第25話

 2人はヴェロニカを運びつつエレベーターで1階まで降り、足早に本社ビルを後にした。付近に停めてあったアスターの車に乗り込み、全速力で離脱した。背後でST本社ビルが派手に爆発し、瓦礫を撒き散らしながら崩落していった。


 スミレは、センリョウ・テック本社の量子コンピュータとのリンクが切れたことを確認した。母の遺産。だが悲しさはなかった。拷問の果てに作り出された遺産ではなく、愛のもとに残された遺産が、彼女の胸の中に残ったからだ。


 車を走らせている間、アスターとスミレはずっと無言だった。アスターはひと気のない湾岸で車を停め、ヴェロニカを降ろした。彼女の傷は殆ど癒えていた。


 スミレがおずおずと口を開いた。


「……千両が。STが彼女に対して行った記録を見ていたわ」


「そうか」


「酷い、としか言いようがない」


「……そうか」


 アスターが「見る」とも「ヴェロニカに見せる」とも言わないことに、スミレは疑問を感じた。だが彼女が問うよりも先に、アスターが口を開いた。


「なぁ。いつだか、テセウスの船の話をしたよな」


「え、ええ」


「俺たち吸血鬼の身体は不変だ。何度でも元に戻る。だが脳を吹き飛ばされると、記憶は失う。それだけは戻ってこない」


「……ええ」


 センリョウ・テックがヴェロニカに行った「実験」の記録はそれを肯定していた。マクロ的な視点では、吸血鬼の身体は何度傷つこうとも完璧に再生される。だがミクロ的な――例えば毛細血管であるとか、ニューロンの繋がりのような微小構造は、正確に元のかたちに戻るわけではない。ミクロ的な領域の再生にはランダム性がある。


 これが吸血鬼が脳を破壊されると記憶を失ってしまう理由であると、記録は結論づけていた。


 アスターはぎこちなく笑った。


「なあ、俺は誰なんだろうな? 身体はずっと昔から変わっていないんだろうさ。だが20年ぶんの記憶と、飛燕の記憶を持つこの俺は、昔の俺と同じなのか?」


「それ……は……」


「マリーだってそうさ。きっと記録を見せたって記憶は戻りやしない。……昔の俺が愛していたであろうマリーは、二度と戻ってこないんだ。ならこの女は誰なんだ?」


「アスター、やめて。今夜は色々なことがありすぎたわ、今は考えないで」


 不穏な雰囲気を察知したスミレは、アスターの肩を掴んで揺すった。だがアスターはスミレを見ず、ずっとヴェロニカを見ていた。


「1つだけ確かなのは、俺がこの女の人生を狂わせたということだけだ。STに酷いことをされたんだろう? 元を辿れば俺のせいだ。罪を償わなければならない」


「違う、違うわアスター! 貴方のせいじゃない!」


「自分が何者なのかわからないのは辛い。偽りの記憶に生きるのも、悲しいことだ。……だが吸血鬼は魂の記憶を引き出せる。俺の中には、マリーと過ごした日々の記憶がある。彼女が何者なのか、教えてやることが出来るんだ!」


「アスター!? きゃっ!?」


 アスターは完全に正気を失っていた。記憶の混濁と絶望が、彼の精神を壊してしまった。アスターはスミレを突き飛ばし、ヴェロニカの前にかがみ込み、猿轡を外した。そして牙で自らの手首を噛み切り、ヴェロニカの口元に血を垂らしてやった。ヴェロニカが目を覚ます。


「ッ、アスタァァァァアアアアアアアアアーーーーーーッ!」


 ヴェロニカはアスターに組み付き、主人たる千両を目の前で殺された憎悪のままに、その首元に牙を突き立てた。血を啜っている。放っておけば、アスターが死ぬまで吸血するだろう。――その結果、ヴェロニカはアスターの記憶を継承することになる。彼とヴェロニカがともに過ごした、魂の記憶さえも。


 スミレは悟った。このままではヴェロニカ――マリーは、今まさに自分が殺した人が、であったと知ることになる。


 それはあまりにも残酷で。アスターという優しい男の贖罪としてはあまりにも「間違っている」とスミレは思った。


 スミレは拳銃を――マリーの拳銃を構えた。


「ごめんなさい……!」


 引き金を引いた。弾丸はマリーの側頭を撃ち抜いた。彼女は気を失い、吸血が停止する。アスターが叫んだ。


「マリー!? スミレ、なにを――」


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」


 スミレは再び引き金を引いた。1発目はアスターの頬をかすめた。だがもう一度引き金を引くと眉間に穴が空き、彼の身体がどうっと倒れた。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 スミレは目尻に涙を浮かべながら、肩で息をしていた。手が震えていた。


 ――こうするしか、なかった。運命のいたずらで歪んでしまった2人の関係をもとに戻す方法は、存在しない。彼らの脳を破壊し、忘却させるしかない。そう考えての行動であった。


「ごめんなさい……」


 スミレは銃を取り落とし、うなだれた。アスターは、偽りの記憶に生きるのは悲しいことだと言っていた。だが真実の記憶が残酷であったなら? スミレは、偽りの記憶のほうがマシだ――そう思った。そして、自分がこれから嘘をつく決意を固めていた。


 記憶を失ったアスターとマリーの面倒を、私が見よう。静かに2人の生活を見守ろう。そうすればいつしか2人は惹かれ合い、再び愛し合うかもしれない。そのような希望を抱いた。


