3、人魚の酒場
結局、セルゲイたちがいくら待っても、魔術師キールヴェクは姿を現さなかった。
彼もヴァニアス国王に振り回された一人かと思って同情していた部分もあったのだが、ここまでちゃらんぽらんだとうさんくさい印象は拭えない。
最後まで魔術師のことを気にしていたグレイズを説き伏せてセルゲイたちは〈
塩と香辛料が惜しげも無く使われた魚料理は、鮮度も味もよく、ずらりと揃えられた各国のエールもおいしかった。
なかでも騎士が嬉しかったのは、弾けそうな身体を少ない布で申し訳程度に隠したウエイトレスたちだ。彼女たちの、お揃いの人魚の刺青が見え隠れする胸元はふっくらと豊満で、腰回りはぴっちりと、裾はひらりとしたスカートをさばく足は健康そうで実になまめかしい。
さざ波のようなスカートが尾びれのようで、まるで人魚の酒場に来た錯覚さえ覚える。
遍歴学生レイフが根城にしたのも頷ける。
もしかしたらと淡い期待を胸に店のリュートを借りて二、三曲歌ってみたが、ちょうど温まったところでグレイズが船を漕ぎだしたので、パブには長くいられなくなってしまった。
極力無視していたのだが、侍女イーリスにねめつけられては無視できない。
ちなみに、先ほどから彼女のつま先は、雄弁にセルゲイを罵っていた。
はしたない視線をやるな。鼻の下を伸ばすな。あなたの仕事を果たせ。
こう、何度も無言の注意を受けていると、逆にイーリスに好かれている気がしてくる。
高貴な彼女のお眼鏡にはかないっこないだろうけれども、慕うのはこちらの勝手だろう。
「よっし、グレイズ。立てるか。ベッドに行くぞ」
彼はしかたなく、グレイズに肩を貸した。
おねむの王子は、寝ぼけ眼を精一杯しばたたかせて騎士を認めたが、首がかっくりと落ちた。
「しかたねえな」
本当は、酔った流れに任せてウエイトレスたちの胸元に顔を、太股に指をうずめてやろうとこっそり画策していたのだが、ここは我慢せざるを得ない。王子のお守りさえなければなあ。
「いいね、そのタトゥー」
セルゲイが名残り惜しみつつ振り返ると、レイフがウエイトレスのふっくらと盛り上がった胸元に人差し指を立てていた。学者でも口説くことがあるらしい。
「ああ、これ? これはね、
若く溌剌とした彼女の丸い輪郭は胸元同様弾けそうで、ほとんど少女ともいえる。
それをミルクティー色のたっぷりとしたソバージュが包み込んでいる。
「ふうん。人魚じゃないのか」
「あんた、ホントにガイジン? 常連はあたしたちのこと、人魚って呼ぶのよ」
「ふさわしい称賛だ。太古の昔から、母なる女は海からくるもの。一夜の逢瀬は泡沫の夢」
「そ。イイ夢みせてあげてんの!」
自由人への羨ましさに一瞬むかっとした。
しかもレイフは事もあろうにウエイトレスのくっきりとした谷間をまじまじ覗き込んでいる。
が、よくよく見れば、彼は万年筆を手にノートと彼女の胸元を交互に見ては乳房に刻まれた刺青を写し取っている。
ウエイトレスのほうも、決して触れてこないレイフに、身振り手振りをしながら何かを説明しているらしかった。
絶対、あとで話しかける。セルゲイはひとり心に固く誓うと、グレイズを立たせた。
***
三階に上がると、パブの騒がしさが少し遠のいた。
ゲスト用のフロアにはいくつか部屋があった。
「静かで清潔なお部屋はどちらかしら」
イーリスと共に扉をそっと開けて覗いてみると、雑魚寝が当たり前と聞いていた通りまるで物置のようにベッドがぎゅうぎゅうに押し込まれているだけだった。
一つ目の部屋では、赤ら顔の老人が大きないびきを立てていた。
