3 家族

 コンロを開けると、焼き鮭の香ばしい匂いがホムラの顔を覆った。

 焦げ目のついた橙色の鮭を細皿に乗せ、ほうれん草の味噌汁とご飯を茶碗によそい、それらを素早くお盆に乗せた。


「じーちゃん。晩メシできた」


 台所から持って来た夕飯を次々とちゃぶ台に置いていく。すると、座布団を枕にして横になっていた俊蔵が「悪りぃな、ホムラぁ」と、腰を抑えながら起き上がった。


「全部夕飯作らせちまって。明日は俺が作るからよぉ」


「腰いてーんだから大人しくしとけって。それより明日は病院ちゃんと行けよ」


 頼もしく言うホムラに俊蔵は申し訳なさそうな顔で「ゴメンなぁ」と小さく呟いた。


 ホムラの慌ただしい登校からしばらく経った昼間、家の敷地内で畑の世話をしていた俊蔵だったが、しゃがんだ弾みで尻餅をついた拍子に持病の腰痛が再発してしまったのだった。


 齢七十近い俊蔵は年齢からすれば健康な方だろう。

 しかし、ここのところ腰痛や膝の痛みを訴える事が多くなり、本人に告げた事はないが、ホムラはそんな俊蔵の様子を少々不安に思っていた。


「そういやホムラ。暁美あけみからハガキが来とったぞ」


「あー……」


 ご飯を美味しく頬張っていたホムラの気分が一気に急降下する。


 コイツは絶対に碌でもないブツだ。


 直感などではない。ホムラの経験から九割九部、は不快感の塊なのだ。

 差し出したハガキをなかなか受け取ろうとしないホムラに、俊蔵が困った様子で「ホレ」とハガキを裏返しにしてホムラの近くに置いた。


 気は進まないけど、しょうがない。


 渋々ハガキをめくった瞬間——「うげっ」とカエルが潰れたような声が出た。


 まず目に飛び込んできたのは、色々な意味で際どい格好をした男女二人組の写真だった。


 露出度の高いハイレグの水着を着た日本人女性と、サーフパンツを履いたくっきりとした顔立ちの外国人らしき男性。

 そんな壮年の二人が澄んだブルーの海を背景に、身体を密着させ浮かれ調子でポーズを決めていた。


 この時点でホムラの心中はすでに黒く濁り始めていたが、さらに追い打ちをかけたのは、宛名面にゴールドのラメペンで書かれていた近況文だった。


『私のだぁ〜いすきな

ホムちゃんへ♡


ヤッホー!

ホムちゃんは元気にしてるかナ?

ママは今、ハワイにいま〜す!

イェ〜イ☆


で、さっそくボーイフレンドができちゃったの〜!

キャッ♡


こんど日本にカレを連れて行くから

おじいちゃんと仲良くね

愛してるわ♡


ワイキキビーチで

ウキウキな ママより♡』


 燃やしてやる。


 瞬時に湧いたホムラの憤怒を察知したのだろう。

 俊蔵は「これこれ、落ち着けぇ」と、素早くホムラの手からハガキを奪い取った。


「じーちゃん。灰皿とマッチ貸して」


「それを何さ使うんだぁ?」


「クソ母親の痕跡を燃やすんだよ」


「んな事言うもんでねぇぞ。実の母親だろうが」


「あんなヤツ、母親でも何でもねーよ。子供置き去りにして、全部じーちゃん任せにして……。気まぐれに来るハガキがコレか? バカにすんなよ。身勝手過ぎんだよ大人のクセに」


 激昂するホムラに、俊蔵はついに押し黙ってしまった。


「ごちそうさま。先に部屋戻ってる」


「ホムラ、あのな——」


「オレの家族は、じーちゃんとばーちゃんと、タロだけだよ」


 何かを言いかけた俊蔵をわざと遮るようにホムラは素早く立ち上がった。


 食べかけの鮭はラップに包み、食器を手早く片付けて二階の自室に戻る。

 勢いのまま押し入れの布団を乱暴に引いて、手と足を投げ出し大の字で寝転がった。


「……胸クソわりぃ」


 ぽつりと本音が漏れる。


 暁美はホムラの実母でもあるのと同時に、俊蔵にとって実娘の一人でもある。

 だからこそ親子の関係を取り持ってやりたいと思う俊蔵の気持ちを、分からないわけではない。


 しかし、未だにどうしても許せない。


 四年前、青葉ヶ山に自分を置いて出て行った事も。

 祖母が亡くなった時、葬式どころか今日の今日まで線香一つ供えに来ない事も。

 真面目に仕事もせずふらふらと海外で遊び回っている事も。


 許してやる義理なんてまるでない。

 大体、何一つとっても駄目な親をどう許せと言うのだろう。


 思えば今日は朝から散々な一日だった。

 転校してから初めての遅刻。

 生意気な謎の少年。

 そして、暁美からの突拍子もないハガキ。


 こんな滅多にない不幸が立て続けに起こるなんて普通はありえない。

 なら、明日は今日よりいくらかは良い日のはずだ。いや、そうであってほしい。


 そんな小さな願いをかけながら目をつむり——ホムラの慌ただしい一日は、こうして深い夜に沈んでいった。


 しかし、そんなホムラの願いは翌日の朝、早々に打ち砕かれる事となる。




 朝の六年一組の教室。

 一人の生徒が黒板の前に立ち、チョークで小気味よく自分の名前を書いていく。


 何でだよ……。

 何でお前なんだよ!


 教室の誰もが興味深く注目する中、ホムラだけはただ一人、唖然とした表情のまま心の内で悲叫していた。


千代五星せんだいごせい小学校、本校から来た凪良なぎら 架美来かみらだ。よろしく」


 黒板の前に立つ少年は、白狐沼へ案内した時と何ら変わらない傲岸不遜な態度で、そう名乗った。

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