第26話

 ピンク色の髪をした女が、クルーズ船の甲板で潮風に当たっていた。手首には包帯が巻かれている。


 夜空には満月が輝いていた。彼女の視線の先、水平線際に煌々と輝いて見える東京が、どんどん小さくなってゆく。


 コツコツと、革靴が甲板を叩く足音がした。白いスーツを着た男であった。彼は女の隣に立つと、タバコを取り出して火をつけた。紫煙を潮風に溶け込ませながら、女に視線をやる。


「きみも吸うか?」


「いいえ。私は非喫煙者よ」


「そうか」


 男は水平線に視線を戻しながら、頬をかいた。


「そうだったか」


「そうよ。……そういうことも忘れちゃったのね」


「そうみたいだ。まあ、ナイフとフォークの使い方だけ覚えていたのは幸いだが」


「あとは銃の使い方もね、吸血鬼の傭兵さん? アメリカも日本ほどじゃないにせよタフな場所なんだから、戦い方を覚えていてくれたのは幸いね」


「違いない。といっても、俺がこれを成し遂げた傭兵だとは、俺自身覚えちゃいないんだがな」


 男はスマートフォンを取り出し、ニュースサイトを開いた。トップに踊っているのは、『ST本社崩壊の余波』という記事であった。


 女は寂しそうに目を伏せ、それからにんまりと笑った。


「俺たち、でしょ。それはもう凄い大活劇だったのよ?」


「何度も聞いたよ……善良清楚なハッカーさんが居なければ成し遂げられなかった、だろ?」


「一言修辞が足りていないわよ」


 女は自らの豊満なバストを指差し、笑った。


「胸もデカい」


「……それは重要なのか、スミレ?」


「重要。最重要よ、アスター。覚えておきなさい」


「はいはい……」


 スミレは満足そうに頷き、それから僅かに眉を下げた。


「……ねえ、やっぱりタバコちょうだい」


「ん」


 アスターはタバコを取り出し、スミレに手渡した。彼女がタバコを咥えるのと同時、ライターの火を近づけてやる。


 スミレは恐る恐る息を吸い込み……むせた。


「ゲホッ、ゲホッ! ファーック、なにこれ!? 喉がキュッと締まったわよ!?」


「ははは、今のは吸い方が悪いよ」


「じゃあ教えてよ。吸い方」


「いいとも」


 しばらくの間、暗い甲板の上で2つの蛍火が踊っていた。


 記憶を失った男と、記憶を失わせた女を乗せた船は、アメリカへと向かっていた。それは逃避行であり、一から「幸せな記憶」を作るための、スミレにとっての贖罪の旅でもあった。

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