2、エスメラルダの遍歴学生

白羊の月ラーム〉十五日。

 グレイズは、太陽が顔を見せる前に従者たちに起こされて、夜明け前の白んだ空の下、トルパツィオ島を出発した。

 今日は風だけでなく波も味方してくれていて、ヨットが信じられない速さで進む。

 加護を授ける風の精霊ヴィンドゥールが、あるいは白波を漕ぐ水の精霊ヴァトゥンが見えるのでは、と後方を振り返ってみたほどだ。しかし、風はどこまでも透明で、水はどこまでも青かった。気を許した者にしか姿を見せないのかもしれない。


「きっと暖流に乗れたんだ!」


〈赤き薔薇〉タ・ロゼ・ダラク号の舵手セルゲイが歓声を上げ、振り返りざまに楽しそうに叫ぶ。

 彼の頭上でウミネコもやいのやいのと競いあうように鳴き、天日にさらされた甲板に小さな影を作っては去って行く。

 ファーラシュ海の南、ヒンツィア海から北上してくる暖流については昨晩島民から教わった。

 つい癖で地図で確認したくなるが、それはトランクにしまっていた。しかし、荷物を開けば最後、トランクごと全てが飛んでいってしまうだろう。それほどにヨットは勢いづいていた。

 潮風を顔面にまともに食らって息がしにくいし、風と波を切る轟音で耳がいっぱいだ。

 振り返れば、キールヴェクのフードは脱げて、彼の泥色の髪がぐしゃぐしゃになっているし、イーリスのヘアピンが外れて彼女の美しい髪がビロードの旗のようにたなびいている。

 グレイズをはじめ、船旅でほとんど使い物にならない乗組員三名は、船体にしがみつくので精一杯だった。目的地に着くまで、握力が持つかいささか不安になる。

 本来ならば、航行には星の読める航海士や水先案内人がいてしかるべきだったが、ペローラ諸島は隣り合う島々が見えているので、外部から来たセルゲイでも迷わず運航できている。

 先日の夕餉の場で見えている島へは泳いで行ける、と豪語した若者がいたのには驚かされた。

 あまりにも暇なときには、そうした遠泳をするのだという。

 真偽は定かでは無いが彼らがグレイズよりも泳ぎがずっと得意なのは間違いなさそうだった。

 話だけでなく、実際に見せてもらえたらもっと楽しかろうに。

 グレイズは、背後ですっかり小さくなったトルパツィオ島と、親切な人々を名残り惜しんだ。


***


 ほどなくして、潮風に全身を洗われていた、グレイズたちはエスメラルダ島へ到着した。

 勢いがつきすぎて舳先が波止場に激突してしまわないか心配だったが、そこは大丈夫だった。

 セルゲイが大気に向かって口笛を吹き、感謝と願いを念じ告げると、風は甘やかに緩んだ。

 すぐに聴きとめてくれたらしい。

 いなせな騎士の真似をしてグレイズもくちびるを尖らせてみたが、そもそも口笛が吹けなかった。あまりの出来なさに腹の底から笑えて来た。今度、時間があれば教わろう。

 ゆったりと浅瀬を進みつつ、突き出している無数の波止場に迷っていると、小型のボートがふらりと現れた。グレイズが警戒に身体を縮こまらせると、セルゲイが顎をしゃくった。


