32 迷い子
「おら、ここでくわれぢまうんだぁ……うっ……うぅ……」
しくしくと泣いているクラボッコの頭を、笑花が優しく撫でる。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ、だから」
あれから、もうどれぐらいの時間が経ったのだろう。
時計も、本棚も、机も椅子も――周りの何もかもが激しいディストーション加工を施された画像のように不自然に捻じ曲がっている。
時刻ばかりか、今が朝か夜かも分からない。
数十分のようにも数時間のようにも感じる時と息苦しい空間の中で、笑花達はただ呆然と、膝を抱えている事しかできないのだ。
何が自分の身に起きたのか。
未だに笑花自身にも分かってはいない。
架美来の教科書を探そうと教室を飛び出して、クラスの女子達がちょうど玄関の外で騒いでいるところに出くわした。
きゃっきゃと黄色い声で笑う女子達。
そのリーダーが乱雑に手で弄んでいたのは、国語の教科書。
誰のものかは、すぐに分かった。
「それ、凪良さんの、だよね」
上履きのまま追いかけて引き止めると、リーダーの女子が「違うよォ」とわざとらしくはぐらかした。うちわのように彼女が仰ぐボロボロの教科書。その裏に記されていたのはやはり架美来の名前だった。
「返してっ!」
抑えていた悲しみと怒りが一気に溢れて、掴み掛かって――。
そうして必死にもみ合っている中、突然目の前にいた女子が急に消えてしまった。
「えっ?」
リーダーの女子だけではない。
周りにいた女子たちも誰一人としてそこにいない。
笑花は、玄関にたった一人で立っていた。
「え……えぇっ?」
慌てて辺りを見回す。
下校していた生徒達も。
校庭で遊ぶ男子達も。
校舎内にいる先生達も。
この学校から人がごっそりいなくなってしまったかのように、人の姿も声も、気配すら全く感じない。
みんな、どこ行っちゃったの?
急いで教室に引き返そうと玄関扉をくぐり抜け――笑花は、目の前の光景に息を呑んだ。
「うそ……」
薬品やフラスコ、ビーカーがずらりと並んだ棚。
他の教室にはないだろう器具が揃うそこは、紛うことなき<理科室>だった。
理科室は、廊下を右に曲がって校舎の突き当りにある。玄関の先がすぐ理科室などあり得るはずがない。
「ここ、学校、だよね?」
間違いなく今、玄関をくぐったはずなのに。
慌てて理科室の外に出てみるが、やはりそこは廊下ではない。
幼くも大胆な筆致で描かれた数枚の絵が後ろのボードに貼られたここは、一年生の教室だった。
不可思議な体験とは無縁な人生を送っていた笑花でも勘づく。
自分のいる場所が、いつも過ごしている学校ではないと――。
「ここから出なくちゃ、だね」
それから笑花は幾度となく学校の中を彷徨い続けた。
ドアや窓、教室――。
出入り口など場所と場所の境目を越えた瞬間、学校の何処かにワープしてしまう。理科室から一年の教室、一年の教室から家庭科室といった具合に予測できない場所へ移動するらしい。
そして、進めば進むほど目に見える景色や物が歪になっていく。最初は目がおかしくなったのかと思ったが自分の身体や手足は歪んでいない。だとすれば、信じ難いがこの景色自体が歪んでいる。
自分は、何処に来てしまったんだろう。
一体、どうなってしまったのか。
でもきっと、このおかしな迷路にも出口はある。
そう信じて飛び込んだ十度目のワープ。
辿り着いた図書室で、笑花とクラボッコは出会った。
「わッ! だ、だれだァ?!」
身体がすっぽりと頭の髪に覆われた、明らかに人ではないモノ。それでも怖いとは感じなかった。何せ自分よりもずっとひどく怯えていたからだ。
この子も私とおなじ、なのかな。
そうなら、笑ってなくちゃ。
だって私は、<笑花>だもん。
「わたし、笑花。あなたは?」
そうして声をかけ続けていると、最初の内は泣いてばかりいたクラボッコも次第に心を開いたのか、ぽつぽつと自分の話をし始めた。
