7 お狐様

 少女はまるで風のようだった。


 裸足だというのにぐんぐんと前を走り、この歳の女子とは思えない素早さで道を進んでいく。


 気が抜けば置いてけぼりをくらってしまいそうだ。


 青葉ヶ山分校では一番走りに自信のあるホムラでさえ追いつくのがやっとだった。


「ねえ君ッ! ニュース見てた? 熊が出て危ないって……! つーか君、怪我してんじゃないの? ってあのさッ、聞いてる!?」


 必死な数度目の呼びかけも、やはり少女の耳に届いていないようだった。諦めて後をついていくしかなさそうだ。見知らぬ少女とはいえ怪我をしている少女を放ってはおけない。


 少女の背を追いかけ続け、青葉ヶ山の入口付近の道に差し掛かった頃だった。

 一度も止まる事なく走り続けていた少女が、そこでようやく足を止めた。



 数台のパトカーと警察官。

 カメラで必死に現場を移そうとする報道の記者達。

 貼られた捜査線の前に群がる十数人の野次馬たち。



 そこは、ホムラ達が数分前にテレビで見た事件現場そのものだった。



 少女は一歩、また一歩と、ゆったりした歩みで、その現場まで近づいて行く。ホムラも黙って、その後ろをついていく。


 捜査線のすぐ手前で少女はまた、立ち止まった。

 その隣にホムラも続いて立つ。


 捜査線の向こうに続く、木々が茂る一本道。

 事件現場らしい地点は、青いビニールで覆い被され中を窺い知ることはできなかった。

 しかし、ホムラの目にははっきりと見えた。


 黒く乾いた血潮がこびりついたアスファルト。

 地面や脇道の草木に飛び散る、赤黒い血飛沫。



——ほら、田川さん家のとこのお嬢さん


——ランニング中に襲われたんですって?


——そうなのぉ。優秀な陸上選手だったって、ほら、県大会でいい成績、残したって田川さん言ってたもの


——自慢の娘だったんでしょう。まだ若いのに、かわいそうねぇ



 上辺だけの浅い憐れみがひっきりなしに飛び交う。

 喉の奥から込み上げてきた吐き気に、ホムラは咄嗟に口を覆った。


 たった十二年ばかりしか生きていないホムラでさえ分かる。

 あの女子高生が、どんなに惨たらしい最期を迎えたのか。

 それを可哀想などという無神経な言葉で片付けて良いはずがない。


 溢れかえる心浅い言葉の数々に耐えられず、ホムラは耳を塞ぎかけた。


わたくしは、また、護れなかったのですね」


 か弱くふるえた傷悲の声が、ひりついた心に静かにおちる。

 顔を上げて、声の方を振り向く。

 薄桃の唇を噛み、少女はその真紅の瞳を潤ませていた。


 今にも泣き崩れてしまいそうだ。


 哀愁の漂う少女の顔が目に映った途端——。

 ホムラの脳内に見覚えのない情景が、フラッシュバックのように駆け巡った。



 視界の全てを支配する、苛烈な赤い炎。

 柱の上がる激しい炎に包まれながら、こちらを見る誰かの影。

 その影は——少女は、微笑んだまま、瞬く間に炎に飲み込まれ、そして……。




「おい」


 不機嫌な呼び声にはっと意識が舞い戻った。

 一面の炎は、もうそこにはなかった。


「何やってんだ、野次馬」


 目に見えた不可思議な景色に思いを巡らせる間もなく、無愛想な誰かが後ろから言う。

 振り返りホムラはあっと声を上げた。


凪良なぎら?!」


 堂々と踏ん反り返りホムラを見る少年――腕組みをした架美来かみらがそこで立っていた。


「いや、オレは女の子を……って、あれッ、いない?!」


「あ?」


「ウチに来た女の子が、さっきまで俺の隣にいて……」


 ホムラは大慌てで辺りを見回した。しかし、少女の姿はどこにも見当たらない。珍しい格好をしている少女だ。すぐ見つかるだろうとしばらく探してはみたものの、やはりそれらしき人影はなかった。


 どこかに行ってしまったのだろうが、今のホムラに少女を見つけ出す術はない。あきらめて架美来の方に向き直る。


「なぎ……交流生こそ、なんでここにいんの」


「お前には教えない」


「あーハイ。そーですか」


 だろうな。そう言うよなお前は! ヒミツ主義だもんな!


