3、健やかなれ、竜の娘よ
驚くほど澄みわたり凪いだ空と海の青の間をとろとろと行き、〈
慣れ親しんだ
なかでも、セルゲイの悔しがりようといったらなかった。
むくれた彼は、まだ船を下りてこない。
聞けばアンを助けようとしていた彼は、目の前で彼女を波にさらわれてしまったらしい。
そのようだが、アンはなぜか助かっていて今もグレイズの目の前でピンピンしている。
船に戻り、友だちの少し丸まった背中に手を伸ばす。
「セルゲイ」
何があった? よく頑張ったよ。もしくは、そういうこともあるさ。
悩んだが、いずれも不適だろうと、全てを飲み込んだ。
主君としても友としても、グレイズはかける言葉が見つけられなかった。
だから、ぽんと一つ肩を叩くだけにしておいた。元気づけるように、努めて明るく。
自分と同じなのだろう、ユラムも何か言いたげにセルゲイを見つめていた。
彼女はやがて気づかない騎士から首を背け乗組員を船から降ろすと自分も下りていった。
オパーラの島は、ペローラ諸島のどの島よりも緑に溢れていた。
無作為に植物が生息し、幹の細い背の低い木々が多く立ち並ぶ姿は、原始の姿を見るようだ。 人の手がまるで入っていない。ほかの島々とはまったく違っていた。
グレイズが興味をそそられて観察していると、誰よりも先に船を飛び降りた遍歴学生レイフが土に這いつくばっていた。上陸したと思いきやこれである。彼にとって、体を汚す土は敗北を意味しないようだ。土を巾着に入れてみたり、見慣れぬ植生や昆虫を見るたびに明るい声を上げている。遍歴学生の心のタフさにはいつも舌を巻かされる。
「なるほど、火山性の島なんだな。まだ、生きているかな。オパーラっていうぐらいだから、オパールも採れるんだろうか」
学者の大きな独り言にも慣れてきた。むしろ、彼の平常な態度に心が凪ぐ。
レイフは嬉しそうに、そして悔しそうに頭を掻きむしった。
「ああ! 紙、ちょっとしかないな! ノートを送ったのは失敗だったか!」
船の上、遠くから白く輝いて見えていたもの――飾り気の無い、こんもりとした丸いドーム型をした不思議な形の建物が彼の興味と研究対象になるのも時間の問題だろう。
扉のようなものと窓があるところを見ると家らしいのだが、人気はまったくない。
白く丸い家が並ぶ様は、まるで大きなきのこのようだ。
「戻ってきちまった……」
グレイズの隣で、キールヴェクが呟いた。
「やっぱり、おいらはここで死ぬ運命なのかな」
魔術師は懐から自分の〈ウィスプ〉を取り出して、そっと頬ずりした。
「グウェン。最後にもう一度、会いたかったな」
その時だった。
ひゅうん、と甲高い音があたりに響いた。続いて、低い風切音が風圧と共に押し寄せる。
グレイズが驚いて見上げると、黄金に輝く何かが視界を掠めた。
「あれは!」
期待が王子の心に芽生える。彼の足元では魔術師が頭を抱えてうずくまった。
「グレイズ!」
セルゲイが剥きだしの剣を手に走ってきてくれた。
「下がってろ!」
騎士が立ちはだかったその瞬間、あたりに小さな竜巻が生まれた。
この風には覚えがあった。
強まる風、目に襲いかかる埃に構わず、グレイズは顎を上げた。
黄金の光を放つ竜の懐には乳白色のバスタブが、その中には赤く輝く短髪を逆巻く風に遊ばせる少女がいた。髪が短くなろうと、世界でたった一人の愛しい娘のことはすぐにわかる。
「マルー!」
「グレイズ様!」
腕を伸ばしている花嫁を、グレイズは待ちきれずに迎えに行った。
ドラゴンがどすんと着陸するやいなや、マルティータはバスタブから飛び出してグレイズの懐に飛び込んだ。
思い切り抱きしめた細い身体の感触、温かさ、よく知っている柔らかで甘い匂いに、彼女を確かに感じる。
愛おしいマルティータの全てを包み込みたいと思っているのに、残念かな、グレイズには腕が二本しかなかった。
「グレイズ様! お会いしたかった!」
「飛んで行ってしまったのは君だよ、マルー」
「譲れぬ事情があったのです。ああ。何処からお話すればよいか……!」
じわりと目頭が熱くなる。人目がなければ思い切り泣いていたかもしれない。
