第二章 青葉ヶ山分校の妖 前編

妖怪の宴

 夜の帳が下り、下界と現世の境目があやふやになる丑三つ時を迎えると妖達の百鬼夜行は行われる――。


 現世の人間には迷信だと思われているこの宴は、妖の世では当然の日常だ。


 長月のこの日、青葉ヶ山に住まう妖怪達は、歌い踊り、賑やかな夜行をしながら集いの場所へと向かう。

 今宵の場所は、昼の間、人間の子供達の学舎となっている青葉ヶ山分校。宵闇からどこからともなく現れた宴会好きの妖達は、酒瓶や各々の肴を持ち寄り久々の催しを楽しみに青葉ヶ山分校へと集っていた。


 その宴が、突如として阿鼻叫喚あびきょうかんの盛宴と化すことも知らずに――。




「どうしよう……どうしよう……」


 残夜の薄暗がりに包まれる学校の図書室。

 そのカウンターの下で、小さな子供程の二つの影が互いに身を寄せ合っていた。


「みんな……みんな喰われちまうなんて……オラ達もうお終いだぁ……!」


 全身を己の長髪で覆い隠した妖怪がガタガタと震えながら泣き叫んだ。


「声さだすんでネェ! ヤツに気づかれちまう……!」


 今度は頭部に小さなツノを生やした、赤肌の厳つい顔の妖怪が小声で咎めた。


「でもよォ、小鬼。あんなの逃げられねぇよォ……」


 長髪の妖怪がすすり泣きながらまた弱音を溢した。涙で潤んだ丸い粒らな瞳に訴えられ、小鬼と呼ばれた妖怪は何も言い返せなかった。

 アレを追い払う事も、自分たちがこの地獄から逃れる方法も、何も思い付かないからだ。




 小鬼にとって初めての百鬼夜行は、何事もなく始まるはずだった。


 地上界が夜更けになった頃、大鬼達に連れられた小鬼は住処の鬼山から下山し、歌い騒ぎながら青葉ヶ山分校へと向かっていた。


 怪しい鳴き声を上げながら四つん這いで歩くぬえや、長い首をくねくねとうねらせるろくろ首、空の上を飛んでいく烏天狗の群れ――。


 何処からともなく妖の大群がやってきては合流し、さらに青葉ヶ山に棲まう幽霊や妖怪達も加わり、怪火を灯ながら賑やかしい行列ができていく。

 鬼山では決して目の当たりにできない心躍る光景に、小鬼は宴に期待を膨らませていた。きっと楽しいに違いないと信じて疑わなかった。


 しかし、長い夜行の果てに小鬼達を待っていたのは想像もつかない凄惨な光景だった。


 宴の地である青葉ヶ山分校に到着して暫くは、何事もなく宴が開かれていた。校庭や校舎内に続々と集う妖達に紛れ、小鬼も校庭で晩餐を貪っていた。


 そうして宴もたけなわを迎えた頃。

 校庭の竹藪から突然、あらゆる悲鳴と同時に数十匹の妖怪達が一斉に飛び込んできた。


「バケモンッ、バケモンじゃあー!!」


 頭に矢が刺さった落武者の霊に続き、あらゆる妖怪達が慌てふためきながら続々と校庭へ雪崩れ込んでくる。


「なんだぁ……?」


 小鬼を含め異常に気付いた数匹の妖怪が、騒ぎ立てる落武者達の方に振り向いた。

 泣き叫ぶ者や、腰が抜けてしまっている者、四つん這いでこちらに助けを乞う者――。


 酒盛りをしていた妖怪達も次々となんだ、なんだと驚いた様子で騒ぎの起こった方を振り向いて顔を見合わせる。

 漂い始めた不穏な空気に宴会場が騒然となる中、落武者達の逃げてきた竹藪から、ぬらりと大きな陰のようなものが現れた。


 その時、竹藪から少し遠く離れた位置にいた小鬼には、その陰が何者なのかよく見る事はできなかった。


 薄闇で辛うじて分かったのは、大鬼と同じぐらい――すなわち学校に植えられた樹と同じぐらいの大きさで、寸胴な胴体は虎のような黒の縞模様しまもようだった事。

 そして、圧倒される図体の一方、胴体についた四つ足は鳥のように細く、前方の顔らしきものは小動物のように二つのつぶらな瞳がついていた事だった。


 何とも言い表せないえらく奇妙なその化け物は、竹藪からその大きな全身をのぞかせ、逃げ惑う妖怪達と小鬼達のいる方に、ゆったりと顔を向けた。


 躙り寄る化物に薮から逃げてきた妖怪達が一斉に悲鳴を上げる。


 怪火がうつる化物の目が怪しげに光った途端、思わず身が震えた。

 ゾクゾクする底知れない不気味さ。


 悪寒が止まらなかった。


 身動きが取れず騒然となる中、突如、化物の首元と思しき部分がばっくりと開いた。虎よりも鋭い牙がのぞく大口らしき深淵の穴。

