耳飾りの少女
タチ・ストローベリ
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海中では、重力はもう一つの太陽になった。
足元から立ち昇って来る光の柱に手をついて、見上げれば、赤の、黄の、橙のサンゴの稲妻が〈夢の花束〉を描く魚群の隙をついて、ザラザラと降って来る。エジプトの砂色をしたタツノオトシゴは、帆を白く弓なりにして旋回するペルセウスのヨット。恐るべき黒雲をつくり出すタコは八匹の蛇の髪を生やした血みどろのメデューサの首だ。水族館で見るのとは違う、逆さまの世界。陽光の代わりに重力を頭から浴びる。君のお父さんはこんな潜り方を好んだ。自分の向きを失わないで、よくある宝石を斬新な宇宙にするこの方法を。
君のお母さんが町に居つく事を決めたから、彼はあの海に何度も潜る事ができた。昨日まではあっちに刺さってたのに、今日はここ――彼女は、瘦せっぽちで力強い、傷だらけの押しピンだった。あの町に来たのは、家族と彼女自身をその針先で傷つけたから。投げやりに乗り込んだバスが、
「もっと便利な所で、立派な家を借りたっていい。そうは思わない?」彼はニヤニヤしながらきいた。
「いいえ。分かってる癖に。あなただってワクワクしてるでしょ!」
彼らの
二人は何か月もかけて、この小屋の背中をさすってあげた。日ごとに見違える様になる建物と岸壁と海は、季節の変わり目で歌い、踊り、季節の真っ只中で
最初の一年はカーニバルみたいに、やって来て過ぎた。
次の一年、初めて悲しい波にさらわれた。二人はそれぞれ一人きりで泣いた。
やがて春。懐かしくて新しい出会い。どちらからともなく、綿あめを買いに行こうと誘った。二人は手をつないで歩いた。青空も雨も静かに笑っていた。
そしてまた、夏。
彼が仕事から帰って玄関前のテラスに乗った時、太陽はちょうどその半分を水平線に吸い取られていた。良く晴れて、トースターの中にいるみたいだった暑い日の終わり。目から流れ込むグツグツと煮詰まった
思わずため息をついて見とれる彼を、彼女は背後から抱きしめた。
「お帰りなさい。今日はどうやら、特別な日だったみたいね」
家に入ると、食卓の上の
腹がすっかり満ち足りた頃、彼女が面白いものを出してきた。五つのアーモンドをくっつけた様な金属の花。花弁の先についたフックの形からするに、おそらく耳飾りの片割れだろう。
「反対側のビーチへ行ったの」彼女は言った。「役所に用があって、帰りのバスの中から見ていたら、無性に波打ち際を歩きたくなって—―なんだか、手招きされてるみたいだった」
彼女の顔は神妙だった。
「カモメのギューギューいう声を聞きながら、サーフィンの群れとすれ違って、王子様や王女様に忘れられた砂の王国を通り過ぎて、とうとう行止まり。その静かな場所にしばらく座っていたら、波の息遣いが何らかのコミュニケーションに思えて来たの。巨大で大きな力を持った何かが、遠く遠く離れた深海での出来事をまるで電信を打つ様に、知っている者だけが読めるパターンで伝えてる。このメッセージの存在に気づける誰かを、来る日も来る日も待っている。だから、私は呼ばれたんだ、そんな風に考えながら眺めてた」
彼女は顔を上げた。
「浜から水が引くたび、砂に潜む色々が露わになった。貝や海藻や小さな生き物達。それらにまじってこれがあったの」
彼はその耳飾りと、蠟燭とをつまみ上げじっくり観察した。素材は軽い金属。なにやら二種類の金色がマーブル状の模様を描いている。意匠は花かと思われたが、それっぽく見せようとする彫刻はなく、全く滑らかだ。細長い花弁はカカオの殻そっくりに空洞をつくってひしゃげていて、表裏があるらしい。対のもう一つと裏同志を重ねたら、一種の入れ物になるのではないだろうか。つまり、それはまるで二枚貝の片方で――
「これ、花じゃなくて貝殻なのか。蝶番みたいなのまでついている!」
彼は自分が行きついた結論に驚いた。
「そうなの、おもしろいでしょう! この世にない貝を想像して、それを型に、そっくりなアクセサリーをつくるだなんて。デザイナーは誰なのかしら? どんな人がつけていたのかしら?」
彼はちょっと黙った。そして耳飾りと蝋燭を置くと、ニヤリと笑った。
「ひょっとすると、人の手によってつくられたものじゃないのかもしれないよ。これは本物の貝殻なんだ」
「え、なあに、どういう事? もしかして、いつかみたいに不思議な話を聞かせてくれるの?」
「ああ」
