6 白耳の少女

 チュン、チュンと上機嫌にさえずる小鳥の鳴き声で、ホムラは目を覚ました。


 大きなあくびをしながら、寝ぼけ眼でゆったりと畳から起き上がる。


 あれから白い獣がどうにも気になり、ホムラは夜遅くまで様子を見ていた。しかし、その内に睡魔が襲ってきてしまったのか、気がつけば奥の座敷で寝転がっていた。

 俊蔵がかけたのだろう薄い毛布を脇に置き、側の犬用ベッドを覗き込む。


「いねぇ……」


 昨晩までベッドで身体を丸くして眠っていたはずの白い獣は、忽然と姿を消していた。


「こりゃ、出てったかな……」


 立ち上がり、何となしに外の襖の方へ目をやって——。


 ホムラは思わず息を呑んだ。


 陽光の差し込む縁側。

 そこに、見知らぬ少女が佇んでいた。


 清々しい朝の空気に溶け込んでしまうそうな、透き通った白い肌。

 腿まですらりとのびた朝日に輝く純白の長髪。

 そして何故か頭部についている、獣のような白く大きな二つの耳。


 年端もいかない神秘的な少女の様相は、普通ならば見惚れてしまうところだっただろう。

 しかしその少女の格好の異常さに、ホムラの体は強張った。


 なぜならその少女は、下着もなにも履いていない全裸だったのだ。


 逃げよう。

 いや、ここは自分の家だ。

 逃げるってどこに逃げる?

 そもそもこの子、誰?!


 混沌とした考えが引っ切り無しに頭を飛び交っていく。

 とりあえず、この場から離れよう。

 後退りしようとして、右足が思いっきり座卓にぶつかってしまった。


「「あっ」」


 重堅い音に少女が振り向き、とうとう目が合ってしまった。


 真紅に煌めく少女の瞳。その瑞々しい両目が驚きで見開かれ——。


「貴方様は昨晩の……!」


 なんとホムラのすぐ側まで近寄ってきた。


「なんと、なんと御礼を申せば……!」


 裸を見られたと言うのに騒ぎもせず(そっちの方が困ると言えば困るのだが)羞恥のかけらもなく、目を輝かせて手を握ろうとする少女に、いよいよホムラの方が限界を迎えた。


「まって! 服ッ! 服ッ!!」


 少女からすぐさま身を背け必死に叫ぶ。しかし、少女はきょとんとした様子で「フク?」と尋ねた。


「服だよ服! 早く着て!!」


「……あぁ」


 あたかも、唇を小さく開ける少女に、ホムラは「あぁ、じゃないって!!」と突っ込まざるを得なかった。

 再三少女に服を着る事を念押しして、ホムラは襖を勢いよく閉めた。途端に言い難い疲労感がどっと押し寄せ、廊下にへたり込む。


 交流生といい、この子といい、最近はどうしてこうもろくな出会いがないのだろう。


 めまいがするような日々の連続に、火照った顔がさらに熱くなった。


* * *


「昨晩は行き倒れていたところ、お助け下さりありがとうございました」


 少女はそう深々と頭を下げ、ホムラに向かって茶の間の畳にひれ伏した。


「そればかりか傷の手当まで……この御恩どう報いればよいか……」


「あの、そーいうのいいからさ。顔上げなよ」


 慌ててそう言ったものの、少女は一向に頭をあげようとはしなかった。


 オレは時代劇のお殿様か。

 密かにそう心の中で呟く。


 少女の古めかしい物言いもそうだが、その身にまとう桜色の振袖と花浅葱色の華麗な袴——。


 見た目の顔つきはホムラと殆ど変わらない歳であったが、その身から漂う雰囲気に幼さは微塵もなく、むしろ老年の落ち着きを感じていた。

 とは言うものの笑花えみか以外、あまり同年代の女子と話す事のないホムラは、この少女からどう話をすればいいのかまるで分からなかった。


「お礼とかマジでいいって。オレ、今日初めて君に会ったし、助けたの多分オレじゃなくてじーちゃんだから」


 おそらくこの少女を家に招いたらしい俊蔵の話題を出してみる。


 俊蔵は数年前から青葉ヶ山見回り隊の一員として活動している。

 定期的に、あるいは臨時で青葉ヶ山の決められた区域を見回り、夜に酔い潰れた村民を介抱したり、宿への道途中で迷った観光客を案内したりと、ごくたまにだが余所の誰かを家で休ませる事があった。