「水先案内人だ」


 騎士がそう言うとすぐに、小舟にただひとりの船頭――麦わら帽子の小柄な男が日に焼けて真っ黒の腕を振った。


「こっちは商船なんだわ。ジグザグ迂回して北のほうにまわっとくれ。そっちのが空いてる」


 あっけらかんとした男の声に、セルゲイが頷く。


「グレイズ、頼む」


「何を?」


「チップ」


 王子は理解した速さのまま頷くと、船から手が離せない騎士に代わって、水先船を横付けしている男に金貨一枚をしっかり手渡しした。


「どれどれ」


 男は金貨を日にかざし品定めをしていたと思いきや、突然顎を下げた。


「ヴァニアスのダブルローズ金貨!」


「足りるか?」


 グレイズは生唾を飲み込んだ。


「余る、いや、身に余るぐらいだ! 息子に見せてやるとするよ!」


 水先案内人は金貨を懐に丁寧にしまうと、ほくほくの笑顔で先導をしはじめた。


***


 エスメラルダ島は、これまでのペローラの島々と違い、街を城壁で囲っていた。

 ブロシャデイラという名の街の外は、緑がそのまま保全されているらしい。

 護岸するように作られた波止場は石造りで、石畳は街の中へと続いている。

 グレイズの踵が堅い音を立てるのは、久しぶりの感触に驚いているかのようだ。

 緊張に固まっていた腕や首、身体をゆっくりほぐしていると胸元からペンダントが出てきた。慌てて首紐をたぐり寄せるとぼさぼさ頭の魔術師キールヴェクが急に胸元を覗き込んできた。


「それ、それ!」


 彼の髪は汚らしく絡み合い、老人の白髪のように黄色く濁っていて、かなり臭った。

 鼻を刺す悪臭を忘れられていたのは、爽やかな潮風のお陰だろう。


「〈ウィスプ〉じゃないか! おいらのも見る?」


 キールヴェクは満面の笑みで懐から光る丸い物を取り出した。

 それはグレイズのものと異なり、薄紫色をしていた。

 聖都ピュハルタに鈴なりになっているウィスティリアの天蓋を彷彿とさせる上品な色あいだ。


「ペローラの人間ならば誰でも持っているというのは、本当なのだな」


「ん? ああ、そうだね。みんなはニセモノを持ってるけど」


 魔術師の笑顔、歯垢に黄ばむ歯列も強烈に臭う。

 悪臭に滲む涙をこらえながら、グレイズは小さく訝った。

 しかしみんなが持っているならばなぜ、老人はグレイズに忠告したのだろう。

 王子が首をひねっている手前で自分の〈ウィスプ〉を大切そうにしまった魔術師がほくほくと喋っている。


「それ、金色で珍しいね。もしかして本物? あのドラゴンから王子様が剥がしたのかい? やるなあ! さすがおいらの見込んだお方だ!」


「いや、これは――」


 グレイズが経緯を説明する前に、魔術師はひとつニヤリとした。


「それさえあれば、ドラゴンの行き先なんかすぐにわかるのに」


「本当か?」


 食いつくグレイズに、キールヴェクは満足げに頷いた。


「そう。おいらが薬にすれば! だからそれ、頂戴!」


 伸びてきた魔術師の手から、グレイズは無意識に逃げた。


「お姫様の行き先、知りたくないのかい?」


 キールヴェクの瞳が、一瞬ぎらついた。

 どきりとした拍子に警戒が強まった。これまで鳴りをひそめていた男が突然積極的になると、急に不審に見えてくるから不思議だ。以前のグレイズならば、友情を見出して気を許していたかもしれない。


