2、命がけの航海

 夜空の真上にやってきた月を合図に、グレイズたちを乗せた〈海豹女(セルキィ)〉号はアンプラ=ペロ島を出発した。

 仲間は全員、グレイズに着いてきてくれた。

 ブランカス遺跡まで連れてきてくれた水先案内人のパンメルとその幼い息子も乗船した。

 出発の直前、グレイズはまだ日が高いうちに、万が一のため、ヴァニアス王国の両親へ帰るあてのない旅に出る旨と感謝の言葉を記した手紙を出した。


「この手紙をお読みになりましたら、黒鉄くろがねで黒き獅子の鎧をお造りください。そしてそれを私だとお思いください」


 と、最後に書き添えると、ほろりと涙が落ちてきた。

 これを読んだ両親はどんな顔をするだろうか。怒るだろうか、泣いてくれるだろうか。

 そう想像するだけで泣けてしまった。

 十八年の人生のうち、父からは厳しく、ときにつらく当たられた。

 逆に無関係を装ってきた母とは関わりがほとんどなく、思い出が乏しい。けれど、愛しているには違いなかった。両親が不器用なりに愛情表現をしていたことも今ならわかる。

 清らかで優しい育ての親、叔母ミゼリア・ミュデリアへの感謝の手紙も忘れずに入れた。

 レイフに至っては、彼の研究成果とも言える、あの分厚いノートブックを小包にして祖国に発送したという。


「いやあ、こうなってみると、難破で失われた名も無き旅人の記録ってたくさんあるんだろうね! せめて僕の記録だけでも後世に残しておかないと! ハハハ!」


 遍歴学生が明るく笑いながら縁起でも無いことを言うのを、乗組員たちがじっとりとねめつけていた。これにはグレイズも苦笑した。如何なる時も、レイフはレイフだった。

 セルゲイはというと、実家のアルバトロス商会とドーガスに宛てたらしい。

 なんと書いたのか気になって尋ねると、騎士はニヤリとさも意地悪そうに笑った。


「告発文だよ。親父にスキャンダルを送れば、裏がなくても新聞に載るからな」


「表、つまり一面に?」


「違う。どんなに確証のない噂話でもいいからいつでも話題が欲しいんだよ。これは金になるぜ。『海賊の王太子妃誘拐、驚愕の真実! 二重スパイが証言する驚きの陰謀!』あとは陛下は禿げだとか、デ・リキア卿は腹黒とか言いたかったこと全部書いてやった!」


