父の愛人という男

香月文香

 父が死んだので、わたしは佑彰さんに連絡しなければならなかった。


 佑彰さんというのは、父の愛人だ。苗字は知らない。父も母も、彼に関わる人はおしなべて彼を名前で呼んだ。愛するように、憎むように、恨むように。彼の名前はさまざまな響きでわたしの耳に届いた。


 父も母も働いていたので、わたしはよく、家から歩いて十分ほどのところにある父方の祖母の家に預けられていた。祖母の家は古い平屋の日本家屋で、小さな庭を囲むように建っていた。庭では祖母が野菜を育てており、夏にはトマトやきゅうりが、冬には大根や白菜が、それぞれ葉を広げて繁っていた。


 小綺麗な分譲マンションのわたしの家とは違って、祖母の家ではトイレでしゃがまなくてはならず、土壁はささくれ立ち、夜になると廊下は真っ暗だった。その一室に、佑彰さんは暮らしていた。


 彼がどんな経緯で、いつからそこに暮らすことになったのか、わたしは知らない。ただ出会いだけは覚えている。幼稚園の夏休み。いつものように祖母の家のインターホンを鳴らすと、ゆっくりと玄関の引き戸が開いた。肌を焦がす日差しが照りつける玄関とは反対に、暗い家の中でぬっと影が動いた。それが佑彰さんだった。彼はずいぶん背が高く、洗いざらしの白いシャツに、ジーンズを履いていた。彼は日差しの中に突っ立つわたしを見て、サンダルを引っ掛け、玄関口に出てきた。裸足の爪は一つ一つが綺麗に切り揃えられており、ジーンズのほつれた裾から晒されたくるぶしは白かった。


 日の光の下に出てきて、やっと彼の顔がうんと整っていることが明らかになった。肩辺りまで伸ばされた髪は、光を透かすグレーだ。年を取った人以外に、こんな髪色の人は見たことがない。街で見かける白髪とは違って、きらきらしていたけれど。


 しばらく見つめ合い、わたしは言った。


「……おじいちゃん?」


 祖父はもう亡くなっていた。でもこんな髪色なら、わたしの生まれる前に死んだおじいちゃん以外に考えられなかった。わたしの視線が髪に釘付けになっているのを見て取ると、彼はニヤッと笑った。


「いや? 俺はきみのパパの愛人」

「あいじん?」


 聞いたことのない言葉に、わたしは首を傾げた。その拍子に髪の毛が汗ばんだ首筋に貼りつき、ちくちくした。

 佑彰さんは目を細め、大きく頷いた。


「そう。知らない?」


 わたしは首を横に振る。幼稚園では聞いたこともなく、母も父も口にしたことのない言葉だった。

 そっか、と小さく呟くと、佑彰さんは「ちょっと待ってて」と言い置いて踵を返した。それから振り向いて、夏の日差しに焼かれ続けるわたしに、


「中入ってていいよ」


 別に彼の家でもないのに、すべらかな手のひらで三和土を指し示した。

 上がり框に腰掛けてしばらく待っていると、佑彰さんが何かを手にして戻ってきた。茶色とクリーム色の、直方体のブロックのようだった。彼はわたしにそれを手渡した。


「分からないことがあったら、ちゃんと調べるんだよ」


 ずしりと重いそれは、国語事典なのだった。茶色が表紙で、クリーム色がページだ。おそるおそる開くと、読める文字と読めない文字が混在していて途方に暮れた。佑彰さんを見上げると、彼は不思議そうに目を瞬いていた。


「読めない?」


 わたしは頷いた。彼はふうん、と息をつくと、わたしの頭に手を置いた。


「じゃ、俺のことは分からなくていいよ」


 とはいえ、次に祖母の家を訪れたとき、茶の間のちゃぶ台の上に、赤い表紙の子ども用国語辞典が置いてあった。それでわたしは、佑彰さんが何者かを知った。わたしのお父さんの愛人。父が、母以外に、愛している人。

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