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佑彰さんと母が対立するのは、ごく自然なことであり、いずれ来たる終わりだった。
佑彰さんとわたしがデートしてしばらく、母が祖母の家にやって来た。祖母は不在で、名目上はわたしを迎えに来たということだった。
けれど玄関口に仁王立ちした母の面持ちは見たことないほど厳しく、出迎えた佑彰さんに向かって「話があります」と断じた。佑彰さんも顔つきを引き締めて、足元にいたわたしに向かって「俺の部屋にいな」と促した。二人の間に流れる空気から逃げるように、佑彰さんの本棚に囲まれた部屋へ転がり込んだ。
話がどれほど掛かったのか分からない。五分か、一時間か。とても短かったような気もするし、日が暮れるほどの時間だったような気もする。とにかく、母の怒号が部屋まで響いてきて、わたしは飛び上がった。慌てて声の方へすっ飛んでいくと、茶の間から母が大股で出てくるところだった。顔は真っ赤で、いつもよりずっと大きく見えた。一歩歩くたびにどすんどすんと足音がして、家全体が震えるようだった。母は廊下に立ち尽くすわたしを見ると、わたしの手を掴み、引きずるように玄関へ向かった。足をもつれさせながら一生懸命首を回すと、茶の間の奥に、佑彰さんが項垂れているのが見えた。なぜかその髪は濡れていて、顎の先から水の雫が滴り落ちていた。そばには空のグラスが転がっていた。
——父と母が離婚したのは、そのすぐ後だ。
■ ■ ■
父はもうわたしとは苗字も違って、全く知らない人だった。死んだといえば尚更だった。
棺に納められた父は、死装束を着せられ、花に囲まれ、目を閉じていた。わたしの記憶より何十歳も老け込み、闘病生活のせいか頰は痩け、青白く血の気の失せた肌は蝋じみている。ショーウィンドウの向こうのマネキンでも眺めている気分だ。
父はその後、結婚と離婚を繰り返し、定年をもう少しで迎えるという歳で死んだ。胃がんだったらしい。病院のベッドの上で、苦しまない最期ではあったようだ。ただ、そのとき父は独り身だったため、行政があれこれ手を尽くしたあげく、一番初めの妻である母の元まで訃報が届いた。誰も父の亡骸を引き取らなかったので、母が喪主として葬儀をあげることになった。母はその理由を口にしなかった。ただわたしに電話をかけてきて、落ち着いた口調で、父が死んだこと、葬儀をあげること、そして、佑彰さんに連絡をとって欲しいことを告げた。
「どうしてわたしに? 連絡先なんて知らないよ」
仕事先で電話を受け、わたしはそう答えた。当時、わたしは幼い子どもで、スマホも持っていなかったのだ。どうして彼と連絡を取れると思うのだろう。
「……そう。あなたと彼は、なんというか……」
母は通話口の向こうで少し黙ったあと、
「通じ合っていたようだったから、知っているかと」
後はもう、葬儀の日取りと場所を伝えて、電話は切れた。けれど母の言葉が妙に耳に残って、わたしは葬場に向かう電車の中、最後に佑彰さんに会ったときのことを思い出していた。
冷たい風が吹きすさぶ冬の朝。佑彰さんがわたしの家を訪れた。折よく父も母も留守で(もちろん彼がそう狙ったのだろうが)、わたしはインターホンのモニターに映った佑彰さんの顔を見て、マンションのエントランスまで降りていった。
佑彰さんは苦笑を浮かべ、わたしに向かって手にした何かを掲げてみせた。
「忘れ物を届けに来た。要るだろ?」
赤と白の、直方体のブロックに見えるのは、わたしの国語辞典なのだった。だいぶ読み古して輪郭の崩れたそれは、彼の手の中で疲れた体を休めているようだった。歓声をあげてわたしが伸ばした両手に、彼は恭しくそれを置いた。何度も何度もページを繰ったせいでふかふかになり始めた小口は、わたしの指が馴染んだ証だった。
佑彰さんは国語辞典を抱えるわたしのそばに跪き、瞳を覗き込んできた。頭を撫でるように手を伸ばし、それから指を握り込む。関節が白く浮き上がっていた。わたしの視線が彼の手を追っていることに気づくと、さっとコートのポケットにしまってしまった。短く笑い、立ち上がる。
「元気でな」
なんとなく、もう会えないだろうことは察していた。彼が背中を向ける前に、慌ててスラックスの裾を掴んだ。
「どうして、あのときママの手を握らなかったの?」
高い位置にある佑彰さんの顔を見つめる。
佑彰さんの手は特別だ。あのとき母の手を握れば、きっと母は「母」の仮面を取り払ってしまったに違いないのに。わたしは知っているのだ。わたしを連れ出した母の手が、どれほど冷たかったのかを。わたしの小さな手のひらでは暖められないほどに。両手で母の手を挟んでも、ちっとも温度は上がらなくて困っているうちに母は泣き出してしまって難儀したのだ。
彼は瞬き、次の瞬間喉をそらして笑い出した。肩を震わせ、目尻から滲む涙を指先で拭う。
「俺は不道徳でも一途だから」
それから、わたしに片目を瞑ってみせる。
「きみのママの手は、きみが握れよ」
なるほど確かにそうかもしれない。わたしは頷いて、スラックスから手を離す。佑彰さんはわたしを一度眺めたあと、踵を返した。
それが、別れだった。
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