 ――その時、アスターのうめき声が聞こえた。


「う……」


 ここまでに失った血の量の差なのだろう、アスターの傷のほうが先に癒え、彼は目を覚ました。


「ここは……」


「……起きたのね、アスター。どこまで覚えてる?」


 スミレはそう問うたが、アスターの視線はマリーに送られていた。ぽかんと口を開け、彼女の頭から流れ、その金髪を赤く染め上げる血を、じっと見つめていた。


「アスター……?」


 アスターの耳に、スミレの声は届いていなかった。マリーの血の臭いが、鼻腔を満たしていた――強烈な吸血衝動。


 それは彼にとってで、理性で抑え込むべき理由も知らず、ただ本能だけが彼を突き動かした。マリーの白い首筋に牙を突きたて、血を啜る。


「アスター!? だめ、そんなことしたら!」


 スミレはアスターに駆け寄り、彼をマリーから引き離そうとする。だが吸血鬼の膂力はあまりにも強く、びくともしない。


「い、嫌……違う、そんな……そんなつもりじゃ……やめて……やめてよアスター! 血なら、私がわけてあげるから!」


 スミレは必死に自分の手首を掻きむしった。皮膚が裂け、血が流れる。だがアスターは、マリーの首筋から口を離さない。頸動脈から噴き出す血に夢中だ。


 アスターにとって、それは衝撃的な体験だった。血はあまりにも甘美に感じられた。何かが満たされてゆく。脳裏の奥底で、誰かが「やめろ」と叫んでいる気がした。それでも、やめられなかった。最後の一滴まで、吸い尽くす。


 マリーの身体が、末端から灰になっていった。吸血鬼の死。


 それと同時に、アスターの中にマリーの記憶が流れ込んできた。



 それは700年間の、膨大な量の記憶だった。それらは時系列すらばらばらに、アスターの脳内に流れ込んでくる。


 ――まだ私が人間で、ただの村娘であった頃、傷ついたアスター――当時は別の名前で、それすらも偽名で、本当の名を聞いたときは驚いたけど――と出会い、恋に落ちた。


 満月の夜に永遠の愛を誓いあい、吸血鬼にしてもらった。アスターは「真祖」と呼ばれる吸血鬼で、人間を吸血鬼に変えることが出来た。


 ――白い防護服を着た男たちに連れられて、屋上に出た。太陽の眩しさを感じたのも一瞬のこと、目が燃えるように熱くなり、思わず瞼を閉じた。いや、目だけではない、全身が熱かった。激痛に絶叫する。男たちの声がした。「発火を確認。興味深いな」。


 ――吸血鬼になってからの私の人生は楽しかった。彼と色々なところを旅した。人間の世の移り変わりを眺めながら、時には農夫になってみたり、時には貴族になってみたり、またある時は神父とシスターになったりもした。人間たちからちょっとだけ血をわけて貰いながら、面白おかしく暮らしていた。それで満ち足りていた。


 ――千両豪樹、と男は名乗った。「私のことを覚えているかい?」と彼は問うてきた。首を横に振ると、彼はとても悲しそうな顔をした。「また、1からやり直せば良い」。彼はそう言って、私に必要なものは何でも与えてくれた。彼が凄い人なのだと知ったのは、もっと後のことだ。


 ――戦争も経験した。何度も、何度も。アスターはお人好しだから、身近な人を守るために身を挺して戦った。戦傷で少し記憶を失ったこともある。それでも、彼は彼だった。優しくて、でもちょっと口が悪くて。吸血鬼なのに吸血鬼の力が嫌いで。寂しがりやで移り気だけど、でも本当は一途で。私が怒ると、本当に申し訳無さそうな顔で謝ってくる、可愛い人。


 ――拘束されている、と気づいた私はパニックになった。「落ち着いて」と何度も声をかけられた。白衣の男だった。彼は私をなだめたあと、ある器具を取り出して問うてきた。「これが何かは覚えている?」と。電動のこぎり、と答えると男は続けて問うてきた。「じゃあこれを使われるのは何回目か覚えている?」。



「あ……ああ……」


 アスターは涙を流した。


「ああああああああああ! ああああああああッ!!」


 記憶を流し込まれる苦痛と、苦痛の記憶。その2重苦に、アスターは絶叫した。


「だめ、だめ、だめ、もう一度、もう一度消さなきゃ……」


 スミレは震えながら、地面に落ちたマリーの銃を拾い上げた。絶叫するアスターの後頭部に銃口を押し当て、引き金を引いた――だが、弾丸は発射されなかった。何度引き金を引いても、経文が刻まれたシリンダーが虚しく回転するだけだった。


「弾切れ……!?」


「あああああああ! やめて、やめてくれ! 嫌だ! もうそれは嫌なんだ!」


「ヒッ……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……私が……私のせいで……」


「ああああああッ! 殺してくれ、誰か、誰か殺してくれよおおおおおおおッ!」


 想像を絶する苦痛に身を捩るアスターに気圧され、スミレは尻もちをついた。だがアスターが地をのたうち回るたび、何か硬質な音がすることに気づいた。彼の腰のホルスターに、拳銃が収まっている。アスター愛用の、大口径リボルバー。


「ッ……」


 スミレはアスターに駆け寄り、ホルスターから拳銃を抜き取ろうとした。暴れる彼に幾度も突き飛ばされながら、なんとか彼女は小さな手の中に、無骨なリボルバーをおさめた。弾は入っている。


「アスター、今……楽にしてあげるからっ……」


 アスターは頭を抱え、目をかきむしりながら絶叫していた。スミレは震える手で拳銃のグリップを握りこみ、彼の眉間に狙いを定めた。引き金にかけた指に、力を込める。


 一発の銃声が、鳴り響いた。

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