それにしても、抱きしめたまま離れずに顔を見るにはどうしたらいいのだろう。
こうして再会できたというのに、切なさはこみあげるばかりでため息が止まらない。
いたしかたなく少しだけ身体を離し、愛しい娘の顔を見下ろした。
薔薇色の頬を両手で包み込む。ここに、マルティータがいると何度でも確かめたい。
「少し、日に焼けたね」
「グレイズ様も」
新妻も夫と同様にして、顔を愛おしげに撫でてくれる。
「髪、切ってしまったのかい」
「グレイズ様は、伸びましたね――」
「グレイズ! マルティータ様とドラゴンから離れろ!」
鋭い声に、一同の注目が集まる。セルゲイだ。
切っ先を向けたままの騎士が躍り出たのを、マルティータが止めた。
「お止めになって! お友だちなの! エウリッグは人に危害を与えません!」
「でも――!」
「あの時、サフィーラであなたがたを傷つけなかった! それが証明です!」
マルティータがきっぱりと言い切るのに、セルゲイはしぶしぶ剣を下ろした。
それと同時に、エウリッグと呼ばれた黄金竜は翼を畳んで小さくまとまっている。
敵意はないと言っているように黄金の瞳がゆっくりまばたいたので、グレイズも同様にした。
さて、王子とその妻が再会に浸っている間に、あたりは賑やかになっていた。
〈
彼らに共通している、空に透けるような色の髪を見て、グレイズは理解した。
「ここはワニアたちの隠れ里だったのか」
少女の身体に腕を回したまま、グレイズは顔を上げた。
そこでは古より優れた魔法の〈ギフト〉を持つワニア民族が、黄金のドラゴンに向かって膝をつき頭を垂れていた。
「黄金なる空の竜神よ。我らに何をお求めか」
ワニアの老人が前に出てきてドラゴンに尋ねたりしている。
「じいちゃん! エウリッグはおいらを殺しに来たんだ――」
と、すがりついた魔術師を、老人は足蹴にした。
「阿呆! お前の話はきいておらん、キール! グウェン殿を連れ出して勝手に逃げおってからに!」
グレイズが腕の中のマルティータと目を合わせると、声が聞こえてきた。
「我が眷属よ、勇敢な女たちよ、どうか我が姉グウィネヴィアのお産を助け賜え」
老成した少年の声だ。矛盾しているが、確かにそう感じた。
それはドラゴンの喉からではなく、グレイズの心に直接響いてきた。
彼の姉が誰かはすぐにわからなかったが、ドラゴンの懐にちょこんと座った薄紫色の髪の女がそうなのだろう。彼女は顔面蒼白で、見るからに具合が悪そうだ。人の姿でドラゴンの姉とは不思議だが、マルティータと旅をしてきた彼女であるから、邪悪ではないはずだ。
ワニア民族の長老は重々しく頷くと、指示を出そうと口を開いたが、すぐにむせた。
彼の節くれ立った喉に何かが絡んだのだろう。
その時、威勢のよいアルトが弾けた。
「てめえら! 手伝いな!」
ユラムだ。女船長の鬨の声で、〈
「あいあいさ!」
「さあ、グウェン」
マルティータが一歩踏み出して、バスタブの中に座っていたグウェンの手をとった。
「お嬢様、よくぞご無事で!」
「ああ、イーリス。あなたも!」
イーリスが遅れて駆け寄る。二人の令嬢は再会を喜び頬にキスを交換しあった。
「こちらがグウィネヴィア様ですわね。それでは早速――」
「グウェン!」
キールヴェクもようやく妻を迎えに行く。
「あなたはダメです!」
「どうして!」
「どうしてもと言うのなら、お体をこれ以上なく清めてくださいませ!」
が、夫はマルティータによって阻まれていた。
「グウェンには黄金が――光のマナが必要なの。あなたもワニアの神子ならおわかりでしょう! とにかくお産は〈ビュロウ〉で! 手が空いている人はお湯と布、それから毛布も持ってきてちょうだい! 急いで!」
グレイズはぼうっとマルティータを見ていた。
凜然と指示を出す妻が我がことのように誇らしい。
しかしそれは間違いだったようだ。
「グレイズ様も! お早く!」
鋭く呼ばれたので近寄ると、マルティータのくちびるが尖っていた。
「セルゲイ様と一緒にグウェンを担架で連れて行ってくださいませ。お暇な方は村の方に尋ねて清潔な水と布を用意してください! 手は必ずよぉく洗ってくださいませね!」
「わかった。〈
