16 笑顔

「降りろ」


 ホムラ達を乗せた黒バンが急停止し、隣の座席に座っていた黒子の一人が乱暴にホムラの腕を引っ掴んだ。


 あまりの粗暴な扱いに、ホムラはたまらず「何すんだよ!」と声を荒らげたが、その黒子はお構いなしに勢いのままホムラをバンの外へと降ろした。

 同じように引きずり降ろされた白狐もまったく状況が掴めていないのかオロオロと周囲を見回している。


 陽満ひろみつとの長い対面の後、SHM会の屋敷を出たホムラと白狐だったが、心の整理もつかないまま再びあれよあれよと黒バンに乗せられ、そうしてまた車から強制的に降ろされたところだった。


「コイツらを送ってやれ。青葉ヶ山の適当な場所でいい」


 そう言い残して戻っていった架美来かみらの言いつけ通り、黒子達はホムラと白狐を青葉ヶ山まで送迎したらしい。黒バンは見慣れた青葉ヶ山山道入口近くに停車したようだが、到着した二人を待っていたのは朝よりも手ひどい仕打ちだった。


「バリありえない……」


 乱暴にホムラ達を降ろした黒子がぽつりと漏らす。

 顔の隠れた頭巾から漏れ出たあどけなさの残る呟きは、幼くもなければ大人びてもいない。若い娘のような声だった。


「ねぇ、知ってる? 今回さぁ、やっと指名で来た依頼だったの。だからウチらめちゃ徹夜してここまで用意してさぁ。それが何? こんなガキんちょと弱っちぃ神獣のせいで全部ぶち壊し? ざけんなよ。サイアク。何なのアンタ達」


「よしなさい。フウカ」


 落ち着いた低声が黒子の喚きを制した。


 後部座席に座っていたもう一人の黒子が、ホムラ達に今にも詰め寄ろうとしている娘の黒子の前に立ち、三人の間に割って入った。


「だってコイツらのせいで……!」


「よしなさい、と言っていますよ」


 淡々と、しかし厳しい声音で男の黒子が諌める。

 娘の黒子は「でも……」と言い返しそうだったが、男の圧に耐えかねたのかすぐに押し黙った。


「この娘はまだ側仕えとしては未熟者。私から失礼を詫びよう。しかしながら少年、僭越ながら私からも一言述べさせて頂きたい」


 ホムラ達の方に向き直り、男は厳かな声音のままホムラに告げた。


「主は昨日、少年に忠告をしたはずだ。それがただの狂言や戯言ではなかったと分かった筈だろう」


 責め立てるような男の視線に、ホムラは俯かざるをえなかった。


 この男の言う通り、架美来はわざわざ<忠告>を残していた。今思い返せば、架美来はあの悪鬼が再びこの青葉ヶ山へ現れると分かっていて、野次馬をしていた(するつもりではなかったが)ホムラに「危険だから無用な外出はするな」と伝えたかったのだろう。


 しかしホムラはその忠告を振り切り、架美来の言う通りまんまと悪鬼に自分の身を裂かれてしまったのだ。仕方がなかったとは言え、陽満との話の中で自分がどれだけの迷惑を——特に架美来には多くかけてしまった事ぐらいよく分かっている。


 だから、何も言い返せない。

 この黒子にも、自分を罵った娘の黒子にも、架美来と同じように何も言う資格がない。


「好奇心は猫を殺すとはよく言ったものだ。直感任せの安直な行動が、己の命だけでなく周囲の生命をも危機に晒す。ゆめゆめ忘れる事がないように」


 刺すような男の冷厳な言葉を残し、やがて黒子達を乗せた黒バンはどこかへと走り去っていった。


 見回しても周りに誰かがいる気配はない。

 白狐と二人きり。


 今度こそ、本当に解放されたようだ。


「あの……」


 黒バンのエンジン音が遠ざかっていくのを聞きながら、白狐の方を振り向いた筈が、なぜかそこに白狐の姿はなかった。


 まさか、もうどこかに行ったのか?


