6、〈ギフト〉は真昼の星
不規則に揺れる大地を不安に思いながら、グレイズは〈ビュロウ〉にて殿(しんがり)を務めていた。
レイフに連れられて〈ビュロウ〉に集められた村人たちも、
セルゲイがここにいれば、鮮やかな手のひら返しにあきれかえりそうなところだ。
グレイズは、無理も無いと憐れんだ。災難について、大概の人間は、実際に己に降りかからなければ想像がつかないものなのだ。そう、グレイズはよく知っていた。
人々が身を寄せ合っているところへ偵察に出ていたキールヴェクとレイフが戻ってきた。
「状況は?」
「逃げよう!」
グレイズが問うのと、ずぶ濡れのキールヴェクが言うのは同時だった。
「エウリッグが、ドラゴンの死体みたいなのと戦ってくれてる」
若い娘たちと共にいたマルティータが息を飲んだ。
「そんな! エウリッグだって弱っていますのよ!」
「でも、神様同士の戦いだよ、お姫様。おいらたちには何もできない。嵐がきたときみたく、じっと我慢するか、逃げるしかできない」
魔術師はマントを脱いでしずくを払った。
そしてそれを、赤子を抱くグウィネヴィアの上にかけてやっていた。
「そろそろ〈
「わかった。私たちは引き上げよう。セルゲイとユラムは?」
「それが……」
レイフが引き上げた二つ目のゴーグルの下、露わになった灰色の瞳が悔しげに歪んでいた。
遍歴学生は、手にしていた望遠鏡で見た一部始終を王子に語って聞かせてくれた。
魔剣で怪物となったクリフォードと戦うエウリッグ、海賊の男と何やら言い争う中で負傷したセルゲイ、彼をかばい海賊との熾烈な一騎打ちをするユラムなど、まるで地獄絵図だ。
「そんな……」
グレイズは頭が真っ白になった。
レイフが言った通りならば、セルゲイは海賊に殺されてしまった。
しかも、何度も何度も全身をめった刺しにされて。
心臓が、鷲掴みにされたようだ。
よろめいた王子を、妻が支えてくれる。彼女の身体の温かさが、現実を物語る。
まだ話したいことがあった。馬術も、剣術も教えて欲しかった。
どんなエールがおいしいのかも聞いていない。夜遊びだって話に聞いただけだ。
パブで聴かせてくれたあの素晴らしいリュート歌曲の弾き語りもまだまだ聴き足りない。
それに、あの時は茶化したが、彼にも恋人がいたかもしれない。
「セルゲイ……!」
まだ、友だちらしいことを何もしていない。そんな場違いなことばかりが頭をよぎる。
「グレイズ。まだ望みはあるわ」
しっかりとしたアルトが、王子の耳に届いた。グウィネヴィアだ。
「聞こえる。ユーリが言っている。騎士はまだ生きている。いつまでもつかはわからない。けれど、ユーリの血を彼に飲ませてあげれば助かるかもしれない」
「本当か!」
グレイズは顎を上げた。
「身体に合えばいいのだけれど」
グレイズが急ぎ駆けだそうとするのを、マルティータが全身で止めた。
「お待ちになって!」
王子が焦りに振り向くと、二人の姫君が彼を見つめていた。
「炎のように熱く煮えたぎる勇気、それが、あなたの〈ギフト〉だったのですね」
「マルー?」
グレイズは突然違う話題が飛び出したのに、驚いた。
王子と公女は〈ギフト〉を持たぬ非才同士として孤独を分けあい、愛しあうに至った。
確かに、そのはずだった。だが、思い当たる節もある。
叔母の神子姫ミゼリア・ミュデリアは、二人の〈ギフト〉に言及したことがなかった。
あんなにも二人を追い詰め、苦しめていたものなのに。
「わたくしにも、〈ギフト〉があったように、あなたにもおありでした。誰もわからなかったのよ。おわかりになりますか? ペローラに来てから、あなたの心に灯が灯ったのを。あなたの炎はずっと、誰にも――あなた自身にも見えない、心という大地の下で燃え続けていらっしゃったんだわ」
王太子妃の言葉に、学者がすかさず反応する。
「言い得て妙だ。ここも火山性の島だし、ペローラの島々に鉱物の名前がついているのも納得だし、すぐ地下にマグマがあるに違いない! そうだよね?」
