6,ペローラ、竜の首飾り
「王子様あ! 遅い、遅い。どこに行ってたんだよ。おいら心配したんだぜえ」
〈
彼の間の抜けた声が寝不足の耳に妙に引っかかる。刺さると言っても過言ではない。
「キール! お前が言うな! 一人だけ難を逃れやがって!」
ぼやけた視界の真ん中で、セルゲイが魔術師の首根っこを掴んだ。
「おいらも海賊に目ぇつけられて大変だったんだぜ? それにほら魔術道具を探すのにも苦労して。昼と夜とで露店が入れ替わるだろ? けど無くてさぁ。珍しくはないと思うんだけど」
「たわけ! マジでお前お荷物だからな!」
青筋を立てたセルゲイが追求に揺さぶっても、魔術師はへらへらと笑って、のらりくらりとするばかりだ。しかし、騎士の背後を見るなり表情を凍らせた。
グレイズとセルゲイがそのほうを見ると、海賊ユラムがこちらへ向かって颯爽と歩いてきた。
彼はグレイズの目前で立ち止まると、まばゆい笑顔で見上げてきた。
グレイズは驚いた。
ユラムが自分よりも背が低かったとは。手足が長く小顔なので、ちっとも気がつかなかった。
握手をした彼からは、目の冴えるような果物の甘く爽やかな香りがした。
「なるほどな。嘘じゃなかったってわけか」
ユラムが目を細める。
「な、何のことだ?」
どきりとした拍子に背筋がピンと伸びて、必然的にユラムから顔が遠のいた。
「お前のことだ、グレイズ。黒髪碧眼のヴァニアス人が王子を名乗るなんてありふれた話でさ。しかし、本物の王子様とはね!」
美少年は屈託なく笑うが、グレイズは引きつった笑みでしか答えられない。
肝を冷やすとはこのことだ。グレイズはまごつきながらも口を開いた。
「ユラム。君や君たち〈
王子は海賊の機嫌を損ねてしまわぬよう、言葉を慎重に選んだ。
「褒美か? 安心しろ。そもそも期待していない」
ユラムがそう言って腰に手を当てた後ろで、真っ赤なバンダナ頭のアンが頷いている。
「どこの誰であろうと、お前がクソ親父に逆らって、嫁さんを助けようと今ここにいるのは間違いない。つまり、ゆすりもたかりも端からできないもんだと思ってたぜ」
「マジかよ……」
ぼそりと、セルゲイがグレイズの気持ちを代弁してくれた。
「オレたちが欲しいのは宝じゃない。その先にある真の自由だ。高貴なお家柄ってのも不自由なもんなんだろ?」
海賊は人や遺跡から略奪を繰り返し生計を立てるものという先入観が、がらがらと音を立てて崩れてゆく。それほどに海賊ユラムは高潔な心の持ち主に思えた。
***
湿った風に嵐が予想されていたが、東北東の風が、雲を薄く引き延ばしてはちぎって遊んでいるので、雨に降られる程度だろうとアンが言った。彼女は腕のよい航海士でもあった。
彼女と一緒になって空を見上げてみると、ルジアダズの赤い女神の旗と〈
グレイズたちはユラムのガレオン船〈
ユラムの言った通り、彼を除いた乗組員全員が女だった。
筋肉自慢の女戦士がいると思いきや、特別な巨躯でもなく、どちらかといえばマルティータのように小柄で痩せっぽちの者もいる。その誰もが生き生きと働いているのにグレイズは心底驚いた。男一人でやれそうなところを女二人でというふうに、何でも工夫し協力しあってこなしている。よく見れば荷箱も〈
と、その時、背中をぱしんと叩かれた。セルゲイだ。
「ほれ、背中!」
グレイズがひりつく背中を慌ててそらせると、アハハ、と快活な笑い声が甲板中から上がる。
「俺が小姓の時は、背中に定規を入れられたんだぜ。それで一週間過ごせってよ」
「ドーガス卿に?」
「他に誰が入れるんだよ」
知人の意外な一面に、グレイズは目を丸めて小さく吹き出した。
シュタヒェル騎士団副団長にして子爵の位を持つドーガスは、いつも穏やかな微笑みを浮かべている知的な人物で、血気盛んな者が多い騎士団の中でも異彩を放っている一人だ。
目立っていたもう一人――デ・リキア卿については言わず、心にしまっておくことにした。
一年の修業期間で見知ったことだが、セルゲイはデ・リキア伯爵家の人間を尊敬している。
父王ブレンディアン五世と懇意にしている彼は、出世欲の塊で政治的にも剛腕、実はグレイズの苦手な人間だった。彼の息子――フェネトは御前試合で見たきりだったが、彼の佇まいからは底知れぬ野心がびりびりと感じられた。恐らく彼とも馬が合わないだろう。
「よし、ブリーフィング行くか!」
セルゲイがくしゃりと小気味よく笑ったその時、ちょうど彼の後ろから太陽が頭を出しはじめていた。その両方が眩しくて、グレイズはたまらず目を細めた。
当たりの強い風に負けぬよう船尾楼に入ると、海賊船長とその若い恋人、遍歴学生と侍女が海図を囲んでいた。
遍歴学生のレイフが船尾楼の中でぶつくさ何かを唱えながらノートブックを睨んでいる。
「金剛石に玻璃に瑠璃。蒼、紅、翠の珠をちりばめ繋ぎし真珠は泡沫のごとし。遥けき天より落ちにし竜、海原の抱きし宝に悦喜して、瑠璃の褥、輝く黄金(こがね)に
彼も彼で、誘うまでもなく、この冒険にメリットを感じてついてきてくれた。
