5、血の真実

 骨と肉の化け物と化したクリフォードは、鳴らない喉からどろどろした液体と奇妙な高音をまき散らした。剥きだしの目玉は血走り、ぐるんぐるんとあべこべの方向を向いている。

 おそらく、人間としての理性はなくなってしまったのだろう。

 クリフォードだった化け物はのたうちまわりながらまっすぐにユラムめがけて突進してきた。


「ユラム!」


 セルゲイが咄嗟に彼女をかばった瞬間、目の前に濁った唾液の滝と死臭が溢れかえった。

 食われる!

 恐怖を感じた瞬間、黄金の塊がセルゲイの右から爆風のように飛び出した。

 突如巻き起こった旋風に飛ばされたセルゲイとユラムは、カルデラの際に尻餅をついた。

 雨の濁ったカーテンの向こうをさっと確認する。

 金色の竜が黒く腐りきった竜に噛みついていた。

 巨大な生物が、水しぶきをまき散らし、地鳴りを起こしながら戦う。

 その姿に唖然としていると、ぴちゃぴちゃという静かな足音が近づくのに遅れてしまった。

 それは、エウリッグが背に隠していた〈ビュロウ〉への入り口だった。


「待て! フェネト!」


 セルゲイは滑る大地に体勢を崩しながら、〈ビュロウ〉の入り口に立ちはだかった。

 追いついたユラムも隣に並ぶ。


「なんで〈鯱〉なんかと一緒にいるんだよ! なんで!」


 セルゲイは一縷の望みをかけて問うた。

 フェネトは顎をそびやかし、びしょ濡れになった前髪を耳にかけ直した。


「セルゲイ。お前はいつも僕の人生を邪魔するんだな」


 彼の瞳が、冬の海のように冷たくセルゲイに刺さる。


「違う、フェネト。話をしよう。お前は騙されてるんだろ――」


 静かに降る雨と怪物の立てる地鳴りの合間にあってなおフェネトの声はくっきりとしていた。


「お前は僕から全てを奪った。だから、失敗や失う辛さを味わわせてやった。それなのに性懲りも無く僕の前に立ちはだかる。何様のつもりだ? 諦めが悪いのが庶民根性なのか?」


「そんな、俺は……!」


「サフィーラで引き返していれば、国で慰めてやったものを」


 せせら笑う彼の意地悪な表情は、初めて見るものだった。


「まだ、許してくれないんだな。だったらそう言ってくれれば――」


「そっちこそ、まだ対等だと思っているようだな」


 セルゲイは、フェネトにすがりつこうとした。

 その時、地響きのような咆哮が金色の塊ごと飛んできて、壁に叩きつけられた。

 大地が揺れ、ひび割れた山肌が崩れた。

 落ちる岩と砂埃の中に、ユラムがいた。


「ユラム!」


 彼女の悲鳴は轟音にかき消されて聞こえなかった。

 土埃が収まる前に、セルゲイは女海賊のいたところへ駆けつけた。

 手が、顔が、上半身が見える。動いている。


「今、助けてやる!」


 セルゲイは急ぎ、取り除けそうな小岩をどかしはじめた。


「待て、足が!」


 いくつかどけて転がしたが、ユラムの右足だけが抜けない。

 どうやら変に曲がったまま、岩の間に挟まっているらしい。

 女海賊の腕ごと身体を引っ張ると、彼女はらしくなく高い声を出して痛がった。

 折れてはいないらしいが、それがかえって不都合だった。


「セルゲイ、もういい!」


「まだだ! まだ――!」


 と、その時、セルゲイの腹に、言い難い痛みが走った。

 熱い。

 そう思った瞬間には、ひりつく痛みに声も出なくなり、その場に膝をついてしまった。

 身体をまっすぐに貫いた何かが引き抜かれる。


「セルゲイ!」


 騎士の身体からは力が抜け、頭はいつの間にか、地面に打ち付けられていた。

 呼吸に大きく喘ぐ口には外から泥水が浸入するし、内側からは血があふれかえる。

 不味いし、苦しい。呼吸そのものが苦痛だ。

 倒れ込んだセルゲイの腹を、誰かに蹴られた。フェネトだ。


「お前、また僕を軽んじたよね。女に現を抜かして。ねえ。僕と話をしていたのに」


 温かい液体が溢れる腹を押さえるセルゲイを、フェネトが笑いながら蹴り転がす。


「いい気味、いい顔だよ、セルゲイ! 鏡で見せてやりたい! お前にはそういう顔がお似合いだ。お父様とドーガス卿にも見せたかったなァ! 本当なら一年前、こうなる予定だったんだ! それを、お前は!」


