第三章 青葉ヶ山分校の妖 後編
24 目覚めと羞恥
白く霞んだ、曖昧な世界。
穏やかな白い海の上をただゆらゆらと揺蕩っているかの如く、ホムラの意識は何処かを流れていた。
自分の中の自分がその潮流に溶け出していく。
どこまでが自分で、どこまでが自分ではないのか。
全てがあやふやになるこの感覚。
また、自分は夢の中にいるんだ。
その世界と意識が混ざり合うのを感じながら、やがてもやがかった視界に二つの白い人影が映った。
一人は、前に夢で見た白い女。
その顔を覆い隠すように、ツバの大きなモダンな帽子を目深に被っていた。
もう一人は、その女に瓜二つな子供だった。
その子供の頭には、どこか見覚えのある小さな白い獣の耳がついている。
――よいですか
母さまが戻って来るまで、この山の外に決して出てはなりませんよ
優しい声音で、自分に抱きつく子供の頭を女が優しく撫でる。
しかし、子供は首を激しく横に振り、また女の胸の中に顔を埋めた。
――どうして、どうして? どこに行くの?
――すぐ近くに出掛けるだけ。何も心配はいりませんよ。
いい子で待っていられますね
――わたくしもいっしょにつれていって、母さま
――
そうです。これは隠れん坊。
少しだけ長い、母さまとの楽しい隠れん坊なのです
――いやです。母さまとはなれたくない
――いけませんよ。だって貴女が隠れなくては、隠れん坊にならないでしょう
ぽろぽろと涙を流す白耳の子供を、女が強く抱擁する。
純粋な瞳から透明な涙の粒がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
――さあ、涙を拭いて
しばらく眠って、目が覚めたら隠れん坊を始めましょうね
――必ず此処に帰ってきます
彼が愛したこの地と、人と、貴女のために必ず……
――愛していますよ。ハル
上擦った女の声が響いた途端、視界が暗く沈んだ闇に侵されていく。
冷たく、突き刺すような痛みがじわりと広がっていく。
静かに燻る感情に押し潰される苦しさが、冷酷に支配する。
――どうして、母さま
どうして帰って来てくださらないの?
――離れたくないと言ったのに
――わたくしを、独りぼっちにしないで
胸が締め付けられる悲痛な叫びが頭に強く響いた感覚に、はっと目が開いた。
ふわふわとした曖昧な感覚がたちまち鋭敏になる。
自分が存在しているという確かな感覚。
夢じゃ、ない。
最初に目に映ったのは、格子状の天井に吊り下がった組み木の照明だった。おそらくここは和室なのだろうが、庶民じみたホムラの家の和室とは雰囲気の違う、どこか格式の高い客間のようだった。
次に目線を横に向けると、自分の側についている白狐の姿が目に入った。
祈るようにホムラの手を強く握るその表情は、ひどく憂苦を帯びているように見えた。
「白狐……?」
まだぼんやりとする中、ほとんど無意識で呟く。
ほとんど掠れ声に近かったはずだったが、白狐はすぐにホムラの声に気がついたようだった。
「ホムラ様っ!」
垂れ下がった白耳がぴんと立ち、俯いていた白狐の顔がたちまち安堵した様子に移り変わった。
「ああ、本当に良かった! ご無事で本当に……」
「オレ、なんで……ここは……」
「
白狐の横から、突如黒い革ジャケットを着た女が現れた。
一つにきっちりと縛り上げた黒髪。
ライダースーツでなお強調される、くびれのある女性らしい体型。しなやかさを感じさせながらも、確かな強かさを漂わせるその女は、紛れもなくホムラの担任教師である熊野だった。
「学校で気を失ったんだ。覚えてるか?」
尋ねられたものの、辛うじてあのライダーの正体が熊野だと分かった事以外、意識が途絶えた前後の記憶は霞みがかったようにぼんやりとしている。
力なく首を横に振ると、熊野は「だろうな」と苦笑いをした。
「家に送ろうとも思ったんだが、深夜に家に押しかける訳にもいかなくてな。架美来に頼んでここに運んでもらったんだ」