セルゲイが駆けだす。
「イーリス。あなたはかまどをお借りして、フェネグリークとアマの実、大麦を煎じてちょうだい。それから、菫の油か薔薇の油を」
「かしこまりました」
「大丈夫よ、グウェン。安心して」
的確な指示を出すマルティータの腕の中で、グウェンが苦悶の表情と玉の汗を浮かべていた。
グレイズも、セルゲイを待つ間も惜しんで洗い桶を探しに村へ入った。
***
〈ビュロウ〉に妊婦や彼女のためのベッド、清潔なシーツや布、沸かしたての湯、洗い桶などを運び終えると、新鮮な湯を運ぶ役割のない男たちは〈ビュロウ〉から追い出された。
キールヴェクにいたっては、しかめ面のマルティータに指をさされ、説教までされていた。
「あなたに言いたいことはたくさんあります。でもまずは身体をよく洗って、嫌な臭いがしなくなるまで、いえ、水が濁らなくなるまで洗ってくださいませ! 背中が届かなければ、セルゲイ様やグレイズ様に手伝っていただいて! いいですわね!」
グレイズは少し羨ましく思った。慰められたことはあっても叱られたことはないから。
そういうわけで、グレイズとセルゲイは魔術師の入浴を手伝うことになった。
他人の入浴を手伝うのは召使いや乳母がするようなことであるから、グレイズにはとても新鮮で面白かった。犬や馬の世話をするときもこのような気分になるのだろうか。
そう考えてみると、この臆病な魔術師は主人のいない気の毒な犬のようにも思えてきた。
「キールヴェク。せっかくだから君のことを聞かせてくれないか。生まれでも、なれそめでも、なんでも」
気づけばグレイズは提案していた。
正直、めそめそと黙って涙するキールヴェクが湿っぽくて、飽き飽きしたのもある。
しばらくの沈黙ののち、これ以上期待しても、とグレイズが話の矛先をセルゲイへ向けようとしたその時、ぽつりと声が聞こえた。
「……そんな、大した話じゃないんだよ……」
***
キールヴェクは、物心ついたときからワニアの神子として、汚れなく育てられた。
あてどない旅に出ようとしたその時、空からグウィネヴィアが落ちてきた。
二人はたちまち恋に落ちた。キールヴェクは生きることに希望を見いだしはじめた。
二人きりの旅路はあべこべで愉快なものだった。世間知らずの少女と、世間では幻の島とされるオパーラ出身の魔術師には、全てが真新しく見えた。
もちろん危険もあったし、出会う人に騙されたりもした。
盗賊に襲われた時には、グウィネヴィアの大切な首飾りが奪われたこともあった。
その時、盗賊は得体の知れない化け物に変わり、本来の姿――ドラゴンに戻った彼女は、化け物から宝珠を奪い返した。そしてキールヴェクは、彼女が本当はドラゴンであると知って、恐れた。しかし、二人で紡いできた思い出と愛情が恐怖に勝った。
実はグウィネヴィアは竜の姫君で、王家の宝珠に魅せられて、父王の目を盗み宝珠に触れて、呪いで人間の姿になってしまった。その宝は何の変哲も無い水晶だったが、触れた者を心の姿に変えてしまうものだった。禁忌を犯し、人間になる呪いにかかってしまったグウィネヴィアは、竜の掟に従って地上に落とされた。そして、キールヴェクと出会ったのだった。
グウィネヴィアは薄紫色の鱗を自ら剥ぎ取ると、それを恋人に差し出した。
血よりも明るい牡丹色の瞳が変わらず優しいのを信じてキールヴェクは鱗――〈ウィスプ〉を手にした。すると、恋人の心の声が聞こえた。
「わたし、怖いもの知らずだった。お父さまも宝珠の呪いも怖くなかった。でも、今はとても怖い。あなたに嫌われてしまうのが」
竜の姫が涙すると、キールヴェクはグウィネヴィアの鼻先を抱きしめた。
「おいらは怖かったよ。生きていたらいつか殺されるんだとばかり思っていたから。でも、今は怖くない。君が、生きるのが、そして君と生きることが。どんな未来があるのか楽しみだ」
そうしてグウィネヴィアは己の呪い――人の心を受け入れて、二人は結ばれた。
***
「めでたし、めでたし!」
なんという、劇的なロマンスだろう。グレイズは感服に唸るばかりであった。
近くで自然物のスケッチをしていたレイフが、新しい紙を用意して書き留めはじめるほどだ。