次に、と手を掛けようとした二つ目の部屋からは、何やらくぐもった声が聞こえた。男女が呻きを交わしあう、あの艶っぽい声だ。少しそそられたがその扉は開けずにおいた。
三つ目の扉をおそるおそる開くと、幸いにも無人だった。
「まだ……」
「何が、まだ、だ。とっくに半分寝てるだろうが」
セルゲイは、隣室の壁からうっすらと聞こえる嬌声を努めて無視しながら、グレイズを一番清潔そうなベッドに押し込んだ。
王子は当初遠慮していたものの掛け布団の重みに安心したのか、すぐにすうすうと穏やかな寝息をたてはじめた。寝酒など必要がないほどの寝付きのよさである。
「ふふ」
イーリスだ。柔らかな微笑みを湛える彼女の手元には、おもむろに円月輪が用意されていた。
何時いかなる時も油断を見せない。公女の侍女が武芸にも長けているというのは本当らしい。
「アルバトロス卿。見張りは交代で」
「そうですね。いや、しかし――」
ここは男の見せ所だろう。
壁の向こう、隣の部屋で高まる喘ぎ声をかき消すように、咳払いをした。
「イーリス殿もさぞお疲れでしょう。よければ肩をお揉みしま――!」
「結構です」
セルゲイがイーリスの肩に手を伸ばした手は、あっけなくはたき落とされた。
「ですが、ご好意には甘えさせていただきますわね」
彼女は生真面目な表情で言うと、先にベッドに横たわった。
利発な侍女のこと、物事を建設的に捉えてくれたに違いない。セルゲイの意図は半分成功だ。
間もなくレイフもやってきたので、見張りに出た。
彼を寝室に入れると、騎士はそっと扉を閉めて、扉の隣に腰を下ろして壁に背中を預けた。
ランプのちりちりと燃える近くの音、階下の喧噪、心地よい薄暗さ。
雑音に身を任せていると瞼が、次いで頭が重たくなってきた。
うとうとと船を漕ぐ自覚をもちながら睡魔と戦っていると微かに女の声が聞こえた気がした。
ささやきに耳を澄ますと、次第に子音がくっきりとしてきた。
「片脚の男に気をつけよ」
暖かく凜然としたアルトが神子姫ミゼリア・ミュデリアの声だと、反射的に理解した。
夢か、それともスィエルの啓示だろうか。
それは、神子姫の短い面会で的確に言われた、数少ない指示の一つだった。
セルゲイが意識の海の奥底に深く潜ろうとした、その時だった。
突然、息苦しさに襲われた。吐くことも吸うこともできない。
首に巻き付けられた分厚い何かを引き剥がそうとしているうちにセルゲイの身体が宙に持ち上げられた。
痛みと苦しさに耐えながら目をむいて相手を確かめると、目前に汚らしい四角い顔があった。
騎士を拘束する太い腕に魚の刺青があって確信した。
昼間、レイフを襲っていた海賊の男だ。
「手間かけさせやがって」
海賊の背後で数人の手下たちが部屋に入っていく。止められない。
壁に背中を叩きつけられたセルゲイは抵抗のチャンスを得た。
両足をじたばたする反動を使い体重を背中に乗せて、海賊の四角い顎を思い切り蹴り上げる。
足に鈍い衝撃と、耳に海賊の呻き声。成功だ。
セルゲイは素早く受け身をとって室内へ転がり込んだ。
「グレイズ! イーリス殿!」
鋭い金属音が響いている。中ではすでに侍女が応戦しているらしい。
何人かは先ほどから床上で伸びていた。拍手を送りたいところだったが、そんな余裕はない。
「ひゃあ!」
扉の、セルゲイからもっとも近いところで、レイフがちびの海賊に襲われていた。
「頭守っとけ!」
騎士は敵の脳天に、剣を鞘ごと叩きつけた。濁った呻きに、確かな手応えを感じる。
そいつを床に転がすと、もう一人が床にうつ伏せで倒れているのに気づいた。
「グレイズ!」
セルゲイは、ぞっとしながら主を抱き起こした。
