食欲不振。ギョヌとの行為故のそれかと疑うも先日と違うのは、咳。一度出ると落ち着くまで暫し時間がかかる。
「いいから写真返してよ、もう」
「はいはい。あの人が来たら具合悪いからと言えばいいんだろ」
「絶対変なこと言わないでね!」
やれやれと枕元に写真を置き、部屋を出て店先に戻る父を、小声で母が呼び止めた。
そして。
「なんてこった…よりにもよって嫁入り前に」
「はぁ…だからあれ程言ったのよ。国を出るのは反対だって。せめてその前にこうなっていれば。源助でなく…」
「やめんかバカ!それで母親かっ」
両親の間でも、不穏な空気が漂い始める。何かと血の気の多い夫と、それを抑え込む妻。傍目には似合いの二人に見えている。しかしとうの昔から、夫婦・親子の関係は破綻していたのかも知れなかった。
その日、三鈴の咳が一晩中部屋に響いていた。
第肆話・終
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