18 日常の狭間

 窓から差し込む朝の日差し。


 降り注ぐまばゆい光に自然と目が開いて、ホムラは布団の横の目覚まし時計を見た。

 午前五時ちょうど。

 四年間で見慣れたいつもの時間にホムラはほっと胸を撫で下ろした。


 当たり前の朝があたり前にやってくる。

 たった数日だけの混沌とした非日常を過ごした今は、それがどんなにありがたい事なのか、よく分かる。




 いつも通り支度を済ませて茶の間に行くと、ちゃぶ台にはすでに朝食が並んでいた。

 今日の朝食は目玉焼きとソーセージ、サラダらしい。

 できあがったばかりの朝食は、朝の陽光を受けて美味しそうな艶を放っている。


「おう、ホムラ。メシできてるぞぉ」


 ちゃぶ台の前に座ってしばらくすると、台所から俊蔵がお盆を持ってやってきた。


 今日も、俊蔵に変わったところは見られない。

 土曜、日曜と逐次家を見張ってはいたが結局何も起こらずいつも通りの休みを過ごしただけだった。


 しかし、今日は一連の熊騒動で休校になっていた学校がまた始まる。


 陽満は、ホムラが<過激派>や化物――魔が物達の標的になるかもしれないと言っていた。自分だけならまだしも、一緒に暮らす俊蔵もその標的に含まれるとしたら――俊蔵を家に残して学校に行く事が気がかりで仕方がない。


「どうしたぁ、んなぶすくれた顔してぇ。オメェ、土曜からずっとそんな調子で……あんべわりぃか?」


 味噌汁とご飯をちゃぶ台に置きながら俊蔵が心配げに言う。

 心底ホムラの身を案じているのだろう。優しい声に胸がずきりと痛む。


 俊蔵には、一昨日までの事や白狐の事を未だ話していない。

 白狐の口ぶりからこれは簡単に口にしてはいけない事で、そしてこれはあくまで直感だが、この繋がりの先にあるのが決して良い未来だけではないと思ったのだ。


 今まで俊蔵や祖母の初子には学校や友達の事も、どんな事でも話してきた。

 今回の事も、もしも相談できていたのなら、きっと真剣に聞いてくれたに違いない。

 しかし、自分の身に何があるかわからない以上、無闇に話すのが良いとも思えない。

 だから今は自分だけの中に留めておこう、と決めたばかりだった。


「じーちゃん」


「おう。どうした?」


「もしなんか……変な事があったら、ぜってー学校に連絡しろよ」


「んん? 何だぁ藪から棒に……」


「ぜってーだから。オレ、マッハでじーちゃんの所、行くから」


 真剣に言うホムラに俊蔵が眉をひそめる。「ホムラ、おめぇ……」問いかけようとする俊蔵を遮るように「いただきます」と朝食に手をつける。


 このまま話を続けていたら、うっかり口がすべってしまいそうだった。隠し事やウソを吐くのは苦手なのだ。俊蔵の前でなら尚更できるはずがない。


 初子が亡くなってから、食事は俊蔵とホムラが交代で作るようになった。


 料理などまるでやったことの無いホムラはもちろん、初子に任せっきりだった俊蔵も卵すら割れなかったぐらいの腕前だった。


 最初はあんなにぐちゃぐちゃだった目玉焼きも、今ではすっかりきれいに焼き上がっている。


 箸で目玉の部分を割って口に入れる。固焼きの黄身と味付けの塩胡椒が混じり合って、ほどよい塩辛さが口の中いっぱいに広がっていった。




 朝食を手短に済ませ、いつものように俊蔵に見送られながらホムラは一人で青葉ヶ山分校へと向かった。

 青葉ヶ山の悪鬼に襲われた女子高生の事も、深夜の白狐沼の出来事もまるでなかったように青葉ヶ山の朝はすっかり平穏を取り戻していた。

 これも、架美来の言っていたの仕業なのだろうか。


 清々しい空気に入り混じった不穏さを感じながら、歩き慣れた通学路を進んでいく。


 転校して最初の内は周辺の上級生と一緒に集団で登校していた事もあった。しかし一人、また一人と卒業してしまい、ホムラが四年生に進級した頃には近隣の地区の小学生はホムラ一人になってしまった。

 それからと言うものの、支度が終わったら時間に関係なくすぐ登校するようになったのだが、そうなるとほとんど誰もいない時間帯に学校に到着してしまうという事もままあるのだった。


 そして、今日もその例に漏れなかったらしく、まだ生徒達は登校していないからか学校はしんと静まり返っていた。


「おはよう、ホムラくん。今日も早いねぇ」


 学校の玄関口に向かおうとしたところで、花壇の草むしりをしていた眼鏡の老人がホムラに声をかけた。


「はよっす。たつジィ」


 老人に気付いてホムラも笑顔で挨拶を返すと、老人もまた柔和な微笑みを返した。


 ホムラが『たつジィ』と呼ぶ老人は、青葉ヶ山分校の用務員だ。

 本名の龍雄タツオから生徒達にはたつジィと呼ばれ、ホムラもつられてそう呼ぶようになった。


 普段は用務員として学校の見回りや掃除をしているようだが、休み時間や学校行事などでも積極的に生徒達と交流をしているようで、青葉ヶ山の生徒達には教員と同じくらい馴染みがあり、そして誰からも親しまれる存在だった。