「すごいね! 事実は小説より奇なり! 登場人物の名前を変えて童話だと言って発表すれば、みんな作り話だって思うだろうよ!」
「でも、本当だ」
感心するレイフに、キールヴェクはもごもご言う。
「それに、やだよ。おいらより王子様のお話――この冒険のほうが、ずっとそれっぽいよ。おいら、神子っていっても落ちこぼれで、死んで凪をもたらすぐらいしか価値が無くて――」
その時、陰鬱に言うキールヴェクの頭に、水が掛けられた。セルゲイだ。
「俺だって落ちこぼれさ。でも生きてる。死んでいいことなんて、一つも無いぜ」
胸を張ったセルゲイが、ちらとグレイズを見た。
水しぶきから逃げたレイフが、自身に降りかかったしずくをぱっぱっと払った。
「いやあ、僕はどっちも好きだけどな。どっちも勇気の物語だもの。前にイーリスさんが言ってたように、攻め込む勇ましさだけが勇気じゃないと僕も思うから。逃げ出すのも受け入れるのも、振り絞って決断するのだって勇気さ。キールヴェク、君の物語を読んだ人はきっと勇気づけられるはずだよ。もちろん、グレイズのお話もね」
そうきっぱりと言ってくれる遍歴学生の顔を、グレイズはまじまじと見てしまった。
レイフは、いつでも新しいことに驚き学ぶ、瑞々しい感性の持ち主だ。
しかし時折このように、全てを俯瞰するような達観した物の見方をちらつかせる。
若くして老成している、あの黄金竜エウリッグに似た印象がある。
そして、いつまでも変わらずにレイフ・ヴィータサロでいて欲しいとさえ、思わせる。
キールヴェクの話に耳を傾けながら、彼を四回は洗った。
〈
それに対し、魔術師が全裸で腰を下ろした桶の水は、換えても換えても濁るばかりだ。
産湯の余りを貰いつつ五回目の入浴になると、キールヴェクは再び口を開いた。
「ごめんな、王子様」
「何がだ?」
「ずっと考えてた。謝りたかった。おいらのせいで大変なことになったから」
魔術師はもぞもぞと足の爪をいじった。
「おいら、グウェンが黄金を欲しがるのは、生活やお医者さんにかかるためのお金が要るからだと思ってた。エウリッグが天界から降りてきて、ヴァニアス島を逃げ回って、もう逃げ場が無いと思ってた時、ヴァニアスでデ・リキアと出会った。王子様を騙す仕事をしたら、海賊を使ってドラゴンをやっつけてくれるって。お金もくれてペローラに連れて行ってくれるって、約束してくれたのを信じたんだ。だから契約して、お姫様を誘拐した。そしたら、エウリッグもサフィーラ島にいるのがわかって、怖くなって急いで海賊を呼んだ。……でも、本当に悪かったと思ってる。あんなに無関係の人を手にかけるなんて、おいら思ってなくて……」
痩せこけたがりがりの背中を丸めて、しょんぼりと縮こまるキールヴェクに、己が重なる。
グレイズは、〈
「私たちは似たもの同士だ、キールヴェク。君は銀の林檎、私は金の林檎。お互いに大切な者を追いかけ、守り、取り戻したかっただけだ。そうではないか?」
そのうち、セルゲイの手が止まったのに気づいた。まだ思うところがあるのだろう。
「エウリッグの声、おいら聞こえてなかった。ずっと呼んでくれていたのに、心を閉ざしてたから。……もう洗わないでいいよ、王子様。どうせ、おいらは食われる運命なんだ」
「馬鹿野郎」
鳥の巣だった魔術師の頭をセルゲイが小突いた。
「汚え親父に抱かれたら、赤ん坊が病気になっちまうんだよ。それに、親父になろうってときに死ぬ話なんかするんじゃねえよ! 生きるか死ぬかの瀬戸際で頑張ってる嫁さんに失礼だろうが!」
グレイズも騎士と同意見だったが、まだ気が済まない。
「キールヴェク、セルゲイの言う通りだ。出産こそ命がけなんだぞ。いじける暇などない。君がしっかりしていなくてどうする。私の愛しい人が全身全霊で守り抜いたご婦人だ。子どもともども、大切にしてもらわねば困る」
二人に責められて、魔術師は目に見えてしょげくりかえった。
「親父か。エウリッグから、いや、グウェンからも逃げようとしたおいらには荷が重たいよ。結局、おいらは勇気なんか持ってないんだ」
魔術師は、腕も足も小さく小さく折りたたんで三角座りで縮こまった。
