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わたしは一度だけ、佑彰さんとお出掛けしたことがある。よく晴れた冬の日のことだった。祖母の家に遊びにいったものの、祖母は不在で、佑彰さんだけがわたしを出迎えた。庭の見える部屋で寝転がっていたら、彼が急に言ったのだ。
「暇過ぎる。映画に行こう」
わたしはびっくりして彼を見上げた。彼はなんでもないような顔で、わたしの頭の横に膝をついた。わたしの顔を覗き込み、
「俺とデートするのは嫌?」
わたしは手近の国語辞典をめくって、た行をたどった。デート。日付、もしくは恋い慕う相手と日時を定めて会うこと。わたしは首をひねった。彼がデートすべきなのはわたしではなく父である。一緒にページを覗き込んでいた佑彰さんは声をあげて笑い出した。
「バレたか。でもこういうときはデートって言うんだよ」
わたしはやはり、と思う。佑彰さんが国語辞典を開けば、わたしには見せない本当の紙面が現れるのだ。
映画館は、電車をいくつか乗り換えた先の駅にあった。わたしは人混みの中、必死に佑彰さんの背中を追いかけた。オーバーサイズの紺のモッズコートに、しなやかな脚に沿った黒のスラックスを履いた彼は髪色も相まって目立っていたけれど、乗り換え駅の構内では、わたしと彼の間をひっきりなしに人々が通り過ぎた。佑彰さんは事前に、もしもはぐれたら赤色の路線を目指していけば映画館に着くよ、と教えてくれたけれど、実のところ、意味は分かっていなかった。路線って何だろう。後で調べよう。
それなのでわたしは、絶対に彼について行きたかったのに、家族連れに阻まれて、呆気なく佑彰さんを見失った。
ドッ、と心臓が大きく波打つ。立ち止まったわたしを避けて、人々はうねる壁のように足早に歩いていく。必死に辺りを見渡し、赤色のものを探した。ない。分からない。じわりと目に涙がこみ上げる。生まれて初めて迷子になった。母はいつだってわたしと手をつないでくれていたのだ。けれどわたしはもう母には会えないかもしれない。一生を駅で彷徨い、外には出られず、誰にも見つけてもらえず、飢えて死ぬのだ。きっとお風呂にも入れなくて、髪は伸び放題で、わたしを見た人は誰もわたしとは分からずそばを通り過ぎていく。わたしが追いすがっても、きっとまた人混みに阻まれて、大事な人には二度と会えない。わたしを構成するものは、いまこの瞬間にもほどけてしまって、雑踏に紛れて消えてしまう。頬の濡れる感触も失われていく。
「——こーら」
涙を拭く手を、上から掴まれた。呆然と見上げると、眉を下げた佑彰さんが、わたしを見下ろしていた。
「ちょっと離れただけだろ、泣かなくても大丈夫」
涙で濡れた手を、佑彰さんはぎゅっと強く握ってくれた。それでわたしはやっと、ばらばらになりかけていたわたしが、元の形に戻ったことを知った。佑彰さんの手は、やはり特別だった。離れないためにつなぐ母の手とは違う、離れてしまった自分を取り戻させてくれる手だった。
どんな映画を見たのかは、もう覚えていない。
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