8 邂逅

 鬱蒼と木々が生い茂る青葉ヶ山を、陰陰滅滅たる夜風が揺らす。


 妖しい赤黄の光を放つ満月。


 その月下で高く伸びた大樹の樹洞——小さな松明のみが灯る洞穴の中で、小さな祠に首を垂れている小さな影があった。


 頭部についた二つの大きな耳と、白糸のごとく細く真白な長髪。

 その影は、ホムラが出会った朝の少女であった。


 両手を合わせ黙祷していた少女が、顔を上げる。

 その顔は朝よりもさらに青白く、苦悶の表情がにじんでいた。


 「もう二夜を迎えているというのに、この程度の穢れも浄化できないなんて、わたくしは、もう……」


 よろめく身体を抑え、少女は樹洞の壁に手をついた。


 小さい口から途絶え途絶えのか細い息が漏れていく。

 呼吸をする度、穢れた右腕から全身に酷痛が駆け巡る。

 それでも、少女は一歩一歩、おぼつかない足どりで樹洞の外へ向かう。


「穢れがこの身を蝕もうと、これ以上野放しにしてはおけない。たとえ刺し違えようとも、今夜、必ずあの魔だけは——」


「探したぞ。神獣、九尾白狐」


 荒々しい声に、少女は顔を上げた。

 宵闇に溶け込まんとする純黒の小さな子供の影。

 肩まで伸びた烏羽色の髪と共に、黒い羽織が風になびく。


 その右手には、黒々とした槍が収まっていた。


「まさか伝説の神獣様が本当に実在してたなんてな。確かに結界だけは妙に巧妙だった。腐っても神獣ってワケだ。祓師の俺を少し弄んだ事だけは褒めてやるよ」


「……私は、人喰いの魔が物ではありません」


「舐められたもんだな。そのぐらい承知している」


 不快だと言わんばかりに、祓師が厳かな視線で少女を射る。


「神獣の心臓を喰らいし者、その身に始祖神の力を宿し、輪廻転生の理を外れ永遠の肉体と魂を得たり——古くからの有名な伝承だ。境界の内でも、外でもな」


 そう言って、祓師はおもむろに槍の穂先を少女に突きつけた。

 表情を崩さないまま、少女は祓師の切長の目を、見つめた。


 真紅の眼と、祓師の睛眸せいぼうが静かに、しかし激しくぶつかり合う。


「たかが悪鬼一匹も消滅できない。境界の歪みすら正せない。力の無い神獣など奴らの格好のエサだ。自分の始末もつけられない奴を生かす道理はないんでね、ここで大人しく消えてもらおうか」


「私を消滅させても魔が物はいずれこの地に現れます。それに守護がなくなれば、この周辺一帯が魔に支配される可能性だって……」


「ハッ! 守護神きどりが笑わせる! 死に損ないの神獣が何と言おうとお前の存在は俺たちにとってもはや悪獣のソレだ」


 とうとう槍の穂先は、少女の喉元に狙いを定めた。


「客の依頼は悪鬼の殲滅。お前の存在は依頼の邪魔だ。お前を消した後のクソ田舎がどうなろうと俺には関係ないね」


 構えていた槍の持ち手を、祓師はさらに強く握りしめた。

 目をすっと細め、内に秘めた強靭な意志で祓師を見る。


「悪く思うなよ、お狐様」


 ひりついた沈黙が、両者の間に流れる。


 相対していた両者が激闘の構えに入る寸前——。

 鬱然としたひび割れた獣の咆哮が二人の沈黙を引き裂いた。


「なッ?!」


 息を呑む間もなく、巨大な影が二人に襲いかかった。

 振り下ろされたずんどうな腕の拳。

 即座に察知し二人同時に素早い横移動で攻撃を交わす。


「悪鬼……いや、アレは……!」


 槍を構え直した祓師が、緊迫した様子で言う。


 悪鬼と呼ばれる巨体な化け物は、明らかにこの世のものとは思えない風貌であった。


 少女達の二倍ほどの大きさはあるだろう。熊のように四肢は太く、体毛は黒色の獣のものだった。

 しかし、異常なまでに長い鉤爪かぎづめと、まるで装飾のように全身に埋め込まれた百以上はあるだろう眼球は、到底熊とは言えないばかりか、生物とすら言い難い醜悪な妖気を放っていた。


