20 馬狼の土地神
その一方、青葉ヶ山から少し離れた浜町――
町の内陸側に位置する小さな住宅街の林道の中を、麦わら帽子を被った一人の男――
「あっついなぁ……」
数日前と比べて少し和らいだとは言え、未だに続く厳しい残暑にとうとう愚痴が溢れた。
何せSHM会の本部から馬狼町まで三十分、この安物のシティサイクルを走らせてやって来たのである。
額につたう汗を拭いながら木漏れ日の道をしばらく歩き続けると、看板の立てられた藪道に辿り着いた。
『馬狼伝説の地 雨神の丘』――。
辛うじてそう読める掠れた看板の近くにシティサイクルを停め、日本酒を両手に持って藪道の奥をさらに進んでいく。
数分歩いたところで、やがて小さな祠が目の前に現れた。そして、その横の長椅子には浴衣姿のだらけた風貌の男が一人でお猪口をあおっていた。
胸がのぞく程大胆に着崩しただらしの無い風貌の男。今までずっと酒を呑んでいたのだろう。顔が赤らんでいる男の脇には、五合程の大きな徳利が置かれている。
「どーもぉ、ホロツネ様」
男が徳利に手をかける寸前で陽満が声をかける。
朝の酒盛りを中断させられたからか不機嫌そうに顔を上げた男だったが、声をかけたのが陽満だと分かると「誰かと思えば……シラヤマの小僧ではないか」と、少し驚いた様子で口を開いた。
「風の便りで聞いておるぞ。何やらあちこち動き回っているようではないか。相変わらず忙しない奴よのう」
「やっぱり広まっちゃってます? ま、ちょーっと色々ありまして」
「小娘にいいように使われよって。神遣といえど物好きも大概にした方がよいぞ」
「あはは。それが僕の御役目ですから。あ、これ、ホロツネ様お気に入りの地酒ですよぉ。こっちがいつもの
そう言いながら、陽満はさりげなく長椅子に座り、男――ホロツネの横に一升瓶を次々と置いた。
「ふむ、小僧にしてはよい趣味をしておるではないか。つい先日まで不味い酒ばかりを呑まされていたと思ったのだがな」
「僕だっていつまでも青二才のままじゃいられないですよ。ホロツネ様はもちろん、
「良くもまあ思ってもおらぬ事をぬけぬけと。口だけは達者な奴よ」
「いやぁ。ホロツネ様にお褒め頂けるなんて光栄ですねぇ」
そう言いながら陽満は瓶の中から杜香泉と書かれた一本を取り出し、ホロツネの前に差し出した。「口八丁手八丁やりおってからに」そう呆れたように言うホロツネの顔は満更でもなさそうであった。溢れる寸前まで並々と注がれたお猪口をホロツネは一気に煽り、さらに頬を赤らめながら満足げに息を吐いた。
「で、今度はどんな厄介ごとに私を巻き込むつもりだ? まさか、ただの四方山話をする為に来た訳ではなかろう?」
「そんなそんな、厄介ごとだなんてとんでもない」
「白々しい言い方はよせ。お前さんが酒を持ち寄る時は面倒事を押し付ける時よ。それも大瓶を三本など気味が悪いったらありゃあしない」
「あはは、そうかもしれませんね。じゃあ遠慮なーく碌でもない話しちゃいますねー」
「待て小僧。私は厄介ごとを好んで聞く嗜好はないぞ。私を顎で使うな」
「そうですか……。では、残りのお酒はいらないという事で」
残りの二瓶をホロツネから遠ざけようとする陽満よりも先に「待て待て! これは私の酒だ! 誰がいらぬと申したか!」と、ホロツネが狼狽した様子で三本の瓶を腕で守るように囲った。
「いーえ。僕が供えたのはその一瓶だけですよぉ。残りの二瓶は僕のお願いを聞き入れて下さった神々への供物です。あーあ。せっかく用意したのに他所の土地神様にお願いするしかないかなぁ」
「御託はもうよい! さっさとその酒を供えよ!」
「さすが馬狼の土地神様。寛大な御心遣いに感謝します。ホロツネ様」
満面の笑みで手を合わせる陽満に、ホロツネがげんなりした表情で「小娘め……。なぜ腹の底が知れぬような者を神遣に選んだか。誠に解せぬ」とぶつぶつと呟いた。
良く言えば人の良さそうな、悪く言えば人垂らしなこの笑みで人も神も虜にしてしまう陽満だが、ホロツネはどうもこの人間の男に末恐ろしさを感じずにはいられなかった。
「神獣と人間の和合。ホロツネ様は、あり得る話だと思いますか?」
黙々とお猪口に酒を注ぐホロツネに、陽満が唐突に問いかける。しかし、ホロツネは特段驚くこともなく「成程。確かに厄介な話だ」と合点がいった風にふんと笑った。
「その神獣、よもや青葉ヶ山の九尾白狐か?」
「ありゃー。それも馬狼の方まで広まっちゃってますか」
「何を今更。天界は噂を酒の肴にするような連中ばかりよ。嫌でも耳に入る。しかし、根も葉もない只の俗言かと思っておったが、まさか誠であったとはな」
「ですよねぇ。普通なら信じ難い話です」
「この世の常を考えれば、次元の異なる者同士の和合は成立せぬだろう。が、全くあり得ない話とは断言できぬ」
「と言いますと、ホロツネ様は似たような和合の事例をご存知で?」
「いいや。そのような珍妙な御霊、もしも出会っていようものなら流石の私でも暫くは覚えておるだろうよ。しかし、何時如何なる軸でも世の理から外れた存在というのは常に有るもの。現にその人間と白狐は和合を成立させたのであろう?」