 小鬼があっと声を上げる間もなかった。

 化け物は、たったの数歩で泣き叫び続ける十数匹の妖怪達に追いつき、あっという間に全員を丸呑みにしてしまった。


 次々と飲み込まれていく妖怪達の痛烈な叫びに酒を浴びるように呑んでいた天狗や大鬼達も続々と振り返る。

 青葉ヶ山分校中に響き続ける血の叫びに戦慄が走り、唖然となっていた宴会場のあちこちから一斉に叫騒が上がった。


 正体の分からない化物からひたすら逃げる者。

 果敢に化物に立ち向かっていく者。


 激しい混沌の渦中にいても、小鬼はただ立ち尽くす事しかできなかった。


 震えているか弱い妖怪達を守ろうとした鵺の身体が食いちぎられても。

 勇敢に戦い続けた大鬼の大将が見るも無惨に化物に飲み込まれても。

 最後に残った大鬼と妖怪たちが自分を守ろうとして化物に喰われてしまっても。


 小鬼はただ震える事しかできなかった。

 逃げろという大鬼の言葉通り化け物に背を向ける事しか、できなかった。


 その後は、ただひたすら阿鼻叫喚の地獄の中をただ必死で逃げ続けた。

 犠牲になった大鬼たちの姿が脳裏に浮かぶ度、何度心が激しく痛んだのだろう。これほど情けない自分をどれだけ恨んだのかわからない。


 それでも逃げて、逃げて、逃げ続けて――その最中に偶然出会ったのが、長髪の妖怪であるクラボッコだった。

 校舎の裏側で縮こまっていたクラボッコは、小鬼以上に怯えきってその場から動けなくなっていたようだった。


 すすり泣くクラボッコと目が合う。


 ここで見捨てていれば、もしかしたら鬼山に帰れていたのかもしれない。

 しかし、放っておけるはずもなかった。クラボッコの姿がさっきまでの自分と強く重なってしまったのだ。


 結局、小鬼はクラボッコを背におぶって学校中を必死で駆け抜けた。

 遠くに逃げられないのなら、せめて身を隠せる場所を探そうと小鬼たちが行き着いた先が、今のこの図書室だった。


 図書室には小鬼達と同じように逃げてきたらしい幽霊や、か弱い妖怪達があちこちに隠れていた。学舎の少し離れにあった場所だったが多くの本が並ぶここなら身を隠すのにうってつけだろう。


 小鬼とクラボッコは、それからこのカウンターの下で息を潜ませ、ただひたすらじっとしていた。

 遠くに聞こえる悲痛な叫びに耳を塞ぎ、泣きたくなる衝動を抑え続けた。


 息の詰まる時間をどれだけ過ごしたのだろう。


 やがて遠くの叫喚が消えた頃、薄暗い図書室がにわかに明るくなった。

 薄明の刻――すなわち、妖怪達が忌み嫌う日光がもう間も無く昇る時間だ。

 日の光は凶暴な陰の力を持つ妖ほど日光は強大な天敵になる。


 もしかしたら、助かるかもしれない。


 恐る恐る小鬼がカウンターから顔を覗かせた、まさにその時だった。

 薄明るい外の景色が、黒い縞模様の何かに覆われ――小鬼は思わず息を呑んだ。


 窓の向こうに、丸い二つの瞳。


「ひぃいッ!」


 こちらを覗き込む黒暗の眼に小さく叫んだクラボッコの口を、小鬼が慌てて塞ぐ。

 しかし化物はもうすでに二人の姿を捉えていた。


 獲物を狙い澄ましたように目尻を上げると、次の瞬間、化物は図書室の窓を、その大きな頭で突き始めた。


 一回、二回……幾度も突進し窓を突き破ろうとする化物に図書室の妖怪達から一斉に悲鳴が上がる。

 何かの術で護られているのだろう。化物の激しい突きの連続にも耐え続けていた窓だったが、何度目かでとうとうガラスに亀裂が入った。


 もう、だめだ。


 ぎゅっと目をつむりかけた正にその時、突然窓を突く轟音がぴたりと止んだ。


 一秒、二秒と待っても何も起こらない。


 薄目を開けてそろりと覗き見ると、化物は身を竦めながら苦しそうに呻き声を上げていた。


 その化物に差し込むのは黄金色の眩い光――青葉ヶ山に日の出が訪れた瞬間だった。


 徐々に外が日の光に満たされていく中、化物はしばらくその場でもがいていたが、やがて日の光から逃げるように竹林の暗闇の中へと消えてしまった。


 日の出の光で徐々に満ちていく図書室の中、小鬼達はただ呆然と亀裂の入ったガラス窓を見つめていた。

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