8、勇ましき慈愛

 みな黙っていた。敗者に流れる沈黙ほど、苦いものはない。

 セルゲイは唾を大地に吐き捨てると、半ば投げやりに自分の、そしてグレイズの蔓を切った。

 そして、膝を折ったまま彼を抱きしめ、深い同情をこめてぽんぽんと背中を叩いてやった。

 王子の背中は、また丸まりつつあった。無理もない。

 あれほどの正義を見せつけたのに、悪漢の謀略に負けてしまったのだから。

 誰ともなしに立ち上がった仲間たちの間には、陰鬱な空気が流れている。


「ちょっとあんた! やっぱ裏切ってた! 前から怪しいと思ってたのよ!」


 と、アンが金切り声を上げて負傷の魔術師を容赦なく足蹴にしていた。

 サンダルのヒールが突き刺さってもなお、キールヴェクはされるがままだった。


「その辺にしとけ、な?」


 セルゲイも一緒にそうしたい気分だったが、目の前で実際にやってもらうと少し満足したので止める側に回ってやった。


「だってセルゲイ! こいつ、マジで卑怯だよ! 絶対沈めてやる!」


 アンの優しさが、目に染みた。この場の誰よりも怒りを露わにしてくれて誰かの傷心がほんの少し癒されるだろう。

 セルゲイはアンをゆるく羽交い締めにし、突っ伏したままのキールヴェクから遠ざけた。


「待て待て。沈めるにしても、今じゃない」


 女海賊の柔肌と甘い匂いを近くに感じる幸せは、この時ばかりは感じなかった。


「うん。僕も怪しいと思ってた」


 と、レイフが拳銃を拾い、埃を落としながら言う。


「本物の〈ウィスプ〉はそれだけで魔法道具だもの。それに錬金釜みたいな〈薔薇の遺物〉レリック・オブ・ローズがペローラにあるなんて、聞いたこともなかったしね。あったら〈薔薇研究ロゼコロジー〉の大発見だよ」


 などと、遍歴学生はつらつらと自説を展開していた。


 彼の主研究である〈薔薇研究ロゼコロジー〉という古魔術学に関係しているらしい。


「魔法道具か……。今ならわかる気がするよ」


 グレイズのハイバリトンはため息と同じ重たい音色をしていた。

 背中を丸めたままの王子は、アンの肩に手を置き、セルゲイの腕をゆるく解いた。

 そして、力なく横たわったまま、身体を震わせているキールヴェクにじりじりと近寄った。


「さ、キールヴェク、起きるんだ」


 そして、突っ伏して泣き濡れている魔術師に向かって屈んだ。

 そしてあろうことか、彼の肩を優しく叩いて抱き起こしてやっていた。


「お、王子様……おいら……」


「まずは話そう。ああしたのには理由があったんだろう?」


 魔術師の土まみれの顔に涙の川が流れている。


「おいら、グウェンをドラゴンから助けたくて、それで……」


「ああ。そうだな。必ず助けよう。イーリス殿、ハンカチーフをくれないか」


「お断りいたします。我が君、もうお忘れですの? 裏切り者ですのよ」


 侍女は殺気立っている。円月輪に着いた土埃を吹き飛ばしながら、準備万端というところだ。


「イーリス殿。私たちは揃って敗北者だ」


「許すものですか! ドラゴン殺しはともかく、あんな下卑た汚らしい男に、わたしたちの大切なお嬢様が奪われてしまいますのよ!」


 グレイズの青い瞳が重く濁っているのを見ても、イーリスは肩を怒らせたままだ。


「その人のせいですわ! 国王陛下に取り入って、片や海賊にドラゴン討伐を頼んで。二重スパイに違いありません! エスメラルダ島の〈金の林檎ウーラ・オルガ〉亭に、魔術師はいませんでしたわ。でもなぜかそこで話した内容を知っていた。しかも〈鯱〉野郎も。近くで聞き耳を立てていたか、あるいは……」


 イーリスに冷たい瞳で見下ろされたキールヴェクは、俯きがちに引き継いだ。


「そう。魔法を使った。花と花を蔓で繋いで、話を盗み聞きした」


「クリフォードと。そうだね?」


 グレイズが優しく問うと、キールヴェクは小さく首を振った。


「違う。デ・リキアって男だ」


「……なんだって?」


 騎士は耳を疑った。


「きゃっ」


「この期に及んで嘘を言うな!」


 セルゲイは無我夢中で、アンを放り投げるようにして、地面のキールヴェクに掴みかかった。


「嘘じゃない。最初から全部、あの人の計画だったんだよ」


 魔術師は濁った水色の瞳でぼんやりと見つめ返す。


「王様が王子様をけしかけるように進言したのも、ドラゴンを倒すためにおいらと〈鯱団〉ミョルモルキラーズと契約させたのも、全部そう。だって、あの金色のドラゴンはおいらを殺して、おいらの大事なグウィネヴィアを天界に連れて帰ろうとしてるんだ。ドラゴンを倒してくれるって言うから、おいらは協力した――」