 もう一度よく見回して——ホムラはギョッとなった。

 なんと、白狐はそこで地面に頭をつけ、ホムラの前で深々と土下座をしていたのだ。


「でぇッ?! なんでッ?! キミ好きなの土下座?!」


 半ば叫びながら問うも、白狐は土下座の姿勢を崩そうとはしなかった。


「私の所為で貴方様を巻き込んでしまいました。その上、私の不始末の肩代わりまで……」


「あれはオレが勝手に沼に行ったんだって。君のせいって訳じゃないから」


「ですが、意図しない和合を引き起こした挙句、貴方様まで防人さきもり達に目をつけられてしまったのです。お詫びのしようも御座いません」


「とりあえずさ、ソレやめない? 外で土下座ってすげー目立つから。ほら、立ちなって」


 土下座を続けようとする白狐の腕を掴んで、ホムラはその場に白狐を立たせた。


「あーあーあー。服汚れちゃってんじゃん。こういう和服? とかってたけーんじゃねーの? よく知らねーけど」


 呆れながらも地面の土で薄汚れてしまった白狐の袴を軽くはたく。

 最初のうち白狐はきょとんと目を丸くしていたが、やがて「……貴方様は、お優しいのですね」と優しげに微笑んだ。


 不意に見せた白狐の笑顔。

 ふと目に映り、思わずどきりとなる。

 それは今まで見た事のあるどんな笑みよりも儚く、目を奪われてしまう程に美しかったのだ。


 妙に早くなる心臓の鼓動を誤魔化すように「だ、誰だって土下座なんかされたらビビるって……」と袖部分の土埃を払おうとして、ふと包帯の巻かれた白狐の右腕が目についた。


 昨日、白狐の腕を侵食していた黒い筋のような怪我——。

 それが、まるで何事もなかったように綺麗に消え去っていた。


「ケガ治ってる……」


 漏れ出た呟きに、白狐は「貴方様の神力のお陰ですね」と頷いた。


「オレの?」


「はい。私と貴方様の力が和合によって融合し、穢れが祓われたのだと思います。貴方様の身体がすぐに治癒したのも同じ理由かと」


「オレ、そんな力あんの?」


「貴方様のお力については分かりかねますが……私の神力のみでは穢れを浄化できませんでしたので、おそらくは」


 よく思い返せば、朝から白狐がどこか痛がっている様子はなかった。

 まだ信じ難い事ではあるが、これも白狐の言う通り和合のお陰なのだろう。


「そっか」


 白い右腕から目を離し、ふと白狐と目が合う。


 曽祖父の手帳に挟まっていた、あの写真の女性がふっと頭に思い浮かぶ。

 自分の前に立つ白狐の姿は、やはり白耳の生えた女性にひどく似通っている。


 そうなら、俊蔵の言っていた通り彼女は——。


「あの、君がお狐様ってハナシ、ホント?」


 意を決して、白狐に尋ねてみる。


 さっきは陽満に話を流されて有耶無耶にされてしまったが、どうしても気に掛かっていた。


 白狐は、やはり答えに惑ってるのかしばらく眉を寄せていた。

 だが、やがて少し間を置いて、こくりと小さく頷いた。


「けどさ、言い伝えのお狐様って最期はその、沼に沈められて死んだって……」


「人里で語り継がれている伝承では、そうなっていると聞いております」


「伝承ではって事は、ウソって事?」


「御免なさい。今はこれ以上、私の口から申し上げられないのです」


 心苦しそうに白狐が謝る。

 何か触れて欲しくない理由があるのだろうか。「いや、こっちこそ……嫌なら無理に言わなくてもいいから」と察して言ったつもりだったが、白狐は小さく首を振った。


「こうなってしまった以上、貴方様には打ち明かさねばならないでしょう。時が来れば、いずれ」


 白狐の目が、ホムラを見つめ返す。

 戸惑いのない、覚悟を決めた真っ直ぐな意志。


 視線から伝わる思いに身が引き締まる。


「オレ、正直まだよくわかってねーんだ。境界だの和合だの、あのおっさんのハナシさっぱり分かんねぇよ。ただ、凪良にすげー迷惑かけたってのは何となく分かるけど……でもオレ間違った事はしてない。ゼッタイ」


「ですが、その所為でこれから貴方様の身に何が起こるか……」


「今はピンピンしてるしヘーキヘーキ。君だって無事なんだから、それでいいんじゃね? 依頼とかいうのはめんどくさそうだけどさ」


 そう気丈に振る舞って答えたホムラだったが、心の内では不安が渦巻きつつあった。


 この先の事が怖くないと言えば嘘になる。

 後悔を全くしていないのかと尋ねられたら、すぐには頷けないだろう。


 白狐が今、何を抱えていてどんな覚悟を決めたのか。

 ホムラと白狐の和合によって、これから先どんな事が起こりうるのか。

 陽満との話でよく思い知らされた。


 自分は何も分かっていない。

 本当は不安でいっぱいいっぱいで今にも倒れてしまいそうだ。


 それでも確かに一つだけ言える事がある。

 無我夢中でも白狐の命を守る事ができた。

 誰にどう言われようとも、それだけは絶対に間違ってはいなかった。


 心に静かに宿る北極星のようなただ一つの確信だけが今、自分を動かしていると感じる。


「そーいや名前、言ってなかったよな。オレ、朝山ホムラ。ホムラでいいよ」


「はい。では、ホムラ様」


 様はいらねーんだけどな。

 同い年の(ように見える)女子に敬語を使われるのはむず痒いが、この白狐の事だ。呼び捨てでいいと言ってもとんでもない、と断られそうだ。


「で、君は……白狐でいいの? 凪良とおっさんはそう呼んでたけど」


 気を取り直して尋ねると、白狐はこれまた丁寧に「私の事はどのようにお呼び頂いても構いません」と返してきた。


「んじゃ、よろしく。白狐」


 少し気恥ずかしさを感じながらも、ホムラは右手を前に差し出した。

 白狐は少しの間、目をしばたいていたが、やがてホムラの右手を白くのびた両の手で優しく握った。


「はい、ホムラ様」


 ようやく見ることのできた、翳りのない柔和な白狐の微笑み。

 木々の合間から落ちる木漏れ日の光に照らされ、美しく光り輝いていた。

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