「たつジィのが早いじゃん」


「んふふ。僕はちょっと用事があったから」


 たつジィの朗らかな表情に、ふと安堵を感じる。


 たつジィと話すと、ホムラはいつも心がいつも落ち着く。

 転校当初、一匹狼がしばらく続いていたホムラと最初に仲良くなったのはたつジィだった。それ以来、朝のちょっとしたこの時間にたつジィと話すのがホムラの楽しみになった。


 誰にも打ち明けられない大きな不安を抱えているホムラには、何でもない会話をしてくれるたつジィの存在がありがたかった。


「でもね、残念ながら一等賞じゃなかったんだよ」


「マジ? 誰?」


「君の教室に行ってごらん。一番の早起きさんに会えるはずだよ」


 なぜか嬉しそうに笑っているたつジィに小さく首をかしげる。


 教室と言うのはホムラの通う六年の教室の事だろう。しかし、今はまだ七時を過ぎたばかりだ。こんな朝早くから登校するようなクラスメイトに全く身に覚えがない。




 妙にニコニコしているたつジィに見送られ、ホムラは学校の中へと入った。

 校舎内は、外と同じようにしんと静まり返っている。たつジィ以外、まだ教師もほとんど来ていないのだろう。


 校舎と同じ時を過ごしてきた古い木製の下駄箱。

 その中の自分の上履きを取ろうとして、ホムラは不意に何かと目があった。


 一言で言えば、白くて丸い何か。


 片手大の野球ボールのようだが、その何かの表面にはフサフサとした毛が生えており、二つのつぶらな黒い目がついている。その正体不明の何かが、ちょうどホムラの上履きの奥の方でじっとしていた。


 何だこれ?


 虫でも、動物でもない。そもそも生き物なのかも分からない。

 もしや誰かが忘れた大きいキーホルダーだろうか。

 その奇妙な何かにふと手を伸ばそうとして、白い何かは突然「ピギィイイッ!」と鳴き声を上げた。


「わッ?!」


 子供のような金切り声に呆気に取られていると、白い何かが急に下駄箱を飛び出し、気付けばもうその姿はどこにもなかった。


「えぇ……何だよ......?」


 廊下をぐるりと見回してもやはり姿はない。少なくともキーホルダーではない事は確かなようだが、一体何だったのだろう。

 気になったものの、どこへ行ったのか分からなければ追いかけようもない。後ろ髪をひかれつつ、長い学校の廊下を一人で歩き自分の教室へと向かう。


 六年一組。


 教室の前に到着したものの、やはり物音一つしない。


 訝しがりながら扉をガラリと開けて、目に入った光景にホムラは思わず固唾を呑んだ。


 両手で数えられる程しかない教室の席。

 朝の陽の光が差し込む一番後ろの窓際に座っていたのは、架美来だった。



 文庫本なのか。手に収まるサイズの本を片手で持ち、頬杖をつきながらページをパラパラと捲っている。


 こちらに気付いていないのか、入ってきたホムラの方に顔を向けもしなかったが、それ程読書に夢中になっている様子でもない。その目はやはり、先週の初登校と同じように全てが退屈だという感情が滲み出ていた。


 どうやらたつジィの言う「早起きの子」はこの架美来だったらしい。


「……うげぇ」


 あからさまに嫌そうな声が漏れ出たホムラだったが、今更引き返すわけにもいかない。

 黙って自分の席に座り、横目で架美来の方をちらりと見る。


 架美来は、あの夜のように烏羽色の羽織を纏ってもいなければ、髪も下ろしていなかった。初めて出会った時のように白シャツに眼鏡、短髪と如何にも優等生らしい格好をしているが、よく見ると左頬や手などの至る所に絆創膏や包帯が見える。