曰く、今度は伝記を書いてみたいから、だそうだ。
「歴史もの、一度は書いて見たかったんだよ。でもロフケシアは永世中立を誇っちゃったから、そんなにドラマティックなことは起こらないしさ。ああ、すごい。僕たちは今歴史の中に生きている! しかもドラゴンと一緒!」
論文のことはもういいのだろうか。
グレイズは小首を傾げながらも、彼の知恵を借りられる恩恵に与かることにした。
「それぞれ、サフィーラ、ディアマンテ、クリスタリーン、ラジュール、リュビム、エスメラルダ。それから二つのペロ。語られてないのは、トルパツィオとオパーラ。ディアマンテはヴァニアス島、他はペローラ諸島の……」
レイフが背中を丸めていても咎められないのは、少し理不尽だとグレイズは思った。
しかし、指差す彼の手が地図を丸くかたどった面白さに、不満も飛んで行く。
宝石の名が冠せられた島々が円を描くさまは、まるで巨大な首飾りのようだ。
自然の島々を宝玉とする首飾りを身につけられるのは、海の大神か、それを見下ろし喜ぶのは天界の竜王か。いずれかはわからないが、心が躍るものだった。
「トルパツィオは抜けているけど、もう発掘されたあとなんだっけか。だからアンプラ=ペロとオパーラのどっちか、あるいはどちらも……」
誰にいうでもないレイフの独り言を、アンだけは真面目に聞いていた。
ふうん、と地図台の上で頬杖をついた彼女が鼻を鳴らす。
「あんたが一番役に立つかも。アンプラ=ペロなら、あたしたちが唾つけてるから、安心して行けるよ。ね、ユラム?」
ユラムはデスクチェアの上でふんぞり返って芥子色の前髪の毛先を弄んでいる。
「ああ。オパーラに行かずに済むなら、それに越したことはないからな」
「そんなに遠いのか?」
グレイズは顎を上げて尋ねた。実は俯いて文字を読んでいるのに疲れて少し酔ったのだ。
ユラムが頷く。
「そんなところだ。それこそ、女だけでは行けないだろうな」
「あら、船長さんが弱音を吐いたら乗組員に影響があるんじゃなくて?」
侍女イーリスと海賊船長はそれぞれに眉を上げた。
「オレも無謀は嫌いなんだよ、お嬢さん」
***
エスメラルダからまっすぐ北西、ファーラシュ海の真ん中をまるで直線を引くように進み、〈
ユラムの風と波の読みは確実で、素人の航海とは一線を画していた。さすが海の民といったところか。セルゲイがその血に風の力を宿しているのに対して、ユラムは水に通じているかのようだった。技術か魔法か、いずれにしても彼の〈ギフト〉に違いない。
着港の支度で甲板が大わらわになっている時、船尾楼のグレイズは胸元に温かさを感じた。
上陸への期待に胸が高鳴っているのだと思ったが、だんだんと熱くなってゆく。
不思議に思いながら胸元に手を当てると、熱は丸い形をしていた。
急いでペンダントを取り出してみて、グレイズは腰を抜かしてしまった。
もしも今甲板にいたら、働く女たちの邪魔になっていただろう。
「我が君、どうなさいましたか!」
イーリスが駆け寄って助けてくれるが、動転するあまり、グレイズはセルゲイの姿を探してしまった。騎士はその腕っ節の強さを買われて、女たちに力仕事を任されていると知っているのに。キールヴェクも、その身に宿る土の魔法で〈海豹女(セルキィ)〉号の修繕に手を貸しているらしい。
「ああ……!」
侍女も温かい光を放つ〈ウィスプ〉を見て、膝をついてしまった。涙さえ浮かべている。
「お嬢様……!」
いつもは持ち主の顔を映す金の鏡のなかに、愛しい少女の相貌が映り込んでいた。
「グレ……」
しかも、声らしきものも聞こえる。
「マルー! マルーなんだね! 今、どこにいるんだい?」
グレイズは必死に話しかけた。
しかし、答えは不透明で、何かを語りかけてくれていることしかわからない。
「……ンプラ……ロの……ウ〉はす…………まし…………鉢合わせ…………パーラで……しょ……たく……ちは先……」
耳を近づけて澄ますけれど、進む船と乗組員たちのかけ声にかき消されてしまう。
しばらくそうしているうちに、気づけばマルティータの姿は消えていた。
代わりにグレイズとイーリスの顔が映り込む。
あんなに温かかった〈ウィスプ〉も、突き放すようにひんやりと冷えている。
彼女そのものを失ったような重たい気分でいると、三つ編みの乗組員が駆け込んできた。
「お頭! お頭はいるかい? パンメルが!」
***
〈
船尾楼にやってきたパンメルと呼ばれた彼女は〈
アンプラ=ペロ島に水先案内人として潜んでいることを、グレイズは話の流れから察した。
パンメルはブロンズの豊かな髪と海色の瞳をした、少女とも呼べそうな若い女だった。
セルゲイも戻ってきている。だが、彼女を見てからは、にわかに様子が変わった。
「よかった、間に合って。お頭、気をつけて! 今、アンプラ=ペロ島には
彼女が口にしたのは
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