「これは、マルーがくれたものだ。だから――」


「我が君」


 グレイズが直感に従い断ろうとした時、イーリスが身体を割り入れてきた。


「お話のところ失礼いたします」


 正直、助かったと思った。


「か、構わないよ」


 彼女のほうはというと、鏡もないのに潮風にほどかれた髪をきっちりと結わえ直していた。


「今晩の宿と食事とを確保したく。しばしの別行動をお許しください」


 穏やかな目元が実の姉のように頼もしく見える。恋人マルティータが慕うのももっともだ。


「構わないよ。しかし、君一人で大丈夫かい? セルゲイをつけようか」


「お心遣いに感謝します。けれど武芸でしたら、あなた様よりはキャリアがありますわ」


 イーリスは目を細め軽く膝を折ると、ウインクを残し、ブロシャデイラ市街の人波へ紛れていった。侍女の美しい後ろ姿を追うかのように、魔術師が一歩踏み出す。


「王子様。おいらの話、憶えておいて。じゃ」


「お前、キール! どこ行くんだよ!」


 と、グレイズの背後から知った男の声がした。セルゲイだ。


「錬金釜を探しに行く」


「んなもんヨットに載らねえよ!」


「じゃあ、魔術書! また明日ヨットでね!」


 杖以外はほとんど着の身着のままのキールヴェクが遠ざかり、彼も人混みに紛れた。

 浮浪者や遍歴学生とは、彼のような姿をしているのだろう。

 実際に会ったことはなく、いずれもグレイズにとって本や新聞で読んだ文字だけの存在だ。


「あいつ、いつでもどこでもちゃらんぽらんだな」


 ぼんやりと考えるグレイズの隣で、セルゲイは景気よく関節を鳴らしながら身体をほぐしていた。あまりに豪快すぎるのでそのままぽっきりと折れてしまわないか不安になる。


「キールの奴、本当に嫁さんのこと考えてんのかな」


 そうだ。グレイズは思い出した。キールヴェクもまた、妻をドラゴンにさらわれた男である。

 グウィネヴィアという典雅な名の彼女はしかも身重なのだそうだ。

 彼については、心配がすぎて、気がふれてしまったと言われたほうが納得できる。


「わからない。しかしこれが――〈ウィスプ〉があれば、いつかドラゴンの元にたどり着けるらしい」


「ふうん」


 グレイズは〈ウィスプ〉を撫でると、丁寧に懐へしまいこんだ。


***


 ペローラ諸島で三本の指に入る大きな街という聞こえの通り、ブロシャデイラの街は様々な人間で犇めいていた。行き交う人々の肌、瞳、装いの色、纏う香り、どれをとっても同じものはない。物珍しさに足が止まる、止まる。浅黒い肌の上に乗った太い眉とぎょろりとした両目がくっつきそうなほど近い、ヴァニアス人に比べると四角い顔立ちをしているのが現地の人々なのだろう。グレイズは、彼らの黒々とした髪に親近感を覚えた。

 家々の瓦は明るいオレンジ色をしていて、その下の窓からは物干し竿が隣の建物まで続いている。無数に張られた物干し竿にはもちろん洗い物が干されていて、風が吹くたびにはためく。

 大通りには、露天が立ち並び、香水瓶やカトラリーなどの細かいものから、手織りの絨毯のような大きなものまで並べられている。

 まるでおもちゃ箱のように色とりどりで雑多な様子は、聖都ピュハルタの直線的で白く生真面目な印象とは正反対だ。

 つんと鼻をつく匂いに覚えがあって路地裏を覗きみると、何かの煙が充満していてむせた。咳き込みついでにしゃがみこむと、原因がわかった。日陰にラグを敷いてたむろした人々が水たばこに興じていたのだ。寝起きのようなどろりとした視線を一身に浴びたグレイズが、たまらず退散すると、後ろに控えていたセルゲイに涙を流して笑われた。