グウィネヴィアが頷く。
「ええ。このあたりは火に愛された地域なのよ」
グレイズは彼を拘束している細く白い両腕をやんわりとほどいた。
「つまり、どうすればいい?」
「あなたの心でこの島の燭台に火をお付けになって。蝋燭から蝋燭へ炎を移すように」
「そんなことができるのだろうか」
マルティータの銀の瞳がグレイズを貫く。
「信じておりますわ」
***
グレイズは金のゴブレットを拝借し、マントを頭から被って〈ビュロウ〉を飛び出した。
「スィエルのご加護を」
と、抱きしめてくれたマルティータの温もりは、あっという間に降りしきる冷たい雨に洗われてしまった。
彼女やレイフにはオパーラに再び寄港した〈海豹女(セルキィ)〉号に人々を避難させるよう頼んである。
本来、〈ビュロウ〉からカルデラへは一本道で繋がっていたのだが、エウリッグたちの戦いの最中、に起こった落石により道が塞がれてしまった。
遠回りをしているグレイズは、罠にかかった気の毒な男たちを見つけた。
グレイズはたまらず、ナイフを引き抜いた。
「逃げろ! ここから離れるんだ!」
蔓草でできた罠を切り裂くと、
「あんた、王子か? なんで俺たちを?」
グレイズが助け出した毛むくじゃらの矮躯の男は、王子に倣って仲間を助けはじめた。
「救える命を見過ごすわけにはいかない。あとはできるな。頼んだぞ」
王子は、〈鯱〉の男たちが助け合うのを尻目にカルデラへ向かった。
***
「ここか……」
グレイズは、低い火山のてっぺん――蝋燭ならば、芯がそそり立つだろう場所に立った。
雨で滑る山肌に、半ばつま先を突き刺すようにして登り切った山の峰から、光の竜と闇の竜が、そして金の女と銅の男が戦う姿が見下ろせた。相対する二人の力は互角に見えた。
身体から腐った肉をしたたらせながら暴れる暗黒の竜に、グレイズの背筋が凍る。
だがもっと恐ろしいのは、大切な友を失ってしまうことだった。
グレイズは膝をつき、左手を心臓の上に、右手を大地にあてがって瞳を閉じた。
「
祈る間にも、地面は揺れて咆哮が空気を切り裂く。
ヴァニアスにいた頃の自分ならば、一度きりの挑戦で諦めてしまっていただろう。
しかし、グレイズは根気強く繰り返し自然の神へ呼びかけた。
「
何度目かに、手応えがあった。それはちりちりとした不思議な感覚だった。
手のひらから伝わって、全身の肌の表面を走り回っていく。
その奥で、自分よりも遥かに大きな意思の流れのようなものを感じる。
それは空や海、風に似ていて、遠く深いところからやってくる予感がした。
確かな手応えがあった。しかし、今ではない。
グレイズは直感的に思い、駆けだした。
エウリッグに向けて心を研ぎ澄ますと、彼は疲れ切った声で答えてくれた。
「大地は私に気づいてくれた。それまでに君の血をセルゲイにとグウェンが」
「一瞬だけ屈もう。その隙にひとしずく掬いたまえ」
グレイズは一瞬、怖じ気づいた。
二頭のドラゴンはそれぞれに民家ほどの大きさだ。
その足元に自ら進んで行きたいとはとても思わない。
仮に踏まれなかったとして、エウリッグが余計に負傷しないとも限らない。
「馬鹿王子!」
迷いかけた自分を叱責し、ばしんとひと思いに頬を殴って、グレイズは山肌を滑り降りた。
金色の足に踏み抜かれぬよう、注意しながら近づくと、黄金の鏡のような鱗がめくれあがっているところを見つけた。その奥に緑の肉がひくつき、そこから青い血が滴り落ちている。
それを金のゴブレットいっぱいに掬いとって蓋を閉じ、グレイズはすぐにその場を離れた。
全力で戦場を駆け抜ける。喉が、胸が痛い。こんなに駆けたことはない。
しかしサフィーラ島でマルティータを探しに走った時よりも心なしか速くなった気もする。
エウリッグの疲労を見ても、時間は少ないだろう。
グレイズは走りながら、目的地の近くで激しく戦う男女を見守った。