 格好は大分違えどその傷の数々が、教室でつまらなさそうに本を読んでいる交流生とあの祓師が同一人物なのだと証明しているかのようだった。


「おい」


 急に声をかけられてドキリとなる。

 気がつくと、架美来はいつのまにか文庫本を閉じてこちらを見ていた。


「お前、陽満の依頼、どうするつもりだ?」


 呼びかけに応じようか決めあぐねている内に、今度は矢のように鋭い問いかけが飛んできた。同じ小学生とは思えない強烈な圧を放つ目つきがホムラを睨む。


 あの一件から架美来とも関係ができてしまった以上、接触を完全に避ける事は不可能だというのは重々わかってはいるが、せめて学校ぐらいは無関係でいたかった。

 しかし視線が合ってしまった以上、白々しく聞こえないフリはできない。


「どうするって……やるしかねーじゃん。オレが」


 渋々答えると、架美来は間髪を容れずに「そうじゃない。どうやって依頼をやるつもりなのかって聞いてんだよ」と厳しい声音で言った。


「んなの今聞かれたって……。和合とか言うのだって、やった事ねーのに……」


「じゃあお前に依頼は無理だ。すぐ断れ」


「何でお前に指示されなきゃいけねーんだよ。意味分かんねぇ」


「無策で突っ込んで簡単に終わらせられるもんじゃないんだよ。お前は大人しく家に引っ込んでろ。陽満には俺が話付けといてやる」


「勝手にハナシ進めんなよ!! オレだってしたくねーけど、でも断ってじーちゃんになんかあったらどーすんだよ!」


「下手に手ぇ出される方がよっぽど迷惑なんだよ、こっちは。いいから無知な餓鬼はすっ込んでろ」


「ハァっ?! さっきから何なんだよ! 人の事バカにしやがって! ぜってー断んねーからな!! オレは……ッ?!」


 言い切る前に突然架美来が席から立ち上がった。

 かと思うと凄まじい勢いでホムラに詰め寄り、その勢いのままホムラの胸ぐらを掴んだ。


「しくじってテメエ一人が勝手にくたばんならいい。ただの雑魚の生死なんざこっちはクソどうだっていいからな。けどお前はもうそういう存在じゃない。その甘い考えで家族どころか何百人、何千人の人間が巻き込まれて死ぬ。神獣だろうと何だろうと、どんなに力があるヤツだって気ぃ抜けば一巻の終わり。そういう世界なんだよ、お前が踏み込もうとしてる<外>ってのは」


 ホムラの服を掴み続ける架美来の表情は、驚くほど無表情に近かった。

 しかし、声音には抑えきれない激しい怒りが滲み出ていた。


「半端な覚悟で引っ掻き回すつもりなら、俺は陽満に抗ってでもお前と白狐を監禁する。依頼は絶対に受けさせない」


「……離せよ、凪良」


 胸ぐらを掴む架美来の右手の手首を、今度はホムラが強く掴む。しかし、架美来は全く話さないどころかさらに服を強く掴んできた。


 きっとホムラが「依頼を受けない」と言うまで離すつもりはないのだろうが、いつまでもされるがままなのは癪だった。


「離せって!!」


 怒鳴り声を上げて、ホムラは架美来の右手首をさらに強く掴みそのまま押し返そうとした。架美来も負けじと胸ぐらを掴み続け、ついに激しい揉み合いへと発展した。押して押し返され――声のない二人の静かな揉み合いはしばらく続いていたが、それは唐突に訪れた。


 架美来の手首を掴んでいたホムラだったが、急に押し返された拍子に手を離してしまった。急にバランスが崩れ、後ろに身体が傾いた。胸ぐらを掴んでいた架美来も咄嗟に手を離せず、ホムラに引き込まれる形で身体が傾くのは自然の摂理であった。


「「あぁッ?!」」


 お揃いの叫びが口から出たのと同時に二人共々床へ倒れこみ――すぐに教室にドシンッと鈍い音が響いた。


「ってぇ……ッ!」


 倒れ込んだ弾みで盛大に打った臀部と背中の痛みに、思わず呻き声が漏れた。

 ざっけんなよ!

 すぐ怒鳴ろうとしてハッと我に返った。


 自分の上半身に、何か柔らかいモノが密着している。


 いや、まさか。


 人生において、ソレに触れた事などもちろんない。

 いや、少なくとも記憶の上ではない。


 だが、そんなホムラでも


 おそるおそる、目を開ける。


 自分の身体の上に覆い被さっていたのは、やはり架美来だった。


 倒れた拍子で眼鏡は飛んでいってしまったのだろう。裸眼の状態でホムラの上にうつ伏せで倒れ込んでいたのだが、問題はホムラに密着している架美来の胸部と下半身だった。


 自分の体に密着している、生暖かい小さな胸のふくらみ。


 そして、男なら必ずついているだろうのない下半身。


――とんだ鈍ちんだな、オマエ


 いつかの架美来の言葉が奇しくも頭に過ぎった。


「おまッ……オンナ……!」


 茫然自失の中で辛うじて捻り出せたのは、そんな情けのない一言だった。


 黙り込んでいた架美来が、ゆったりと上半身を起こす。


 垂れ下がった髪から見える顔は、恐ろしいほどに無表情だった。

 それでも架美来が今どんな感情なのか――鈍ちんと呼ばれたホムラでも今度は手に取るように分かった。



 振りかざされた架美来の重い拳がみぞおちにクリーンヒットした瞬間、潰されたカエルの叫びが学校中に響いた。


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現在、不定期更新中です。

次回更新日は【6月下旬~7月上旬】予定です。


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