自分がこの青葉ヶ山分校に棲んでいる妖怪だという事。
仲間と一緒にいたはずが、気が付いたら周りに誰もいなくなってしまった事。
そして、最近になってこの学校に棲みついてしまった、あの厄介な悪鬼の事――。
「きっとこれも、あのバケモンのはれなんだぁ……」
「その、化物ってどんな見た目なの?」
「そりゃあもうおっかねぇよォ。うんと図体がでかくて、ずぅない口がガバァって開いて、こんけ鋭いキバも生えててなぁ……」
笑花にとって、クラボッコの話は学校の図書室で読んだお化けの本の物語のように思えた。だが自分が直面している状況のせいか、今はすんなりと受け入れる事ができる。
身振り手振りでクラボッコが話をしていたその時――笑花はふと、窓の向こうに黒い大きな影を見た。
いや、違う。
窓を覆い尽くす程大きい顔。
カバに似た大口からのぞく、白い牙。
あれって、いまの話の――。
兎や鳥のように粒らな瞳の目玉がギョロギョロと動き、とうとう自分たちを捉えた時、笑花の肌が一斉にぶわりと粟立った。
その化物が一体どれほど危険なのか、笑花にはまだ実感がない。
それでも自分の中の本能が「逃げて」と激しく訴えている。
「逃げるよ!」
まだ窓の外に気付いていないのか「へぇッ?」と目を白黒させるクラボッコを抱きかかえて、笑花は意を決して図書室の扉を出た。
飛び込んだ扉の先は、給食室前の廊下と思しき場所。
ここなら玄関と一直線に繋がっている。もしかすると外に出られるかもしれない。
クラボッコをしっかり抱きしめて、笑花は幻覚のようにうねる廊下の中をただひたすらに走った。
くぐもった遠吠えが追いかけてくる。
追いつかれたら食べられちゃう。
声から逃げるようにただひたすら、走って、走って、走って――。
今の自分の居場所が何処なのか分からないぐらい歪んだ景色の中を進んでいた頃、異変は起きた。
「あ……」
身に起きた猛烈な違和感に、その場で反射的にうずくまってしまった。
「ね、ねーちゃん。大丈夫かぁ?!」
しどろもどろするクラボッコに「うん、へい、き……」と強がったものの、じわじわと身体を蝕む苦しさに息が震えた。
身体が鉛のように重い。
胸が押し潰されてるみたいに呼吸が苦しい。
どうして、動かないの?
早く逃げたい。強い気持ちはあるのに身体が思うように動かない。
抗って踏ん張ったものの、とうとうその場にへたり込んでしまった。
ウォオオオオォォォォオオオン――!
耳を裂くような咆哮にクラボッコが「ひやぁッ」と身を屈めた。
さっきよりも、近い。
背後から響く重い振動。
ドシン、ドシン。
徐々に重鈍な足音がこちらに近づいて来る。
逃げなくちゃ、いけないのに。
なおも言う事を聞かない身体と反して、焦燥感だけが激しく襲いかかってくる。
ドシン、ドシン、ドシン――。
「ねぇちゃん……ねぇちゃん……!」
クラボッコの叫ぶ声に一言も答えられず、重い瞼が閉じかける。
目の前がぼやけ始めて、やがて景色が薄闇に染まっていく。
もう、だめ、なのかな。
「……み……と……宮本!」
朦朧とする中。
強く身体を揺さぶられた感覚に、既の事で離れかけた意識が戻る。
――……だ、だれ?
「しっかりしろ! 宮本!!」
必死な顔で自分を呼ぶ、黒髪の誰か。
視界がぼやけて、顔は見えない。
しかし、必死に自分を呼び起こそうとするその声には、覚えがあった。
「なぎら、さん?」
名前を呼ぶと、黒髪の少女は――架美来は、笑花を見て、小さく頷いた。
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次回、【白光の焔 第33話】の更新日は【12/21(土)】です。
どうぞお楽しみに!
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