服の胸元が破れている。それはちょうど心臓の真上だった。
「嘘だろ……」
にわかに震え出した両手で彼の身体をまさぐる。
まだ暖かい。そして、濡れた感触は無い。
「まさか……!」
セルゲイは突然芽生えた希望にはっとして、王子の胸元に手を突っ込んだ。
堅く平たいものがすぐに手に当たったので取り出す。
それは虹色の光を放ちながら、セルゲイの安堵に緩んだ情けない顔を映し出した。
グレイズを守ったもの――〈ウィスプ〉には、傷一つついていなかった。
ほっとするのも束の間、光る手鏡の中で騎士の背後に黒い影がぬっと現れた。
振り向きざまに剣を横にしてかざすと、そこへめがけて酒瓶が振り落とされた。
飛び散る硝子の破片から片目を閉じて守る。
その隙に筋肉男の拳が襲いかかろうとしたところで、なぜか彼は一瞬ひるんだ。
「アルバトロス卿! 殿下を!」
からん、という微かな金属音ののちに女の鋭い声が飛んできた。
イーリスだ。彼女の得意な飛び道具が、男に命中したらしい。
なんという目の良さだろう。
と、感心する暇も返事をする時間も惜しい。
セルゲイは素早く長身痩躯の王子を担いで部屋の外に出した。
このときばかりは、彼の軽さがありがたかった。
「セルゲイ、こっち、こっち!」
扉の裏に逃げていたレイフを見つけた。
「生きてるな!」
「そっちもね! 僕のことはもう大丈夫」
「じゃあ、グレイズのこと、頼むな」
「それは重たい案件だなぁ。でも、頑張るしかないね」
珍しい拳銃を手にしている彼は何度も頷きながら、ロープを手渡してきた。
「使えそう?」
「使える」
セルゲイはひとつニヤリとして、室内に戻ると、すぐさまロープに輪を作った。
そして、イーリスを部屋の角に追い詰めている大男の頭めがけて輪を投げた。
ぐっと強く引くと、手応えがあった。男の姿勢が崩れる。
「今のうちに!」
侍女がさっと身を屈めて大男の股下をくぐった。
それを見届けるとセルゲイは扉にくくりつけたロープの端を放り投げて、代わりに彼女の手を引いた。
レイフが、うっすらと意識を取り戻したグレイズに肩を貸しながらゆっくり進んでいる。
二人を手伝いながら全員で階下のパブに降りると、そこもまた小さな戦場になっていた。
あの魅力的なウエイトレスたちもペティナイフを手に妙にこなれた手つきで応戦している。
そんな混乱の中にあってたった一人、カウンターでしっぽりとゴブレットの酒をなめる人物がいた。
ひとまとめにした長い金髪が垂れているその細い背中に向かって海賊が襲いかかろうとした。
「お前ら、
その声音は張り詰めていたけれども、どすが利いていた。
とても若い男だ。たった一声で騒然としていたあたりが静まりかえるほどの威厳があった。
海賊の一撃を銀色のゴブレットで受け止めた彼は、その長い足で腹に蹴りを食らわせながら立ち上がった。
「ここがオレ、〈
と、男が胸を張った瞬間パブの空気が、がらりと変わった。
「〈
海賊たちは見るからに顔を引きつらせて、我先にと尻尾を巻いて逃げだした。
階上でセルゲイたちを襲った大男も、首にロープを引っかけたままゆらりと降りてきた。
「けっ。興ざめだ」
そして唾と捨て台詞を吐き捨ててパブを出て行った。
「じゃあな、鯱野郎」
突然訪れた静寂にセルゲイたちが唖然としていると、ユラムと名乗った少年は、長い前髪を耳にかけて顎をしゃくった。
すると、ウエイトレスたちが誰とはなしに三階へ登っていった。
彼女たちは、伸びていた海賊を遠慮無く引きずって、容赦なく店の外に放り投げた。
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