「嘘だ。嘘だ。なあ、嘘だろ!」


 騎士は魔術師をがくがくと揺さぶった。誰も止めないのをいいことに、揺さぶり続けた。

 キールヴェクがとつとつと話した内容と彼の態度に、嘘偽りは感じられない。

 本音ばかりの人生を歩んできたセルゲイだから、それはよくわかる。

 それなのに、心が強く反発していた。

 シュタヒェル騎士団のトップとして、王国中の誰よりも正義と十戒を尊ぶべき男、それが、わざと身内に犠牲が出るような作戦を立て、海賊と繋がっていたとは信じたくなかった。

 夭逝ようせいした友たちのことを思うと、悔やんでも悔やみきれない。彼らの犠牲は最初から騎士団長の計算に入っていたのだろうか。確かにデ・リキア卿は野心家だ。とはいえ、彼のせいでどれだけの人が傷つき涙しただろう。

 許せない。世界が彼を正義と呼ぶのなら、セルゲイは悪を名乗る。


「なあ、キール……!」


 次第に視界が滲んできた。

 ぐっと我慢していたが、一つまばたきをした瞬間、涙が溢れ出した。

 止めどなく溢れる熱いしずくを、拭う気も起こらない。

 まさか、デ・リキア卿が。

 揺さぶる気力もなくし、キールヴェクを突き放す。

 膝をついたまま男泣きするセルゲイの背中に、温かい腕が回された。


「セルゲイ、友の仇は私がとる」


 グレイズだった。王子の声が直接胸から胸へと響く。


「必ずだ。そしてデ・リキア卿は私が本国にて、しかるべき罰を受けさせる。亡くなった関係者も手厚く葬ろう。約束する。キールヴェク、君もだ。自ら戦う覚悟を決めろ。だがその前に、我々は大切な妻を助けなくてはならない」


 王太子の語りかけはつとめて落ち着いていた。裏切りと敗北に最も傷ついてなお。


「さてユラム、相談がある」


 王子は騎士から腕をほどくと、壁に背中を預けていた美少年――もとい美少女に声をかけた。


「何の用だい、王子様?」


 男勝りの女海賊ユラム・ディーアは金髪を翻し、きまりの悪そうな面持ちでこちらへ来た。


「君の気が変わっていないのなら、助力を願いたい」


「オレが女だとしても?」


「それが何か?」


 立ち上がったグレイズが小首を傾げると、ユラムは青い瞳をぎゅっと見開いた。


「私は君の素晴らしいリーダーシップと、航海術を借りたいだけだよ」


 セルゲイは、ぼうっとユラムの細い顎を見上げていた。そこへアンが寄り添う。

 真実を知った今、アンがユラムの腕を抱きしめていても、なんとも思わない。

 むしろ、色彩の異なる仲睦まじい姉妹のようにさえ見える。

 それ以上に、戦いの中でみせた鮮やかな剣捌き、そしてこの敗北の中でまだ凛然としているユラムが頼もしく、美しかった。


「みんな、落ち込んでいる暇はないぞ」


 仲間の輪ができると、グレイズが全員を見回した。


「〈ウィスプ〉が無くとも、私たちは目的地がわかっている。オパーラ島だ。この島に着く前、マルティータが教えてくれたのは、オパーラで間違いないと思う。これからオパーラ島へ急ぎ出発する。〈鯱〉に先んじよう。まだ勝機はある!」


 セルゲイはぼうっとした頭で、凜然と話すグレイズを見上げていた。

 気弱で軟弱者、猫背の小心者の影などかけらもない。

 国王を肯定するようで癪だが、事実、強大な試練の度にグレイズは王の風格、片鱗を見せる。

 この美しい正義、慈愛の心を実現するために力を尽くしたい。そんな気分にさせられる。


「だ、ダメだよ王子様! 鯱野郎なんかどうでもいいけど、みんな死んじゃうわ!」


「どういうことだ?」


 アンが見るからに狼狽えるのを戸惑うグレイズへ、渋い顔のユラムが補足する。


「オパーラは幻の島なんだ。誰も行ったことがない。というのも、オパーラに行こうとすると必ず雷雲が現れて、嵐に巻き込まれてしまう。船の墓場とも悪魔の海とも言われている。それぐらい危険なんだ」


「おいらたちは、〈花の都〉カル・ナ・ブラーナって呼んでる。ワニア民族の聖地なんだ。あそこには死にに行く。そういう場所なんだ。仮に行けたとしても、あそこから生きて出るには、海の大神様に生贄を捧げなくちゃいけない」


 魔術師キールヴェクもぼそぼそと付け足す。


「おいらみたいな、神子とかを……」


「つまり、〈ビュロウ〉は無事だな。そして、ドラゴンたちも」


 グレイズが頷くと、ユラムが一歩進み出た。


「生きて帰れる保証はないんだぞ!」


「それでも行くさ。だって、マルーが迎えに来てと言ったのだから」


 王子は微笑むと、きびすを返した。


「私は行く。薔薇の咲くを、摘まれぬ前に」


 グレイズは一人、静かに去ろうとしていた。

 静謐な背中は、彼の無言の問いだった。

 そして、仲間に無理強いはしないという宣言でもあった。

 でも、こういう時はさ言ってくれよな。


「待てよ、馬鹿王子!」


 セルゲイはかさついた革の手袋で乱暴に頬を拭った。

 そして、まんざらでもない気分で、主君のまっすぐな背を追いかけた。

 そんな騎士を追ってくれる誰かの足音も聞きながら。

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