急遽、という事は自分のせいでここに来ざるを得なかったのだろう。
また架美来に……いや、全員に迷惑をかけてしまったのだ。
惨めな有様に顔を俯く。そんなホムラに熊野は「そんなに落ち込まなくたっていい。むしろお前の反応は正しいよ」と頭にぽんと手をのせた。
その優しさがありがたかった反面、惨めな気持ちもまた湧き上がった。
「早速で悪いが朝山の話が聞きたい。話せるか?」
「大丈夫……だと思う」
ホムラが頷いたのを確認して「神獣様も、よろしいですか」と熊野が続けて尋ねると、白狐も静かに頷いた。
立ち上がると、体が少しふらついた。地面がぐらぐらと揺れているかのような眩暈もする。自分は、こんなにショックを受けているのか。なんて情けないんだろう。
猛烈に襲いかかる羞恥を押し殺して、ホムラは熊野たちにつづいて和室を後にした。
外の廊下は、夜の静寂に溶け込むように仄暗く、そしてやけにしんと静まり返っていた。灯りらしい灯りといえば、ちかちかと点滅する白熱灯だけだった。わずかな灯りを頼りにホムラと白狐は熊野の後をついて廊下の先を進んでいく。
どこまでもつづく和室の襖、奥ゆかしい回り廊下、縁側から窺える立派な庭園――。
熊野はここを別荘と言っていたが、富豪が住むような立派な日本家屋のそれだった。少なくともホムラの家よりは何倍も広い事は確かだった。
広い廊下をしばらく歩いても、ホムラ達以外の気配がまるで感じられない。
この別荘に、あの黒子達と住んでいるのだろうか。
そんな考えが頭に巡っていると、不意に熊野がとある奥座敷の前で足を止めた。
「架美来。入るぞ」
熊野の声がけにすぐに「どうぞ」と中から声が返ってきた。
熊野につづいてホムラたちも座敷の中へと入る。
十畳ほどの裏庭に面した広い座敷の真ん中で、架美来は一人、大量の紙の書類が散乱している座卓の前に座っていた。
「
「フウカは休ませてます。鬼丸は見張りの方に」
「どうする? 呼んでくるか?」
「いや、いいですよ。フウカと鬼丸には俺から説明します」
ふと、熊野と話をしていた架美来と目が合う。
きっと嫌味の一つや二つ言われるに違いない。
そうホムラは覚悟をしていたつもりだったが、架美来は何も言わなかった。
わざとらしく目を逸らす訳でもなく、かと言って責め立てる事もしない。
ただ「起きられたんだな」とだけ言って、淡々と散らばった書類を整理し始めた架美来の態度に、ホムラは自分の顔がカッと熱くなったのを感じた。
見透かされた。
自分が今どんな気持ちでいるのか、たったこの一瞬で見抜かれた。
いっその事、怒鳴られた方がまだマシだ。
激しい羞恥と眩暈にどうにかなってしまいそうな情動を何とか抑えて、ホムラは熊野に促されるまま座卓の前へと座らされた。
架美来の隣に熊野、二人の向かいにホムラと白狐がそれぞれ座り、その座卓の中央には、乱雑にまとめられた書類を避けて一台のスマートフォンが置かれている。
「さ、今度こそ一から百まで説明してもらおうじゃない。馬鹿兄貴」
スマートフォンに向かって熊野が話しかけると『あはは、そんなおっかない声出さないでよー。深夜に呼びつけたのは悪かったけど』と、間延びした男の声がスピーカーから聞こえてきた。
ホムラはつい昨日の夕方、この声を聞いたばかりだった。
『僕もちょうど話をしたかったところ。アイコちゃんも一緒にね。さて、これからどうしよっか』
電話越しの男――
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大変お待たせ致しました。
本日より第三章の公開が【週1(毎週土曜更新)】でスタートします。
次回更新日は【10/26(土)19時】です。
引き続き、白光の焔をお楽しみ下さい!
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