祖母の家に預けられた日は、夕飯を食べてから自宅に帰るのが決まりだった。夕方になると、祖母と佑彰さんと三人でちゃぶ台を囲んだ。祖母の作る夕飯は、庭で採れた野菜を使った和食が多かった。祖母はどんな野菜も大きく実ってから収穫したので、野菜はどれも水っぽく味が薄かった。


 けれどどんなものでも一口は食べなさい、というのが祖母の方針で、わたしは小鉢に入った和え物などを息を止めて飲み込んだ。そうして息を吐くと、隣に座った佑彰さんがわたしの小鉢を自分の手元に引き寄せた。特にわたしの方を見ることもなく、苦手なものを食べたわたしを褒めるでもなく、叱るでもなく、それが当たり前のように。佑彰さんは静かな箸使いで、黙々と夕飯を口に運んだ。一人分の食事と、一口分だけ欠けた小鉢を完食していた。


■ ■ ■


 日中、佑彰さんと出くわす機会は少なかった。昼間のうち、彼は自室で仕事をしていて、わたしは彼の部屋に入ってはいけないと祖母に言い含められていたからだ。彼の自室は特別に洋室にリフォームされていて、床はフローリングに、窓はアーチを描く格子窓に、壁には白色の壁紙が貼られていた。ドアを開けると部屋の四方が天井まで届く本棚に囲まれ、窓側に、木目の美しいオーク材の書斎机が鎮座していた。佑彰さんは、仕事中、入り口には背を向けて書斎机に座っていた。なんでそんなことを知っているかというと、彼の仕事中、わたしは薄くドアを開けて、こっそり部屋の中を覗いていたからである。入るな、と言われていたから入ってはいない。ので、セーフというのがわたしの認識だった。気付いていたのかいなかったのか、彼は一度もわたしを振り返らなかった。ただ少し背中を丸め、静かに書斎机に向かっていた。


 仕事中でなければ、佑彰さんの部屋に入っても良かった。わたしはちょくちょく彼の部屋に入っては、本棚を見上げた。そこに収められた本はどれもわたしの手のひらほども分厚く、図書館の奥、誰も立ち寄らない棚を埋める本の仲間みたいに見えた。誰にも開かれず、本自身も何が書いてあるか忘れてしまったような。けれど、佑彰さんはそれらをしょっちゅう手に取っては、読み耽っているようだった。彼の節くれだった長い指で開かれると、本は本来の姿を取り戻し、読み手に豊かな世界を教えてくれるのだった。わたしは何度も、自分の国語辞典をパラパラめくってみた。わたしの手で開かれても、国語辞典の内容はいつも一言一句変わらなかった。もしかすると、佑彰さんが開けば、これも本当の姿を顕して、世界の秘密を教えてくれるのかもしれない。いつかわたしの手もそうならないだろうか。わたしは国語辞典を読みながら、ときどき佑彰さんを見つめた。手元の本に視線を落としていた彼は顎を上げ、少し首を傾けて、


「読めない文字があったか?」


 と聞いてくれた。ううん、と返事をすると、佑彰さんは一つ頷いて、また読書に戻った。


■ ■ ■


 それでいくと、父も同じようなものだったかもしれない。

 父と佑彰さんが連れ立って歩いているのを目撃したことがある。秋の夕暮れだった。空は不穏なほどの橙色に染まって、紫の雲がちぎれて浮かんでいた。わたしは自宅の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。そうして、家の前の通りの向こうから、父と佑彰さんが歩いてくるのを見つけたのだ。


 わたしの知る父は、厳格で、冷静で、表情の乏しい人だった。テレビで、人間を模したロボットが登場するアニメを見たことがある。あれに近かった。仕事で忙しく家に寄り付かないのもあって、わたしは父が自分と血のつながった人間であることを肌身で感じることはなかった。


 けれど、佑彰さんと肩を並べる父はまるで別人だった。佑彰さんと父は手をつないでのんびりと歩いていた。佑彰さんのすべらかな手のひらと、父のゴツゴツした手のひらがぴたりと吸いついて、一つの生き物のようだった。二人は肩が触れ合うほど寄り添い合い、顔を近づけて言葉を交わしていた。声は聞こえなかったが、二人だけの秘密を囁いているようだった。


 父は穏やかに笑っていた。初めて見る父の笑顔だった。わたしの生まれる前、母と結婚する前の父はこういう表情を晒す人だったのだろうか。わたしの目には、佑彰さんの手が、父から「父親」という皮を丁寧に剥がし、彼本来の姿を明らかにしたように映った。そういえば、わたしは父の名前も知らない。二人の影が、焦げ付きみたいに路上に黒々と伸びていた。


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