 てっきりそれらと同じようにこの少女を保護したのだろうと思ったのだが、少女はすぐさま「いえ! とんでもないことでございます!」と、突然顔を上げて否定した。


わたくしは確かに貴方様からを受けたのです。その事実に嘘偽りはございません」


「え? いやだから、オレ君の事知らないって……」


 困ったなぁ。

 ホムラはううん、と首をひねった。

 この少女を保護した(と思われる)俊蔵もなぜか不在であり、そしてホムラ自身もそろそろ支度を済ませて登校しなければいけない。


 一度警察にでも相談した方がいいのだろうか。


 そんな考えがよぎったちょうどその時、突然黒電話のベルがジリリとけたたましく鳴った。「ごめん、電話」と、少女に軽く手を上げて受話器を取る。


「はい、もしもし、朝や……」


『ホムラかぁー? オレだよ。ヨシキ!』


 間髪をいれず威勢のいい弾んだ声がホムラの耳に飛び込む。

 電話の主は芳樹だった。

 朝のこの時間帯は、芳樹も慌ただしく学校の支度を始めている頃だ。今日は連絡網が回る大荒れの天候でもない。こんな大快晴の朝に電話が来るのは滅多にない事だった。

 疑問に思いつつも「ヨッちゃん? 朝からどったの?」と尋ねた。


『聞いたか?! 今日ガッコ休みだってよ!』


「休みぃ? なんで」


『お前知らねーの? 全国ニュースになってんぜ』


「ニュース?」


『だからぁ、青葉ヶ山に例の人喰い熊が出たんだってよ! 北青葉ヶ山駅の!』


 興奮気味の芳樹にそそのかされ、何となしにちゃぶ台に置いてあったテレビのリモコンを手に取った。電源を入れると、ちょうどニュース番組らしい画面が映った。

 その画面をしばらく見つめていたホムラと少女は、思わず目を見張った。


『相次ぐ杜の宮原市の獣害 クマらしき獣に襲われ女子高生が死亡』


 映し出されたテロップと共に映し出されたのは、ホムラの家から然程離れてはいない、青葉ヶ山の入り口付近の一本道だった。


『今日の早朝、杜の宮原市、青葉ヶ山の山道入口付近で女子高生一人が遺体となった状態で発見されました。

この女子高生は早朝のランニング中に熊に襲われたと見られています。

また、この獣は、三日前の深夜、北青葉ヶ山駅周辺の市街地で五十代男性を襲った獣と同じと思われ——』


 淡々と事実を告げていくアナウンサーの声に、凛とした少女の表情がたちまち焦燥の色に染められていく。


「行かなくては……」


 急に立ち上がろうとした少女の身体が、ふらりとよろめいた。


「ちょっ、君ッ?!」


 真っ青な顔でうずくまる少女に、ホムラは受話器を投げ出し、慌てて少女に駆け寄った。着物の袖からわずかにのぞいた少女の右腕。偶然目に入ったそれにホムラは思わずゾッとなった。

 包帯の巻かれた前腕——そこから濃い墨汁が流れ出しているかのように、渦巻いた黒い筋のようなものが少女の手首付近まで侵食している。


 これは、ただの怪我なのだろうか。


 ただならぬその腕の様子にホムラは固唾を飲んだ。


「早く、病院に……」


 たどたどしく出た言葉に、少女は首を振った。


「私が、行かねばなりません」


 そう断言し、少女はよろめきながら再び立ち上がったかと思うと、裸足のまま庭へと飛び出していった。


「へッ?!」


 そのまま家の門まで疾走していく少女の様子に、ホムラはぽかんと口をあける事しかできなかった。予想もつかない少女の行動に慌てて受話器を引っ掴み「ごめんヨッちゃん! またかけなおす!」と叫んで電話を切る。


「何なんだよ! ったく!」


 どんどんと遠ざかっていく少女の背を追いかけるように、ホムラは家を飛び出した。

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