 予想通りの答えに、聞くだけムダだったなと立ち去ろうとした直後、架美来が「ま、こないだの貸しだ。忠告だけはしといてやるよ」と唐突に言った。


「忠告?」


「そう。俺からのありがたい忠告だよ」


 眼鏡の奥で光る、架美来の切長の目が、さらに細くなる。


 いつもの誰彼構わず見下したような視線ではない。

 冷厳な、しかし心底から訴えかける眼差しだった。


「今夜は何があっても、絶対、家から出るな。日が昇るまで大人しく寝てろ。あの女子高生みたいに、心臓を丸ごと抉り取られたくなきゃな」


 低い声で厳然と言い放つ架美来に、ふっと記憶の欠片がよみがえる。


 以前、白狐沼で一度だけホムラに見せた険しい表情。


 その時の顔に、よく似ていた。


* * *


「あだァッ!!」


 俊蔵の腰に貼った湿布を上からべしりと軽く叩く。

 撫でるよう腰をさする俊蔵を横目に、ホムラは「ハイ、おわり」と手際よく救急箱の湿布を片付け始めた。


「無理すんなって。歳なんだからよ」


「そうしてぇけど、まさか隣町の熊がくるとはなァ……」


 心底困ったという風に、俊蔵はため息を吐いた。


 あの事件が判明してすぐ、俊蔵は早朝から見回り隊としてパトロールに駆り出されていたらしい。昼頃に一度家に帰宅をしてホムラには会っていたものの、それからすぐ巡回に戻り日暮れを迎えた今まで村中を歩き回っていた。


 結果、鳴りを潜めていた腰痛はさらに悪化、帰宅した頃にはあまりの痛さに玄関でうずくまるハメになったのだが——。


「ところでホムラ、あの白い犬っ子はどうした?」


 腰を抑えながら、そう言って座布団に座り直す俊蔵に「どっか行って……あッ!」とホムラの頭に朝の少女の顔が過った。後で俊蔵に聞こうと思い、それからすっかり忘れていたのだ。


「じーちゃん! 女の子、勝手にウチに上げただろ!」


「ん? 何の話だァ?」


「だから、つけ耳つけた白い髪の変な女の子だよ! ちゃんと手当てして見回り行ったんだろうけど、だったら俺に一言言ってから行けよ」


 ホムラはそう言ったものの、俊蔵は怪訝そうに「ホムラ、おめぇ。何言ってんだ?」と眉をひそめた。


「俺はそんな娘っ子、ウチに連れて来てねぇぞ」


「えぇ? だって、奥の縁側に裸で立ってて……」


 ホムラの説明に俊蔵がますます顔をしかめる。


 もしかして本当に何も知らないのか?

 それじゃあ、あの少女は一体誰だ?