 その中に時折、小柄で赤毛の娘を見かけると自然と目で追ってしまった。だが、ことごとくはずれで、色が似ているだけだった。

 マルーは、ここにいない。そう自分に言い聞かせることで、より一層切なくなった。

 いや、まだそうと決まったわけでは。グレイズはこぶしを握り締めた。

 何処にいても迎えに来てくれと言われた。彼女の願いを叶え、再びこの腕に抱きたい。

 きょろきょろしていると、何度も人にぶつかりそうになり、そのたびにセルゲイに腕を引っ張られた。


「すまな……」


 セルゲイの眉が一瞬で寄ったのを認めたグレイズは、詫びの言葉を寸前で飲み込んだ。


「……ありがとう」


 騎士は誇らしげに口の端を持ち上げてくれた。


「いいってことよ」


 確かに、謝るよりはずっと気分がいいものだと、グレイズは思った。

 しかも、言った自分の心がほわりと温まる。なんとも不思議な感覚だ。


「んう、おほん」


 と、セルゲイが急に、わざとらしい咳払いをした。


「ちゃあんと、ン前を見て、ンお歩きになってください。殿下」


 声が鼻に掛かった、抑揚が甚だしい喋りは、とある大臣の真似だった。

 しかも、セルゲイはさらに誇張して、けだるげな表情までも真似して見せてきた。

 それがおかしくておかしくて、王子はたまらず吹き出した。


「それぐらいできる!」


 二人が腹を震わせた声は、ブロシャデイラの喧噪によく馴染んだ。


***


 酸っぱくてしょっぱく、甘くて辛い不思議な味の赤いソースがかかった、平たく水気の無いパンのようなもので軽く腹を満たしてから、二人はようやく聞き取り調査を始めた。

 そのはずだったが、商売人を中心に十数人に訪ね歩いたところで、二人ともどちらともなくバザールの端、地べたへ腰を下ろした。

 はしたなさに良心が咎めたけれど、あちらこちらで見受けられる光景なので、グレイズもそれに倣った。そこは商人のテントで日陰ができていて、涼しい。


「げぇーっぷ」


 瓶入りの炭酸水をあおったセルゲイが、わざとらしくおくびを出した。

 これには反射的に顔をしかめてしまった。


「止めたまえ」


「ゲップの一つで済むなら安いだろ! なんだよ。揃いも揃って無視しやがって!」


 続けてもうひとつ、大きなおくびが鳴る。


「無視ではない。はぐらかされたんだ」


「どっちでも同じだよ!」


 セルゲイは両脚を放り投げた。

 ふてくされる彼の気持ちもわかる。

 ブロシャデイラの人間がよそ者をとことん冷遇するならば、それも致し方なしとまだ割り切れたものだ。しかし話しかけた商売人たちは、ペローラ人だろうとディアマンテ人――グレイズたちヴァニアスの人々を彼らはそう呼んだ――だろうと金さえ払えば商品を売ってくれる、とても気風のよい人間たちなのだ。

 ではと、その流れでドラゴンのことを訪ねると、途端に笑顔を凍らせて同じことを言う。


「『知りませんねえ。お伽話でしょう』だとよ!」


 サイダーを最後の一滴まで舐めて飲み干したセルゲイは自分の両脚を使って頬杖をついた。


「サフィーラやトルパツィオと違って、この街の人々は信心深くはないのだろう」


 グレイズがやんわりとかばおうとも、騎士は口を曲げたままだ。


「でも、あんな巨大なもんが飛んでたら、さすがに気づくって!」


「眠っていたのかも」


「こんな繁華街だぞ?」


「皆、夜には眠るだろう?」


「あのなぁ……」


 きょとんと首を傾けたグレイズの顔をセルゲイが怪訝そうに睨んできた。

 心当たりが無いので、ただただ見つめ返していると、そのうち騎士は大きなため息をついて空を仰いだ。


「きゃあ!」


 と、その時、女の悲鳴が上がった。

 二人が腰掛けているところからほど近い建物の扉が乱暴に開け放たれた。

 すぐにセルゲイが庇ってくれた背後から覗き込むと、扉の奥から、男同士が何やら言い合いながら出てくるのが見えた。


「お前か、ドラゴンを見たって奴は?」


 逞しすぎるあまり、シルエットが四角く見える中年の男が、灰色の髪の痩せぎすな男の首根っこを掴んでいる。彼の腕には刺青が重なっていて、女の顔だか魚だか、もはや何の模様がえがかれているのかわからない。体つきと同じく四角い顔は真っ赤で深酒が窺えた。