 めり込んだ拳を地面から離し、悪鬼がゆらりと立ち上がる。

 数秒前まで二人がいた地点。

 そこは、目を疑ってしまうぐらい大きく抉れていた。


「あんなデカブツなんて聞いてないぞ……! 一体どうすりゃ……」


 初めて戸惑いの色を見せた祓師を傍目に、少女は悪鬼をよく熟視した。


 血走った猩猩緋しょうじょうひの虚な眼球。

 それが捕らえているのは——。


「私、なのですね……」


 悪鬼が攻撃姿勢に移る手前、少女の姿が白い獣——白狐へと変化した。

 その姿のまま身を翻し、雑木林の中へと姿を消していく。


「おいッ!! おまっ、何処にっ……!」


 祓師の叫び声と悪鬼の唸り声が重なった。

 重苦しい足音がすぐさま白狐を追いかけてくる。あの巨躯から想像できない程の素早さ。


 やはり、あの夜に対峙した同じ魔が物。

 ならば今ここで決着をつけなければ——。


 夜更けの空に向かって、白狐は尖った口を開く。


 高らかな澄んだ鳴き声。


 黒洞洞たる夜の青葉ヶ山から響き渡り、やがて遠くへと広がっていった。




* * *




 白い霞の中で、意識が漂っている。


 どこからがうつつで、どこまでが幻なのか。

 いびつで曖昧模糊あいまいもこな世界を泳いでいるかのようだった。


 そうか。

 自分はまた、夢を見ているんだ。

 今度はそう、ホムラにははっきりと分かった。


 しばらくして、白い霞がほんの少しだけ晴れていく。

 晴れた隙間から、どこかの景色がわずかにのぞく。


 大きな空洞の空いた大樹。


 その前で向き合う、あの手帳に挟まっていた写真によく似通った二人の男女。

 大きくふっくりとした下腹部に手を当て、女が口を開く。



——清嗣きよつぐ

——如何しても往かれるのですか


——これもお国の平和のため。どうかお許し下さい


 啜り泣く女の身体を、軍服を着た男の長細い白い手が優しく抱き寄せる。


——私は、貴女の愛したお国を守ります

——貴女は、私の愛したこの故郷をお守り下さい


——命が燃え尽き、天に還る、その時まで



 男の強かな言葉が白い霧の中に響いた途端、ホムラの意識は現へと舞い戻った。


 目を二、三度しばたいて深く呼吸をする。


 以前の悪夢のように気持ちの悪い感情は、渦巻いていない。

 しかしあの時と同じ、まるで本当にあった事のように、ひどい現実感が残滓となって心にたゆたっている。


 クォオオオオオン。


 耳にさし込んだ遠鳴きで、思わず横たえた体を布団から起こした。


 凄愴せいそうな叫びのような獣の鳴き声が何度も、何度も、ホムラの耳に飛び込んでくる。

 ただなら無い様子に、布団から出て部屋の窓から外をのぞいた。


 まだ日など昇らなさそうな闇夜。

 闇に響き渡る鳴き声は、白狐沼の方から聞こえている。

 全身を駆け巡る妙な胸騒ぎに、自然と汗がにじむ。


 オレが、行かなくちゃ。


 なぜそう思ったのだろう。

 後になってこの時のことを振り返るホムラ自身にもそれは分からない。

 しかし頭で考えるよりも早くホムラの身体は動いていた。

 寝巻きから早着替えを済ませ、気が付けば青葉ヶ山の方へ自分の足は走り出していた。


 異様に冷えた、重苦しい空気の漂うあぜ道を走る。

 いつも通る長閑な通学路とは違う、異質な雰囲気。

 前に進む度に胸騒ぎがどんどんと激しくなっていく。


 そうして白狐沼まであと少しという所に差し掛かった時であった。

 目の前の異様な光景に、ホムラは足を止めた。


「なんだ、これ……」


 ホムラの前に広がっていたのは、薄紫の透明な薄い層のようなものだった。


 おそらく白狐沼周辺を覆っているのだろう。

 ドーム状に広がる層の向こう側は、まるでこの場所とそっくりな異世界かのように、どこか歪んでいた。


――今夜は何があっても、絶対、家から出るな

――日が昇るまで大人しく寝てろ

――あの女子高生みたいに、心臓を丸ごと抉り取られたくなきゃな」


 強く訴えかける、架美来の眼差し。

 昨日の朝の会話が頭をよぎる。


 そうだよ危ねーじゃん。

 オレ、なにやってんだろう。


 身を翻そうとして、また思い浮かぶ。


——本当のお狐様は、ただ人に化けるのが大好きだった青葉ヶ山の守り神。心からこの町と民を愛していた、ってな」


——私は、また、護れなかったのですね


 悲愴な面持ちで佇む少女。

 激しく燃え上がる炎の中に飲み込まれる少女の幻が、強く頭にこびりついて離れない。


「くそッ……!」


 両頬を強く手で叩き、ホムラは息を止めて層の中に飛び込んだ。

 ぐにゃり、と気持ちの悪い異様な感覚を抜けると体はすでに層の中にあった。


 鳴き声までもうすぐ側まで近づいている。


 白狐沼の方を睨み、ホムラは意を決して足を踏み出した。

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