 俳優のように朗々と述べられて、グレイズはたまらず噴き出してしまった。

 確かに、父は頭頂が薄いのを素敵なかつらや帽子など、あの手この手で誤魔化しているし、デ・リキア卿についても同意見だったからだ。


「見直しましたわ。あなた口説きのセンスは無いけれど、ユーモアのセンスはおありなのね」


 後ろに控えていた侍女イーリスからもくつくつと殺した笑い声が聞こえた。


「あなたの微笑みをいつも浴びるためです、イーリス殿」


「はあ、白々しいこと。減点ですわ」


「ドーガス卿には?」


 グレイズが半笑いで尋ねると、騎士は歌うような美しい声を作った。


「あなたの素晴らしい血脈が途絶えぬよう、早く素敵なお嫁さんを見つけてください」


「ハハハ!」


 今度は堪えきれず大笑いしてしまった。セルゲイがきょとんとしているのも面白い。

 どうやら彼はユスタシウス・ドーガスとイーリスの婚約について知らないらしい。

 だから、ことあるごとにイーリスの気を引こうと躍起になっていたのか。


「余計なお世話じゃないか!」


「俺とドーガスさんの仲だからいいんだよ!」


「君こそ恋人がいないのに」


「うるさいな! 既婚者は黙ってろ!」


 王子と従者は、腹を抱えてひとしきり笑いあった。

 セルゲイの額の上で、左の眉だけがぴくぴくと上下しているのも面白い。

 自分も挑戦してみたが、両方がいっぺんに動くだけで、騎士に小馬鹿にされた。

 しかし、不思議と悪い気はしなかった。

 笑いながら、なんだか夢がひとつ叶ったような気がした。

 グレイズの人生はひとりぼっちだった。

 孤独はマルティータと二人でわけあえたけれど、友と呼べるような人はいなかった。

 王城ケルツェルの、あるいは離宮ベルイエンの窓から見下ろした地上で、若い小姓や従騎士たちが楽しそうにしているのが羨ましかった。

 その輪に今、自分も入れているような気がする。

 それだけではない。

 マルティータを救いたいという、ある意味で自分勝手で独りよがりな望みを掲げて突き進んできたにもかかわらず、彼には様々な思いを共有する仲間ができた。

 きっと、友とはこうして自然に繋がり、その絆を太く育てていくものなのだろう。


***


 輝く暗闇へ向けてまっすぐに〈海豹女セルキィ〉号はご機嫌に進む。

 甲板の上、ひんやりとした夜風に髪を洗われるのが心地よくて、グレイズは顎を上げた。

 濁りの無い星空にぽっかりと浮かぶ満月に、奪われた〈ウィスプ〉が重なる。

 まるで金の林檎の物語だ。手すりに上体を預けてグレイズは思った。

 愛の象徴たる銀と金の林檎――銀の瞳のマルティータと、金色の〈ウィスプ〉を追いかけている。その先に、幸せな結末があるかはわからない。

 けれど、全てが自ら選び取った道のりだという確信はあった。これが自信なのかもしれない。


「びっくりした。そこにいたのか」


 と、凜々しい女の声がしたので、グレイズは振り返った。


「ユラム」


 彼女の金髪が月明かりを受けて光っている。男装の麗人は大きな帽子を脱いでいた。

 その清い輝きは、彼女の高潔な精神を象徴するかのようだ。


「あんたは髪が黒いから、星空に溶けていたんだね」


「詩的だな。ところで、聞いてもいいかい」


「ああ」


 彼女は、長い前髪をけだるげに後ろへ撫でつけた。


「女性が海賊の頭領になれないと言われながら、どうして君は立ち上がったんだい?」


「そんなの」


 ユラムは自嘲するように鼻で笑った。


「クリフォードの奴を見たらわかるだろ。あいつは、女をペットか何かだと思っている。力で劣るものは生物として劣っているとさえ。ヴィルコが知らないところであいつは女を飼ってたんだよ。あるいは物として所有していた。おぞましいだろ」


「それが〈海豹〉の女たちなのか」


「そう。オレたちは海豹の皮を被って、子どもたちと一緒に海に帰ってきた海豹女セルキィさ。それを未練がましく男が追いかけてきてる」


「その実、女の魅力に参っているのに気づかずに?」


「そう!」


 二人は顔をつきあわせてからからと笑い声を立てた。


「ルジアダズ海賊団は本来、自由を尊ぶために生まれた。国王の私掠船しりゃくせん時代から親父――あいつ、オレの育ての親なんだよ――ヴィルコはそう思ってたんだと。その意志を継いでオレたちは自由を得たい。そしてヴィルコが繋いだペローラ諸島の絆をもっと強めたい。それこそがヴィルコの意思で、二代目がやるべきことだと思ってる。思わぬところから――ヴァニアスから横やりが入ってきたのには驚いたがな」


 グレイズは、耳障りのよいユラムの発音に、彼女の纏う上品さの一端を感じた。

 そして何故だろう。彼女はペローラ人なのにヴァニアスのことをディアマンテとは呼ばない。

 目が合うと、ユラムが形のよい眉を片方だけ引き上げた。彼女もできるらしい。


「そうだったのか。大変なところに邪魔をして……。父上のことは申し訳ないと思っている」


「王子様は優しいな」


 グレイズはきょとんとしてしまった。


「そうだろうか」


「ああ。すぐ謝れるのはいいことだぜ」


 ユラムは褒めてくれたのだろう。しかしセルゲイとは真逆のことを言われると戸惑う。

 けれど、どちらも正解なのだろう。二人の育ち、住む世界は全く異なるのだから。


「私は己の幸せな未来だけを願っていた気がする。だが、考えが変わったよ。誰かを守ることは誰かの未来を守ることで、その誰かは私の未来にも繋がっているのだと。もしかしたら、マルーはとっくに知っていたのかもしれないな」