「言え! ドラゴンはどこだ!」


「わわわ。どうどう」


 赤ら顔の大男が、ものすごい剣幕で痩せた白髪の男に詰め寄っている。

 グレイズはたまらず身体をすくませた。


「セルゲイ!」


「ああ」


 グレイズの声に、騎士は鋭く頷いた。しかし彼は動かない。機会を窺っているのだ。

 ゴーグルを頭に載せた痩せっぽちの男は、激しい追求にもへらへらしている。


「だから、見てはいないって。探してる。あんたはどう?」


 灰色の髪をした彼の声が若くて、グレイズは驚いた。

 その髪の色から、てっきり壮年か老人かと思っていたからだ。


「お前、ヴァン語がわかんねえのか! ドラゴンはどこにいるって聞いてんだ!」


「いるとすれば、この島の〈ビュロウ〉じゃない?」


「とぼけるな!」


 灰色の青年は、圧倒的な体格差のある相手にまったくひるまなければ、筋肉男の唾が顔面にかかってさえ動じない。ものすごい胆力である。

 グレイズにはとても無理だ。ハラハラしながら見守ることしかできない。


「とぼけて何になるのさ。そっちこそ〈ビュロウ〉が何でどこにあるのかも知らないでドラゴンを探しているのかい? じゃあ用無しだなぁ」


 世間知らずを自負するグレイズでも、これはさすがに煽りすぎだと思った。


「さっきから訳のわからないことを! 言いたくさせてやる……!」


 全身の筋肉に血管を浮かせた男は言葉ではなく自らの拳を大きく振りかぶろうとした。


「うおっ!」


 すると突然、筋肉男がぐらりとバランスを崩してその場に尻餅をついた。

 グレイズが、一人で勝手に転んだ男に呆気にとられていると、王子の耳にカランと涼しい音が聞こえた。見れば道に、サイダーの瓶が転がっている。


「おい!」


 グレイズが感心した傍から、セルゲイが青年の灰色のお下げを引っ張った。


「行くぞ、グレイズ! お前もこっちこい!」


 セルゲイに腕をとられたグレイズも一緒になって、筋肉男と彼の罵声から遠ざかるために駆けだした。


***


 まんまと逃げおおせた三人は、青年が泊まっているパブ兼旅宿の〈金の林檎(ウーラ・オルガ)〉亭に転がり込んでいた。昼営業が終わった休み時間には鍵を持っている人間が裏口からしか入れないのだという。薄暗いパブの半地下で、飲み物を少しずつもらった代わりに、カウンターにチップを置いて机を囲んだ。


「助かったー! ありがとう! 僕はレイフ」


 と、青年は底抜けに明るく笑った。


「レイフ・ヴィータサロ。ここから東のヴァニアス王国をさらに越えた先にある、ロフケシア王国から来た。いわゆる、遍歴学生さ」


「そんなに遠くからなぜ――?」


 グレイズが口を開くよりも、レイフが続けるのが早かった。


「いやあ、研究費が底を尽きて! そろそろ論文のひとつも書かないと、図書館を追い出されちゃうからさ!」


 彼はゴーグルをひと思いに首まで落とし髪と同じ灰色の瞳でグレイズとセルゲイを直視した。

 溌剌としていて若い印象だが、くっきりと見える笑い皺と澄んだ瞳は彼の人懐こさと気立てのよさを感じさせる。十とは行かぬまでも、おそらく年上に違いなかった。


「俺はセルゲイ。こっちはグレイズ」


「どもねー。どもども」


 三人はそれぞれまっすぐに目を合わせながら、ぎゅっと音が鳴るほどしっかりと握手を交わしあった。


「それで、二人もドラゴンを探してるわけ。奇遇だなぁ。でも調査は難航した。そうだろ?」


 レイフはそう言いながら、鞄の中から分厚いノートブックを取り出した。

 どん、と置かれた拍子に、一瞬机が傾いたので、グレイズは飲み物の瓶を慌てて掴んだ。


「なぜ、わかるんだ?」


「わかるさ」


 グレイズがたまらず食いつくと、レイフは顎をそびやかした。


「僕も苦労してるから。きっと、箝口令かんこうれいがしかれてるんだ」


「その根拠は?」


「いいねえ、グレイズ。君も遍歴学生? 素質あるよ」


 畳みかけるように問うのは本来失礼なことだ。

 それなのにレイフは、瞳を愉快そうに丸めて顔と声を明るくした。


「結論はもう言った。論証をしよう。ここペローラ諸島には、ドラゴンの伝説がたくさんある。僕は〈ビュロウ〉――ドラゴンの巣があるか、そしてまだ機能しているかどうかを調べに来たのさ。ほとんど趣味のようなものだよ。けどまさか、このタイミングで本物の噂を聞くなんて思わなかったなあ! 僕も君たちと同じく、地道に聞き取り調査を始めようとした。けど商人もだめ、住民もだめ、船乗りもだめ。そこで僕は、ドラゴンについて語れば厄災――悪いことが起こると信じた住民たちが自発的に箝口令をしいたんじゃないか、という仮説を立てた」