猛烈な勢いで攻め立てるブロンズの男――騎士団長の息子フェネトの戦い方には、見覚えがある。技や型、そして剣の持つ力を利用して相手を完膚なきまでにねじ伏せたがっている。
侮り嘲るような身勝手な暴力に、相手への敬意などかけらも感じられない。
そう、明確な悪意と殺意が彼にはあった。御前試合で感じた攻撃性の正体はこれだったのだ。
あの時彼は、完全な勝利をおさめるつもり――親友とその人生を潰すつもりだったのだろう。
つまり。グレイズは確信を持って推理した。セルゲイの剣がレプリカにすり替えられていたのも彼の謀略に間違いない。しかし、彼が内に秘めていた計略と侮蔑が、皮肉にも自らの失敗を招いた。セルゲイは真実を映す鏡のような男だから、そうなるべくしてなったのだろう。
対するユラムの戦い方は、美しかった。彼女はセルゲイと異なり、相手の暴力を真正面から受けはしない。代わりに線の細い体を活かし、殺意の矛先を見極めて、ひらりひらりとかわしては相手の隙を突く。それは、蝶のようであり、蜂のようでもあった。見れば大振りで強力な一打を繰り出しているフェネトのほうが傷ついており、劣勢である。
やがて、決着がついた。
ユラムの一太刀を顔に浴びたフェネトが倒れ、彼は右の顔をかばったきり、動かなくなった。
女海賊は濡れそぼった髪をかきあげた。
そして何かを吐き捨てるときびすを返し、駆け出した。
勝利したユラムのつま先は、グレイズと同じ方向を向いている。
倒れている男に近づくと、彼に付き添う女が、こちらを向いた。
「グレイズ!」
「アン! セルゲイは!」
グレイズはほとんど滑って転ぶようにして騎士の隣に座った。
「ヤバいよ。もう、息してないの」
鼻声の女海賊が抱き上げてくれている顔の泥を指で拭うと、その冷たさにどきりとした。
「これを……」
グレイズは急ぎゴブレットの蓋を開け、セルゲイの紫色のくちびるにあてがった。
ゆっくりと注ごうとしても、彼の顎は動かない。竜の青い血がくちびると顎を汚すだけだ。
「頼む、飲んでくれ――!」
「いい、どけ!」
と、駆けつけたユラムがグレイズを押しのけた。
そして、王子の握る手ごとゴブレットをあおり、その勢いのままセルゲイにくちづけた。
「わお」
ユラムが豪快に舌を割り入れているのにグレイズとアンが一緒にどきりとした目前で、騎士の喉仏がごくりと上下した。一つ、そして二つ。
次の瞬間、騎士の頬に徐々に血の気が戻ってきた。
「……!」
セルゲイが盛大に咳き込みはじめると、ユラムのくちびるが塗れた音を立てて離れた。
騎士の青いしずくがついているくちびるに赤みがさし、胸板が大きく膨らんでは萎んでいる。
息をしている。生きている!
「セルゲイ!」
王子はたまらずユラムごと、騎士に抱きついた。
「こ、こら!」
「グレイズ……? お前、なんで……?」
一度死んだ騎士である。乱暴に扱ってはいけない。
グレイズは慌てて身体を離しセルゲイの身体を撫でさすったが、雨以外に彼を濡らすものは無かった。傷だらけだった身体は、何事もなかったかのようにつるりとまっさらで、ぼろぼろの革鎧を通してもわかるほど彼の鼓動ははっきりとしていた。
熱い物がこみあげて、ぼろぼろと瞳から溢れてきた。歓喜か、安堵か、感動か。
とにかく、一言で表現するなどとんでもない暴力に思えるほど、色んな気持ちがしている。
なんと言えばいいかわからない。だからもう一度、ありったけの力で抱きしめておいた。
「馬鹿。セルゲイ、お前、死んでたんだぞ……! ユラムに感謝するんだぞ!」
と、その時、大地が大きく揺れだした。
ドラゴン同士の足音とは非にならない、縦の震動だ。
「来てくれたか!」
グレイズは直感した。
「話は後だ! 逃げるぞ!」
グレイズが叫んだのと同時に、大地がひび割れだした。
カルデラの中央部では地面が崩れ落ちてもいる。
その奥底では、赤くまばゆい流れと熱気がうねり、大地を飲み込んでいた。
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