ワインを一口飲んで、彼は語り出した。
「星より簡単に手が届きそうなのに、生命のホームだったはずの海の底は、生命がこれから飛び込もうとしている宇宙よりも、遥かに黒く謎めくものとして、不可侵な畏敬の対象として、何百万年も足元に放っておかれた。まるで神話の登場人物達が眠るとされる伝説の墓地だよ。海を下がって行く時、太陽の存在を信じていられるのは水面からたった一千メートルまで。しかもそのほとんどが五月の午後と夜の境目みたいな、不気味なトワイライトゾーンなんだ! 僕らは海とはどんなものか、分かっている気になるべきじゃない。あそこからは、星間飛行で出会うどんなものよりも、もっと奇妙なものが出てくるに違いないんだからね。
僕は時々窓から海を眺めて、地球生命の起源について考える事がある。この星はできてすぐこそ違ったけれど、水につかっていない場所が多い。僕らの遠い先祖が陸に上がってからというもの、海に溶け出す命の元は少なくなってしまって、だいぶ薄まったはずだ。ところがどうだい、今でも海中では二〇万を超す種がバトンを繋いでいて、毎年の様に新しいのが見つかっている。さらに面白い事に、例えばイカやタコなんかは、その他の地球生命とまるで異なった設計図からでき上ったはずだというじゃないか! 僕は思うんだ、こういう新しい生命は地球じゃなく、別の場所で生まれるんじゃないかって。僕ら人類の先祖は暗く温かな羊水から解き放たれる事で成長した。だから母なる海じゃなくて、クールな恋人たる宇宙と親密になろうとする。彼女からばかり知識を授かろうとする。だけど、もうよく知ったはずの身近な人こそ、思いもよらず、壮大で突拍子もない冒険を経験しているものだよ。つまり、時空を超えて離れた世界と接続する奇想天外な秘密の抜け道が、まだ僕らが聞き出せていない、まだまだ聞き出せそうもない、海の底にあったっておかしくないんだ。
さて、問題は何処へ繋がっているかだ。君は、海の星と呼ぶにふさわしいのが実は地球だけじゃないって言ったら驚くかい? 例えば木星や土星の衛星の表面は氷でできていて、その下には内部海があるんだ。想像してごらん。星の全体が生命の源で覆われた世界を。そこで暮らす生命体にとって海水は、何十億年も前に滅んだ種族と、ついこのあいだ亡くなった彼らの仲間達から放たれた命の元が、まるでスープと生クリームの様に混ざり合い溶け合って吹きすさぶ、虹色の大気だ。きっとその中では、地球語じゃ表現しきれないすてきな物語が、摩訶不思議な生物達によって紡がれているだろうね」
「この貝もそういうもの達の一つだって言うのね」
「そうさ。太陽系か、それとももっと遠くにある星か、そこには僕達みたいに道具を使う事を覚えた種族がいて、表面を覆う氷の内側の上に文明を築いて暮らしている。地球の者達とは天地が逆なんだ。僕らが月や太陽を眺めるみたいに、彼らは時折、真っ黒な引力を放つ星のコアを見上げる。しかし、同じ所もある。元をずっとたどれば、我々は兄弟だからね。彼らも息をして、食べて、遊んで、学んで、巣立って、出会って、恋をし、成長して、悲しみを知り、老いて、そして死んでゆく。きっとこれは年頃の娘がつけていたものなんだろう。デートの帰りに、強い風に――海流に煽られて取れて、コアに向かって落ちたんだ。そして偶然、コアに空いた地球へ繋がる穴に吸い込まれて流されて、ついに君に拾われた。僕らは嬉しいけど、その
時刻は深夜を回った。蝋燭の火を吹き消して、おやすみを言い合うとすぐに、夢の世界に入り込んだ。そこで彼女は一人の少女と出会った。あの貝殻の耳飾りを付けた可愛らしい少女。人魚ではなかった。耳と口元が彼女に似ていた。眉と目が彼に似ていた。
次の年の冬、海がエウロパの様に凍りついてしまいそうな寒い冬に、君が生まれたんだ――
洋子達がその星に降り立って見た景色は、まるで雨降りのイスタンブールだった。水たまりに映って反転した、色とりどりの露店屋台。それは、水色に透き通った氷の反対側で賑わう、人魚達のお祭り。皆、楽しむ事に夢中で誰も地球からの訪問者には気付かない。
洋子は一人の、子供らしき人魚に目が留まった。その娘は様々な形の花びらで飾られた店で、耳飾りを買い、嬉しそうにつけた。その形は洋子の両親の形見の、あの金属細工にそっくりだった。
耳飾りの少女 タチ・ストローベリ @tachistrawbury
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