 次々と湧き上がる疑問が頭を巡る中、ホムラはひとまず朝に起こった出来事をくまなく俊蔵に話す事にした。



 朝目が覚めたら、奥間の縁側に頭に白耳をつけた全裸の少女がいた事。

 何かの怪我をしているらしく、右腕に包帯が巻かれていた事。

 その後、急に家から飛び出して、例の事件現場から忽然と姿を消してしまった事——。



 一通り話をし終わった後、俊蔵は「うむ……」と、顎に手を当ててしばらく考え込んでいた。

 何かに惑っていたようだったが、やがて決心がついたのか座布団から立ち上がり、茶の間の箪笥たんすから一冊の古ぼけた手帳を取り出した。


 細かなキズがいくつもついた、色褪せた濃緑こみどりの手帳。

 それを、おもむろにホムラの目の前へと差し出す。


「じーちゃん、コレ……」


「俺の父ちゃん……お前のひいじいちゃんの手帳じゃあ」


 ホムラに向かって、俊蔵が顎をくいと上げる。うながされるまま、ホムラは中を開いた。


 変色し黄ばんだ紙に、墨で書かれたらしき達筆な文字が縦に並ぶ。


 おそらく今よりもずっと昔の時代の文字だろう。


 小学生のホムラにはほとんど解読はできなかったが、真ん中付近のページをめくり、思わずあっと声が漏れた。


 そのページには、一枚の古い写真が挟まっていた。


  白枠のあるセピア色の縦写真——その中で仲睦まじい二人の男女が微笑んでいる。

 一人は、着物の上に羽織をかけている年若な青年。

 そしてもう一人は、着物に花飾りのついた帯を巻いたうわ若き長髪の女性だった。


 男性に優しく寄り添い柔和に微笑むその女性は、頭部に長い二つの耳がついており、そして、あの白い少女と瓜二つの顔立ちをしている。


「じーちゃん。この女の人、あの子にそっくり……」


 ホムラの呟きに、俊蔵が小さく頷いた。


「父ちゃんが生きてた頃はなァ、よっくと聞かれされたもんよ。本当のお狐様は、ただ人に化けるのが大好きだった青葉ヶ山の守り神。心からこの町と民を愛していた、ってな」


「お狐様って、まさかあの言い伝えのクソ狐?!」


「言い伝えなら、そうだなァ。だがそれも所詮は言い伝え。そいつが真実っつうのも言えねぇだろうよ」


「まさか、じーちゃん。この女の人とあの子がお狐様だって、そう言いたいのか」


「いやぁ、オレは父ちゃんの言うお狐様に会ったことはねぇ。その娘っ子と会ったのもホムラだしなぁ。そうは言い切れねぇだろなぁ」


 ガッハッハ、と大口を上げて笑う俊蔵に、ホムラは「えぇ……」と肩を落とした。結局、少女の正体は謎に包まれたままらしい。


「フツーは信じられねぇよなァ。オレもそうだった。だけどよ、ホムラの目で見たことがウソじゃねぇなら、父ちゃんの話も今ならちゃーんと信じられるかもしれねぇ。そうは、思ったよぉ」


 写真を覗き込んで、俊蔵は男性の顔のあたりをそっと撫でた。


 俊蔵が自分の過去について語っているところを、ホムラはほとんど見たことが無い。


 祖母との惚気のろけ話なら耳に穴が空くほどたくさん聴かされてきたが、それ以前の幼い頃の話はほとんど聞いたことがなかった。

 唯一知っている事と言えば、俊蔵は元々孤児で、とある男性に養子として迎えられ男手一つで育てられたという、祖母から聞いた話だけだった。


 俊蔵の口ぶりからするに、この写真の男性はおそらくこの手帳の持ち主——俊蔵を育てた養親なのだろう。


「ま、これもなんかの縁だァ。その手帳、お前が持っておけェ」


「でもコレ、じーちゃんの大事な……」


「娘っ子にいつか会えるかも知れんだろォ。その代わり、もしお前がお狐様に会えたら、じーちゃんにハナシ、聞かせてくれェ」


 そう笑ってホムラの頭を撫でる俊蔵の顔は、どこか嬉しそうで、しかし悲しげでもあった。


 お狐様なんて言うのはただの言い伝えに出てくる空想の存在だ。

 この手帳の写真一枚だけでは、あの少女がお狐様だと信じられない。


 しかし、もしもあの少女が本当にお狐様なら。

 そして、もう一度会うことができるのであれば。


 その時は俊蔵に伝えようと、ホムラはそう、強く心に誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る