第4話
スミレとアサガオが馬鹿話に花を咲かせている頃。アスターは自室に飛び込み、急いで鍵を閉めた。冷蔵庫の扉を開け……輸血パックを取り出し、牙で封を切って中身を飲み始める。
最後の1滴まで絞り切るようにして飲み干すと、大きなため息をついた。
「……今回はヤバかった。血を失い過ぎたな」
彼は吸血衝動と戦っていた。スミレの細腕が近づいてきた瞬間、噛みつきたい衝動で目の前が真っ赤になったのだ。
アスターは穴だらけ血だらけになった服を脱ぎ捨て、鏡の前に立った。赤い瞳をもつ男が映っている――彼の目にはそう見える。だが他人の目から見れば、今のアスターの姿は鏡には薄ぼんやりとしか映らない。
監視カメラや、人間が眼窩に埋め込むカメラアイに対しても同様だ。それは彼の傭兵としての価値を高めていたが、同時に心を苛む要因でもあった。
「とんだ化け物だ」
アスターは自嘲気味に笑い、ベッドに飛び込んだ。時刻は午前6時。この時代は朝に寝るのがスタンダードで良かった、と心の底から思った。
目を瞑って数瞬もしないうち、部屋の扉がノックされた。こんな朝の早い時間に非常識な、とアスターは無視を決め込もうとしたが、「アスター、いるんでしょ」という声が響いてきて、彼はけだるげに身を起こした。
「飛燕か。どうした?」
「辛いんじゃないかと思ってね」
「もう落ち着いたよ」
そう言いながらもアスターは立ち上がり、扉の鍵を開けてやった。するりと部屋の中に滑り込んだ飛燕は、手早く部屋の鍵を閉め、アスターに抱きついた。
「やけに情熱的じゃないか」
「妬けたから」
「俺とスミレはそんな関係じゃない、わかるだろ?」
「気まぐれで子犬を拾うのは、アンタの悪い癖だよ」
そう言いながら、飛燕はアスターの身体の熱を感じていた。温かい――これは異常なことであった。ちらりと姿見に目をやれば、彼の姿が薄っすらと映っていた。これも異常であった。
飛燕は服をはだけ、肩を露出させた。何度も噛まれた痕のある肩を。それを見たアスターの表情が、罪悪感に染まる。だがそれと同時に、牙がうずいた。
「……随分な大怪我だったんだろう。鮮度の低い血じゃ物足りない、そうでしょ?」
「おかげで人間に近づけたよ」
「バカ言ってないで早くお飲みよ。吸血衝動を理性で抑え込めるうちにさ」
「……畜生」
アスターはごくりと唾を飲み、飛燕の肩にゆっくりと口元を近づけ――噛み付いた。温かい血が溢れ出し、アスターの舌に絡む。輸血パックとは大違いの、甘美なる液体。
「ッ……」
飛燕は痛みを堪えながら、アスターの体がどんどん冷えてゆくのを感じていた。鏡に映る姿もだんだんとぼやけ……やがて、消えた。カメラアイにも映らなくなっていることであろう。
不老不死や鏡に映らないといった吸血鬼の特徴は、無限のものではなかった。生きた人間からの吸血によってのみ維持できるものであった。もちろん、どこまでが限界なのか試したことは、アスターにはなかったが。
アスターは飛燕の首筋から口を離し、目を伏せた。
「……すまない」
「いつも言っているだろう、そこは『ありがとう』だよ」
「ありがとう」
「よし」
飛燕は、アスターが不死としての自分を嫌っていることを知っていた。吸血が罪だと思っていることも。そんなアスターを見ていると、飛燕の胸の奥でも罪悪感が蠢き出す。彼女もまた、罪を抱えていた。それを拭い去るために、飛燕は微笑んでみせる。
「……じゃあ、続きはわかるだろう? 傷が疼いてたまらないよ、慰めておくれ」
◆
1時間後、アスターと飛燕はベッドに横たわっていた。その裸体は布団で隠れている。飛燕はタバコを咥えながら、噛まれた肩をさすった。
「……あの娘は、アンタが吸血鬼だって知ったんだね?」
「ああ」
「血は飲んだのかい?」
「まさか。飲む気もない」
「安心したよ、じゃあこれはまだ……2人だけの秘密だ」
少女のようにくすくすと笑う飛燕につられ、アスターも口元を緩ませた。ライターを手にとって飛燕のタバコに火をつけてやり、自身もタバコを口に咥えて火をつけた。
「それで、スミレは使い物になりそうか?」
「うちの能無しハッカーどもに調べされているけど、恐らくあのデータは本物だろうね。とんだ逸材だよ。作戦の幅が大きく広がる」
「そいつは何よりだ」
「アンタも忙しくなるよ」
「俺も?」
片眉を上げるアスターに、飛燕は申し訳無さそうに目を伏せた。
「優秀なハッカーのバックアップがあれば、今まで手出し出来なかったところにもアタック出来るようになるからね」
「俺はその尖兵というわけか」
「そういうこと。……ねぇ、わかるだろう? アタシだって好き好んでアンタを危険な目にあわせたいワケじゃあないんだ、でも……」
「わかっているよ。モータルの兵士にやらせていたんじゃ、何人死ぬかわかったもんじゃない。その点、不死身の俺なら実質損害ゼロだ」
「……うん」
「気に病むなよ、傭兵に志願したのは俺だ。こき使ってくれよ」
飛燕はくすくすと笑った。
「……すまないね」
「良いんだ。誰だって自分が化け物だとは、人に知られたくない。そうだろう?」
「……そうだね」
アスターは、他のレジスタンス兵と行動をともにすることを嫌っていた。彼にとって戦闘とは、敵兵からの吸血も兼ねていたからだ。彼はそれを人に見られることを
飛燕はタバコを灰皿に押し付けた。大義と搾取の狭間で苦しむように、ゆっくりと。
それから彼女は立ち上がり、服を着込み始めた。
「さぁて、今夜から忙しくなるよ。あの小娘にも死ぬほど仕事を与えなきゃね」
「お手柔らかにしてやれよ。彼女、言動こそ下品だが育ちは良さそうだからな」
「妬けるねぇ、本当に」
「俺はビジネスの話をしている」
「わかっている、冗談さ。……じゃあね、おやすみアスター」
「おやすみ、飛燕」
飛燕が退出し一人になったアスターは、飛燕が残していった吸い殻に重ねるようにして、タバコを置いた。
「さて、スミレは上手くやるかな……」
――先に言っておけば、スミレは最悪の傭兵業スタートを切ることになる。
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