 あらゆる痛みに耐える長い時間が過ぎたころ、セルゲイの背中に平たい何かがぶつかった。


「小姓に、従騎士に、王子近衛騎士になったことを詫びろ! 庶民の癖に! 貴族を退かせたことをここで、さあ!」


 食いしばりながら見開いた目には、広いカルデラで争う二頭の怪物の影が見えた。

 その手前で、フェネト――親友だと思っていた男が冷たく見下ろしている。

 まるで悪夢だ。セルゲイは霞む意識でぼうっと思った。

 これを、神子姫様はご存知だったんだろうか。でも、言われても信じられなかったな。


「お前のせいで僕の人生はめちゃくちゃだ。いつでもへらへらして努力もそこそこに成功して、目をかけられて、あまつさえ僕と同列に扱われて! よくも、よくも辱めてくれたな!」


 男は、何かを言うたびに左手のレイピアをセルゲイの腹に突き刺してきた。


「だから、お前に復讐した。御前試合で恥をかかせようと思って剣を代えておいた。なのに、お前は! なんで僕だけがひどい目に遭わなくてはならないんだ!」


 腹をかばうセルゲイの腕までも、フェネトは容赦なく突き刺す。何度も、何度も、執拗に。

 痛い。焼けつくような痛みを、続けざまに与えられる。

 ほとんど拷問だ。しかし、痛むのが身体なのか心なのかわからない。

 今、瞳から溢れているのが、血か涙かも。


「しかもお前は王子に拾われた。騎士団を首になるはずだったのに! だから、計画を立てた。まず、僕が自分の失敗を取り返すには、ドラゴンの血――霊薬が必要だ。運がいいことに、魔術師がドラゴンに追われていること、クリフォードが世界一の宝を求めていることを知った。あとは、王子だ。あの弱虫をたきつけるために、魔術師に花嫁の偽装誘拐を演じさせた。全てうまくいくはずだったんだ! ドラゴンの薬を作って売れば、アルバトロス商会の看板だって地に落ちるはずだった! 陛下と父上だって、僕の計画を信じてくれていた。なのに!」