 グレイズが気恥ずかしさに頭をかくと、ぱしんと背中を叩かれた。


「クリフォードの台詞を借りるのは癪だが、オレもお前とお姫様が『めでたし、めでたし』になったらいいって思ってるぜ――」


「ユラム! ヤバい!」


 見張り台からきゅんと張り詰めたソプラノが降ってきた。アンだ。

 彼女の影が指さす行く手を見る。

 そこでは、透明な星空を濁らせる別の闇が、空と海を食らいはじめていた。

 さきほどまで見えていたはずの水平線はどこにもない。


「おう! 全員叩き起こせ!」


「あいあいさ!」


 ドスの利いたユラムの指示が飛び、乗組員の動きが活発化する。


「特にキールは寝てても引っ張ってこい!」


 気高い心、的確な指示、性別など関係なく、ユラムは頼りがいがある人間だ。

 と、月光の降り注ぐ甲板に、乗組員たちより頭一つ大きな影がよろよろと現れた。


「グレイズ」


 仮眠を取っていたセルゲイが頬を撫でさすりながらやってきた。

 イーリスかは知らないが、誰かから目覚ましの強烈な一発を食らったらしい

「よかったな、起こしてもらえて」


「容赦ないぜ、まったく――」


「さあて、悪魔のお出ましだぜ!」


 ユラムが引きつった笑みを浮かべた瞬間、濃霧が〈海豹女セルキィ〉号を包んだ。


***


 あれからどれくらい経っただろう。

 霧が呼び寄せた嵐は、〈海豹女セルキィ〉号をひっくり返そうと躍起になっている。

 セルゲイは指揮をとると言うド素人のグレイズを、船尾楼に押し込んだ。

 そして、たった一人、外で舵をとるユラムの元に急いだ。

 海についてはセルゲイも素人だ。けれどどうしてだろう。放っておけなかった。


「馬鹿野郎、死にてえのか!」


 と、叫んだ女海賊の頭に波が降り注ぐ。

 その瞬間、セルゲイは踵ごと滑った彼女を後ろから抱きかかえた。

 一緒に操舵輪を握ると、ユラムが吠えた。


「オレが女だからって――!」


「関係ねえ!」


 また、高波が襲ってきた。二人とも濡れ鼠だ。

 セルゲイは犬よろしく首を振って顔のしずくを払うと、詰めていた息を解放した。


「お前が軽そうだから押さえててやる! それだけだ!」


 それからは、無我夢中でユラムを支えていて記憶が曖昧だ。

 急に暴れ出した真っ黒な高波に、何度死を覚悟したかわからない。

 荒波に揉まれているうちに雷撃が轟き降り注ぎ、マストの天辺を直撃した。

 その一本に入った大きな亀裂を炎の舌が舐めている。


「駄目だ! このままじゃ!」


 火のついた〈海豹女セルキィ〉号に、ユラムが目に見えて焦っている。

 何を思ったか、彼女は操舵輪から手を離し、セルゲイに首を回した。


「ここを頼めるか!」


「ハア? 無理に決まってるだろ!」


「今、あれを消せるのはオレだけなんだ!」


 まるでわがままを言う子どものように、ユラムはセルゲイの鷲鼻に向かって噛みつく。


「ううん。あたしがいく」


 と、その時、急に少女の声が聞こえて、セルゲイは身体ごと驚いた。


「アン! お前、いつの間に――!」


 彼女はしっかりと戸締まりした船尾楼の中にいるはずだった。

 それなのに一瞬で現れた。足音すら聞こえなかったのはいったいどういうわけだろう。


「けど――」


「知ってるでしょ、あたしならだいじょーぶ。ばれないって。ユラムは舵取りだよ。ド素人の男に任せてらんないじゃん?」


 嵐の中にもかかわらず、彼女はまるで飛ぶように濡れた甲板を駆けていった。

 セルゲイは顎を上げた。少し波は落ち着いている。今なら大丈夫かもしれない。


「悪い、ユラム。行ってくる!」


「だめだ、セルゲイ!」


 騎士は少女の背中を追った。

 彼女はまだ使えるロープを伝って、マストの火のついた部分を目指している。

 セルゲイが追いついて見上げた時には、彼女はすでに消火活動を終えていた。

 少女の手から生まれた水の流れが、炎を包みこみ、すっかり小さくしてしまった。