「ええ。僕は和合の現場に立ち会っていませんが、彼らの魂が結ばれているのは確かなんです。ただ、和合以前に色々と引っかかる事があるんですよね」
「ふむ?」
「僕が出会った白狐ちゃん。彼女が神獣の
「ほう……。彼奴は良く妙齢の
「ええ。おそらく往古の
「其れでやっと姿を表したと思えば、かつての威光などまるで無い幼い娘だった、と」
お猪口の酒を啜りながら言うホロツネに、陽満は数日前の白狐の姿を思い返す。
陽満が初めて対面した神獣白狐。
あの白狐は、間違いなくホロツネの言うような<妙齢の女子>などでもなければ、神獣の盛装さとは程遠い幼気な少女と言うべきであろう。
「厄介な呪術で力を封じられている訳でも無いようですし、一時衰弱したからと言って始祖神の力自体が衰える事ってあるんでしょうかねぇ」
「さてな。私も始祖神の神獣とは殆ど縁がない。とんと分からぬ。ただ、一度授かった神力を失うというのは考え難いだろうな」
「そうですよねぇ。だから白狐ちゃんの事も余計気になっちゃってるワケなんですけど、一番気にかかるのは器になった子なんですよ。今は元気でもこれからどうなるか……」
「器? その人の子は、健在なのか?」
まさか、と目を見張ったホロツネに陽満は「ええ、今もピンピンして学校に通っていますよ。恐いぐらいに」と神妙な面持ちで頷いた。
「和合が成ったのはまだしも、五体満足であるとは……何とも面妖な器だ」
「ええ。そして、恐らくその和合の鍵を握っているのは、その子の側についていたヒノカミの神使――。彼、神遣の僕にわざわざ姿を見せてまで忠告をしてきたんですよ。無用な手出しはするな、と」
「人の子の側仕えをする神使か。殊更面妖ではないか」
「ですねぇ。まあ、側仕えというよりは器の子を護っているようです。その彼の正体が分かれば少しは謎が分かるんでしょうけど、今のところ何処の神使なのかさっぱり素性が分からなくて。で、ホロツネ様にお願いなんですけど……」
「待て。まさかこの私に、その神使について探りを入れろと申すのではあるまいな」
「はいー。そのまさかです」
「断る」
「そんなぁ。お酒は奉納したじゃないですかー」
「貴様のお願いとやらは確かに聞いてやった。だが、聞き入れるとは一言も言っておらん。大体何故私なのだ。主の小娘に頼めばよいではないか」
「姫様ってこういうのニガテなんですよねぇ。高天原にも顔を出さないからツテもなくって。その点ホロツネ様だったら、ある程度お力も高天原の地位もありますから適任だと思うんですよぉ」
「ええい、世辞など要らぬ! そんな面倒ごと、私は引き受けぬぞ! 独酌を邪魔するな、さっさと他を当たれ!」
「北陸の静笠、雪花の雫」
陽満の唐突な一言に、顔を背けていたホロツネが恐る恐る「よもや、それは……」と振り返った。
一体どこに用意していたのか。陽満の手元にはいつの間にか四合瓶サイズの化粧箱があった。
高級そうな木箱には「雪花の雫」と優美な毛筆の箔押しがきらめいている。
「勿論ご存知ですよね。知る人ぞ知る米所の高級酒です。ただ、そこの酒蔵、地元でしかお酒を絶対に売らない方針らしくてですねぇ。当然、杜の宮原の僕達じゃ手に入れられる代物ではありません。でもこの間、一度だけ遠方からの注文受付をしていた期間がありまして。勿論、受付開始から注文殺到。それはそれは注文に大変な苦労をしたのですが、奇跡的に一本だけお取り寄せできたんですよー」
笑顔を崩さないまま淡々と続く陽満の話に、ホロツネの喉がごくりと鳴った。
それは、つい最近の事だった。
たまに赴いた天界で、その酒を自慢げに話す神の話を聞いた。
何でも信者から偶然捧げ物として頂戴したらしく「絶品を超越した至高の一品」だの「これ迄の酒が不味く思える」だのと散々酒の旨さを語られた挙句、「信者の少ないお主にはどうせ口にできぬ」と小馬鹿にされたのである。
勿論腹立たしさを感じたが、珍しく羨ましいと思ったのは事実だ。
何せこちらは只の片田舎の土地神。熱心な信者や酒に精通した信者など殆どいる筈もなく、供物が捧げられるだけでもまだ良い方なのだ。
そう思い諦めていた矢先のまさかの巡り合い。
はたまた、欲望を利用した悪の誘惑か。
「幻の逸品、是非とも味わってみたいですよねぇ」
にこやかな笑みで陽満が尋ねる。
返事など聞くまでもなかった。
「解ったッ!! 解ったからさっさとソレも捧げろぉ!!」
林中に響き渡る程の情けないホロツネの叫びに「やっぱりホロツネ様は話が早くてありがたいなぁ」と、陽満が傍らで暢気に笑った。
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※今回で不定期更新は終了です
次回より週1(土曜)の定期更新となります
※次回更新は【7/20(土)】の予定です
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