 フェネトが雨の中で半狂乱になって叫ぶのを、セルゲイは聞きとめられなかった。

 呼吸はいくらしても足りず、目は霞むし、意識が朦朧としている。


「邪魔なんだよ、お前は!」


 彼の語る言葉の節々に、悪意が凝縮されていることだけは伝わってきた。

 その全てが、セルゲイを否定するためだけに並べられていた。


「最後に教えてやるよ。この世に、お前の信じる正義なんか、無い。生き残ったほうの信念が圧倒的に正しい! 生き残ったほうが正義を語れる!」


 腕の隙間から見たフェネトのぐしゃぐしゃに歪んだ顔の真ん中で、殺意がぎらついた。

 その、凄まじい表情には既視感がある。

 そうだ。あの日御前試合の兜の下で、フェネトは同じ顔をしていた。

 俺は死ぬのか。


「逆恨みかよ、クソ外道が!」


 確信して瞳をつむろうとしたその時、女の声と鈍い金属音がした。

 猛烈な眠気に負けそうな瞼をなんとか持ち上げる。

 見上げた先には、ブーツに包まれた細長い足があった。


「家督権のあるオレを殺そうとしただけでなく、友に嫉妬して。見苦しい男だよ、てめえは」


 勇ましい声は、ユラムのものだった。

 よかった。無事に抜け出せたのか。安堵の気持ちがよぎると、急激に眠たくなる。

 フェネトに唾を吐きかけた彼女は、髪をほどいて見せた。


「嘘だ、お前はあの時、僕が!」


 雨の中にあってさえ、濡れた金髪がうすぼんやりと自ら光を放っている。


「消えろ! お前は幻だ!」


 フェネトの声が、にわかに震えた。


「お前が生きているはずがないんだ! 幽霊め、消えろ! 消えろ!」


 セルゲイに向かって吐き続けていた呪詛と、声音が違う。

 それは友の――友だった男の喉から初めて聞こえた、情けない恐怖の響きだった。


「いいことを教えてやるよ、愛しいお兄様。オレ――マリ・メイア・デ・リキアは生きてる」


 ユラムが、ふわりと優雅にお辞儀をした。それはまったく、貴族の仕草だった。


「馬鹿な! あそこの海には陸地なんてなかった! 消えろ、亡霊め!」


 フェネトが無我夢中になって叫んでいるのが聞こえる。

 ユラムが泥水に構わず両膝をついて、セルゲイを抱き起こしてくれたので、顔が見えた。

 ありがとう。

 と、言ったつもりだったが、喉は仕事をしてくれなかった。


「いい、喋るな。あとはオレに任せろ」


 ユラムは小さく微笑んでくれた。

 騎士は遠のく意識をつなぎ止めるのでいっぱいいっぱいで、答えられない。

 ただ、彼女の身体が、笑顔が柔らかく温かで、なんだか泣けてしまった。

 頬の上を涙が雨に混じりながら落ちてゆく。

 その涙を、ユラムは指で丁寧に拭ってくれた。


「とっととケリをつける。だから、待っててくれ、セルゲイ」


「お、女! お前も幽霊か!」


 フェネトの焦りきった声に少し驚いて意識が浮上すると、もう一組の温かい腕に抱かれていることに気がついた。


「なるほど、あれがクソオニイサマか。確かにやな奴。〈鯱〉のがまだマシかも」


 やけに明るい声の持ち主に、セルゲイは心当たりがあって瞳を開いた。


「ア……?」


 霞む目に、あのミルクティー色の娘がぼんやりと映り込む。


「そーだよ。しっかりしな、セルゲイ」


 本当に夢に見た柔らかい谷間が頬に寄せられているのに、今は呼吸と意識を保つので精一杯で、堪能どころではない。へへ、とセルゲイは自嘲した。死ぬ間際に、俺は。〈海豹女セルキィ〉号に乗り込んだはずの彼女が何故ここにいるのかわからないが、今のセルゲイに考えられる余力などなかった。

 怪物たちの咆哮、足音に続き、どしゃりと何かが倒れる音がした。

 あちらもあちらで、戦いに決着がつきそうなのだろう。

 女海賊はセルゲイの身体をアンに任せると、おもむろに立ち上がっていた。

 霞む目には、凜と佇むユラムのブーツのくるぶししか見えない。


「オレも答え合わせをしてやるよ。九年前のあの日、エスメラルダを出発したデ・リキア伯爵家は、悲しい事件に遭った。水の魔法の〈ギフト〉に恵まれた跡取り娘が、船の上から忽然と消えちまった。誰も何もわからない。楽しいバカンスが一転、悲しみに包まれた家族はしかたなく無能で非才の長男のフェネトを跡取りに据えた――」


「やめろ、言うな――!」


「だが、真実は違う。兄は妹を深い海へ突き落としたのさ。なんてことはないただの殺人事件だ。そして妹は――マリ・メイア・デ・リキアはここにいる。生きている。なぜか?」


 ユラム――メイアの胸を張った声が聞こえる。


「オレは救われたんだ。海の大神様が、可愛いアンに出会わせてくれた! オレは海から還った本物の海豹女セルキィさ。知ってるか? 水の精霊ヴァトゥンと契約した船乗りは、無敵なんだぜ」


 水っぽい雑音の中にあっても、彼女の引き抜いた曲刀の涼しい音はくっきりと聞こえた。


「そんな、精霊と契約なんて……あり得ない……」


「それじゃあ、確かめてみようか、クソ兄貴!」


 そうユラムが叫んだ瞬間、びしゃりと雨粒よりも大きな何かが飛び散る音がした。

 大地に座るセルゲイの尻の下がじりじりと振動する。エウリッグが倒れ、彼の血飛沫が飛んできたのだ。そのあと、くつくつという静かな笑い声が、爆発した。


「見える! 見えるぞ! 足も感覚がある! 血だ! ドラゴンの血はやっぱり霊薬だったんだ! 天は僕に味方したぞ、メイア!」


 セルゲイが目を凝らした先で、血まみれのフェネトが飛び起きて眼帯をむしり捨てた。


「ここでもう一度、お前を殺す」


 そこでは、かつてセルゲイが奪った目が、元のように再生されていた。


「セルゲイともども、死ね!」

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