そのいじけっぷりに、グレイズとセルゲイは顔を見合わせた。溜め息までも揃う。
そして、魔術師の頭に、息を合わせて冷たい水をたっぷりと浴びせかけた。
***
それからさらに洗うこと数回、髪は元の水色に、肌と爪は真っ白になった。
綺麗になったキールヴェクはあまりに色がなさ過ぎて世界に溶けてしまいそうでもある。
そして
「お前ら!」
彼女の薔薇色に染まった頬と、嬉しそうに半開きになっている口が、ほぼ答えだった。
「グウェン!」
キールヴェクは飛び上がり、しっかりと編んだ水色のお下げを上下させながら駆けていった。
セルゲイと笑顔と握手を交わすグレイズの気持ちもほっこりと温かい。
その肩へ載る手のひらがあった。ユラムだ。
「行ってこい、王子様」
「しかし――」
左肩に、ぽんとセルゲイのが載せられる。
「海岸線はこいつと見張っとくさ」
ユラムとセルゲイが頷いてくれるのに甘えて、グレイズも〈ビュロウ〉に急いだ。
ワニアの村
「スープでも作るかい」
「じゃ、アタシなんか釣ってくるよ」
乗組員やワニアの老女たちが、安堵の顔でお互いを労いあっている。
彼らがすれ違いざまに笑顔で見送ってくれる中、グレイズは走った。
自分の子ではない。けれど、なぜだかとても緊張した。
マルティータが守りたかった命の誕生だからかもしれない。
〈ビュロウ〉に駆けつけると、見たことの無い金色の美少年がグレイズを迎えた。
「こっちだ」
聞き覚えのある声に、彼こそが黄金竜エウリッグであると、グレイズは直感で理解した。
暗い洞穴の中、金銀財宝に満ちあふれた真ん中に、薄い絨毯と粗末なベッドが置かれている。
そこでは、疲れ切った母親と嬰児、そして父親が寄り添っていた。
竜姫の薄紫色と魔術師の水色の溶け合った美しい金髪を持った赤ん坊だ。
日没の、あるいは夜明けの空そのものの魔法めいた光彩は、ドラゴンの血を思わせる。
「お嬢様、さすがでございます」
彼らの一歩後ろで、マルティータが侍女イーリスに支えられていた。
涙ぐむ二人と目が合ったので、グレイズも早足で近づき妻を抱いて労った。
「マルー、お疲れ様」
「よかった。本当に」
グレイズがマルティータの短く跳ねる赤毛ごと頭を撫でていると、グウェンとも目が合った。
微笑みを浮かべる彼女に呼ばれたような気がして、夫婦は彼女の枕元へ行った。
「ご機嫌よう、グウィネヴィア姫」
「お陰様で、グレイズ様」
王子が隣国――天界の竜の姫君に膝をつくと、彼女の牡丹色の瞳が緩んだ。
「あなたには謝らなくてはなりません。わたしがマルティータを奪ったようなものだから」
「しかし、返してくれた」
グレイズはほんのわずかに顎を引いた。
「だからよいのだ」
キールヴェクと同じ事を言うのも、夫婦らしい。
「それにおそらく、マルーがあなたとエウリッグに付き添わなければ、おそらく越えられなかった困難もあったのだろう」
「本当に信頼しているのね」
グウィネヴィアは鼻をマルティータに向けた。
「ねえ、マルティータ」
「なあに、グウェン?」
「わたしの娘に名前をつけてもらえるかしら」
少女も夫の隣に膝をつき、友の手をとった。
「グウェンったら、また難しいことをわたくしにさせようとして!」
「愛らしくて逞しく、凛々しくて可憐、そして豊かな精神。素晴らしい知恵と勇気。娘には、あなたのようになってもらいたいの。お願い」
グレイズも、その場にいた全員と同じく、マルティータに期待の視線を注いだ。
少女は、真剣に考えるときにいつもする顔――くちびるをむっと突き出して、うんうん唸りながら考えていた。
「わたくしとグレイズ様の大好きな物語――勇気ある騎士が、誘拐された花嫁を困難の果てに取り戻す物語から、名前をいただきましょう。ルスランとリュドミラ、二人のように、勇気と愛を持つ素敵な女の子になりますように」
マルティータはにっこり微笑んで、泣き疲れて眠っている赤子の頬をそうっと撫でた。
「リュスラーナ。あなたの名前は、リュスラーナよ」
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