 ノートを開いたレイフは、次々に単語を指さしながら流暢に説明してくれる。


「悪いことその一。信仰的な厄災だ。名を口にすれば召喚すると信じる人もいるからね。悪いことその二。人為的な厄災だ。これは実験をすれば妥当性がすぐわかるだろうと思った」


「だから、あの酒場でわざとドラゴンの話を?」


 理解したグレイズが口を挟み、追いついていないセルゲイの瞳がぱちくりとまたたいた。


「正解」


 レイフが小気味よく指を鳴らし肯定してくれたので、グレイズは少し嬉しくなった。


「誰かに脅迫されているとすれば、その誰かが躍り出てくれるってわけ。で、大物が釣れた」


 彼の選ぶ言葉は易しく簡潔、それでいて語りはリズム感よく、耳にすっと入ってくる。

 彼が家庭教師だったら、どんなに楽しいだろうか。


「どうせ、あの大男が海賊だってオチなんだろ?」


 頬杖をつくセルゲイがつまらなそうに言うのを、レイフはまたも喜んでみせた。


「そう! 結局みんな、ペローラの荒くれ者ども、ルジアダズ海賊団を恐れていたみたいだ。理由は知らないけど、あいつらもドラゴンを探してるんだろうね」


 なるほど。ラ・ウィーマ村を襲った海賊たちの証言とも一致する。グレイズの頭の中で点と点が少しずつ結ばれていく。同時に疑念もよぎる。海賊たちはどうやってドラゴンの来訪をしったのだろうか。


「で、あいつが親玉ボスか!」


「違う」


 瞳を見開き身を乗り出したセルゲイに、レイフは首を振った。


「あいつは下っ端だね、予想だけど。仮に大親玉ヴィルコ・オルノスだったらこの街はとっくに海賊大戦争で大荒れじゃないかな」


 戦争。グレイズは恐ろしい想像をして身震いした。サフィーラ島を襲った悪意の炎がエスメラルダの商店街にも放たれる幻だ。

 この街は確かに雑多で埃っぽいけれど、それと同じく人々もあちこちで活気に溢れている。

 ただ領土や名誉を求めるがために、炎で人の命や文化を奪うことなど許されない。

 グレイズの心に滲んだ恐れが、拳の握る強さとともに熱く燃える何かへと変貌する目前で、レイフは続けている。


「ルジアダズ海賊団の男たちはオリーブと船と女神っていう、共通の刺青をしている。けど、男の刺青が違った。あの男は、ルジアダズの刺青の上から、鯱と剣の刺青をしなおしていた。クリフォード派か、ユラム派か、どっちかだろうな。今はきな臭いしね」


 と、レイフがノートの違うページをめくって開いて見せてきたのを、グレイズとセルゲイは一緒になって覗き込んだ。船の周りをオリーブの葉が囲み、それに向かって女神が息を吹きかけ、見下ろしている図案だ。オリーブの葉は女神の髪でもある。これがルジアダズ海賊団の印らしい。