 アンは水の魔法使いだったらしい。先ほどの口ぶりからすると、ユラムもそうなのだろう。

 ホント、頼りがいのある女たちだよ。

 騎士が安堵に一息ついたその瞬間、不意に船体が大きく傾いた。


「ひゃ……!」


 か細い悲鳴が頭上からした。

 すぐに顔を上げると、バランスを崩したアンが片手でロープにぶら下がっていた。


「アン!」


 ロープごとゆらゆら揺れる少女に向かって、波は容赦なく降り注ぐ。

 だらりとぶら下がったままの彼女が手をすべらせて落ちるのは時間の問題だろう。

 セルゲイは腰とマストの付け根にそれぞれロープを結びきった。

 そして、左右に大きく揺れる彼女の下へ思い切って駆けだした。

 しかし、踵が滑ってうまく踏ん張れない。

 甲板に叩きつけられる恐れもあり、飛び降りろとも言えない。

 遠くからでもアンの手から力が抜けていくのが見て取れる。


「クソ……!」


「ちょ、ちょっと馬鹿、何やってんのよ!」


「今、助けに行く!」


 セルゲイは急ぎ靴を脱ぎ捨て、裸足で折れたマストを登った。

 船体が揺れて思うように登れない。

 手に木片か何かが刺さってちくちくと疼くが、気にしている場合ではない。

 それに波を被れば滑り落とされてしまう。

 一進一退、ようやくアンに繋がるロープにたどり着けた。

 お互いに腕を伸ばせば届きそうだ。しかし高波のせいでうまく手を繋げない。


「アン! 手を!」


「いいって、セルゲイ! あたしは平気なの!」


「諦めるなよ、馬鹿!」


 その時、一際大きな波が二人に襲いかかった。


「アン!」


 セルゲイは波にのまれ、マストから洗い流されてしまった。水も結構飲んだ。

 だが、運良く手すりに背中がぶつかって難を逃れた。

 目前では、アンがぶら下がっていたロープだけがゆらゆらと揺れている。

 間に合わなかった。助けられなかった。


「アン!」


 セルゲイは訳もわからず叫んだ。吠えた。もはや意味は無かった。


「ふぃー」


 と、すぐ傍で少女の声が聞こえた。

 波に流されたはずのアンが、セルゲイの目の前で手を差し伸べてくれていた。


「靴、履いてないと危ないよ?」


 そう言う通り、彼女の手にはセルゲイが先ほど脱ぎ捨てた靴があった。

 頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れなのに、喉はからからで声が出ない。

 アンはさきほど大波にさらわれ、海の中に飲み込まれたはずだった。

 いくら得意だとしても、泳いで戻るには早すぎる。


「な、なんで……?」


「人魚だから。……なんてね」


 アンはそう言うと、イヤリングに絡んだ髪をすっと引き抜いた。


「女の子には秘密がたくさんあるのよ」


 塗れた髪から飛び出した耳の先が、少し尖っているように見えた。


「でも、ありがと。……ちょっと嬉しかった」


 騎士がぽかんとしていると、少女のくちづけが頬に、そして雲間から光が差し込んできた。

 光は空と海とを濁らせていた雲をみるみるうちに追い払う。

 すぐに、水のちゃぷちゃぷと打ち付ける音が穏やかになった。

 世界を照らし出すまばゆい太陽が、嵐が濁らせていた色彩に鮮やかさを取り戻す。

 その中で、光そのもののように白く浮かび上がる島があった。

 日差しにいざなわれて、甲板にまばらに人が出てくる。

 その中にあって、グレイズの黒髪はもっとも目立っていた。


「着いたぞ! オパーラだ!」


 海賊船長の声に、乗組員から明るい歓声が上がった。

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薔薇の王子、幸運の翼(改訂増補版) 黒井ここあ @961_Cocoanna

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