「鯱か」


「鯱なあ」


 グレイズとセルゲイは同時に呟き、顔を見合わせた。


「以上!」


 と、レイフは景気よくノートを閉じた。


「ルジアダズの、クリフォード、ユラム……」


 聞き覚えがある名だ。どこで聞いたのだろう。

 グレイズが訝っていると、隣で椅子が、ぎいと悲鳴をあげた。

 セルゲイが細い椅子の細い足を重心に、揺り椅子よろしく、船を漕ぎだしたのだ。

 どうやら集中力が切れたらしい。


「海賊とドラゴンかァ。ドラゴンの巣の財宝でも狙ってんのか?」


「大方そうじゃない? 本当にあるかどうかは見てみなきゃだけど」


「お宝かァ。俺は興味ねえな」


「そう? 歴史的に貴重な美術品があるかもよ。調べてみたいけどな。〈薔薇の遺物〉レリック・オブ・ローズなんかあった日にゃ大事件だよ」


 セルゲイが、がばりと大顎を落としてあくびをすると、レイフにもふわりと移った。

 どうやら、レイフ・ヴィータサロという男は善良な人間のようだ。

 出会ったばかりの旅人に、余すところなく全てを語ってくれたし、あくびさえして見せた。

 微笑みの仮面しか許されない王宮で育ったグレイズには、わかる。

 のびのびと自適に生きるレイフ、彼に裏表がないことは。

 レイフにならば、見せても大丈夫そうだ。

 グレイズは、〈ウィスプ〉のペンダントをたぐり寄せて取り出し、机の上に置いた。


「レイフ、君はこれが何かわかるか?」


「んっ? おおお!」


 遍歴学生は瞳を輝かせてペンダントを手に取った。


「グレイズ! いいのかよ」


 慌てる騎士に、王太子は頷いた。


「〈ウィスプ〉じゃないか! 本物? これをどこで?」


 その手にはいつの間にかルーペが握られている。


「君の叡智と勇気を見込んだ」


 グレイズが己の身分と、花嫁の偽装誘拐から始まった数奇な冒険について説明すると、レイフはくちびるをぎゅっとすぼめ瞳を忙しなくしばたたかせた。彼なりに驚いているらしかった。


「新聞で読んだよ! あの騒ぎ、本当だったんだ!」


「ああ。だが私が王子であることは、聞かなかったことに」


「わかった。そこは信じないでおく」


 遍歴学生はその表情のまま小刻みに頷いてくれた。

 しかし、彼の瞳の煌めきはまったく損なわれるどころか増しに増しているように見えた。


「なるほど。星のかけら、ないしドラゴンの鱗……。そのどちらでもありそうだ。とにかく、本物をこんな間近に見られるなんて感激だよ! それに加えて、君の歩む道はこれからの未来、歴史の一ページになる――かもしれない――わけだ。ぞくぞくするね、興味深い! しかし魔法薬でドラゴンの追跡なんて聞いたことがないな。〈ビュロウ〉への道しるべになるとはどこかで読んだことはあったけれど。その魔術師くんを問い詰めたいな」


 興奮に任せて舌を回すレイフに、主君と従者はやれやれと目を合わせた。

 また癖の強い知人ができたものだ。世界の広さを痛感する。

 しかし、こんなふうに屈託なく話してくれる相手が増えるのはとても嬉しいものだ。

 ヴァニアス王国にいたころの自分には、とても想像がつかない。

 友人とは、かくして増えていくものなのだろう。

 いや。グレイズは浮き足立つ気持ちを、ぎゅうっと抑えつけた。

 自分だけが舞い上がり友だちだと思えども、相手がそう思ってくれるかは定かではない。


「セルゲイ。相談がある」


「お?」


 騎士の緑の瞳がぐるりと回された。瞳の中で、真昼の星が暖かく輝いた気がした。


「ああ。レイフなら、助けてくれそうだよな。誘ってみるか?」


 わかってくれた。言い知れぬ期待に胸が温まる。

 三人がそれぞれに息をついた時、パブのドアベルが涼しい音を立てた。

 生ぬるい外気と共に女が二人連れだって入ってきた。 


「予約と言っても、雑魚寝だよ。ベッドの保証はできやしない」


「構いません。我が君は誰よりも早くお休みになられますので」


 凛然とした旅のドレスの女に見覚えがある。驚くことに、片方は知人だった。


「イーリス殿!」


 王子より先に騎士が声を上げた。

 逆光で見えなかったが、セルゲイの明るい声に、侍女は瞳を丸めたに違いなかった。

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