第二章 海豹女たち

1、〈ウィスプ〉は波間に光る

 グレイズたちは再び、潮風の吹きすさぶ青の世界に飛び出した。ヴァニアス王国を出発した時よりも幾分気分が軽いのは、ヨットに乗っているからかもしれない。


「おお! いい風が吹くな! 島がもうあんなにちっちゃいぜ!」


 セルゲイのハイバリトンが潮風ごとグレイズの顔に吹き付ける。


「帰りたいなら、今のうちだぜ!」


「いや!」


 グレイズは顎をそびやかし青空に宣言した。


「父上には肝を冷やしていただく」


「ハハハ!」


 きっぱりと言い切ったのがよかったのか、セルゲイ以下仲間たちがからからと笑った。

 マルティータの侍女イーリスと、そしてなぜか魔術師キールヴェクがついてきてくれた。

 同意の笑い声に胸がすっとする。


「んだな! 陛下も俺たちの心労を思い知りやがれってんだ!」


 セルゲイが来てくれてよかった。グレイズは海原から吹き上げる潮風に乾かされる目を細めながら心の底から思った。

 実家が海運業だからか彼にはヨット乗りの勘が備わっていた。もちろん王子にはない感覚だ。

 グレイズの想像では、ヨットはただ帆を張りさえすれば水面を走り出す物だった。

 だが、実際は帆を操作する人の腕力が必要とされた。しかも、サフィーラ島上陸時に乗っていた手漕ぎのボートとは訳が違い、速度や進行方向の全てが風に任せられていた。つまり、その風が止まれば海上に放り出されてしまう。

 青い空間にぽつりと取り残される恐怖でグレイズがそわそわした時、セルゲイは口笛でご機嫌な旋律をなぞった。すると、風はいつもセルゲイに味方をした。


「風の精霊を眷属に?」


「まさか! 口笛で頼んでんだよ!」


 グレイズはわくわくした。本人は気づいていないだろうが、これこそが彼の血にそなわった魔法なのだ。まるで全てが船乗りになるための〈ギフト〉だ。グレイズの心がぽっと温かかくなる。他人に誇らしさを感じるなど、父王ブレンディアンには理解されないことだろう。

 しかし、王子にとってセルゲイは己の手足よりもずっと素晴らしく思えた。

 なにより、ヨットを自在に操る手腕は、見た目にも逞しくて男の目から見ても格好いい。

 つい見下ろした自分の手のひらが情けなく思えるほどに。


「いいな、君は」


 羨ましさが口をついて出る。しかし、セルゲイは振り向かない。

 ごうごうと唸る風は、グレイズの独り言を騎士の耳まで届けなかったらしい。

 少しの安心と残念を改めるため、息を吸い込む。


「セルゲイ、君は船乗りになりたくはなかったのか?」


「ヨットは好きかな、昔から! 兄貴たちによく乗せてもらったわ!」


 今度は腹から問うと、セルゲイは緑の瞳をこちらへ向けてくれた。首と口は曲がっている。


「けど何になりたいとかを思う前に、ドーガスさんに入れられた」


 高らかなバスバリトンは、威圧的ではない。むしろ溌剌としている。


「よかったじゃないか」


 つられて王子が笑うと、騎士は顔をしかめた。


「どっちの意味だよ?」


 グレイズはたじろぐ。


「ドーガス卿は人格者であるから、その――」


「わかった。そっちな」


 セルゲイは途端に白い歯を見せる。


「ホント、それは不幸中の幸い。捨てられた先がドーガスさんで、よかったと思う」


「そんな――!」


「気にすんな。事実だし。お前と一緒だな、グレイズ」


 グレイズがどきりとしたあまり口籠もったのにも構わず、セルゲイは続けている。


「って、同じじゃないよな。しかし実際、うちの親父はうまくやったと思うぜ。三男坊の俺を売って、騎士を輩出した功績を手に入れた。マジもんの商人で取引上手だ」


 視線を放り投げた騎士の横顔を、王子は苦々しく見つめた。

 青空に、四角い顎と鷲鼻の作り出す武骨な輪郭が浮かぶ。


「その、気を悪くしたなら――」


「でも、ドーガスさんやフェネト、騎士団のみんなと一緒じゃない人生なんて、思いつかねえ。責める気になんねえのは、こんなふうに俺にも良いことがあったからだなァ」


 フェネト・デ・リキアの名は、グレイズにも覚えがあった。

 一年前の御前試合で、セルゲイを圧倒し続けた従騎士で、セルゲイの猛烈な反撃をきっかけにその座を追われた気の毒な少年だ。二人は小姓時代からドーガス子爵の下で研鑽を積んだ親友とも聞いている。

 そうしてセルゲイは、図らずも唯一無二の友から輝かしい未来を奪ってしまった。

 仮にグレイズが同じ立場なら、過去を顧み続けてしまうだろう。

 あの時、反撃しなければ。御前試合に選ばれなければ。小姓にならなければ。

 おそらく、どれだけ後悔しても、しきれないはずだ。

 セルゲイがどんな辛酸を舐めてきたのかは、計り知れない。

 けれどもグレイズは、彼の感じただろう苦しみに心を寄せずにはいられなかった。


***


 セルゲイの巧みな操舵によって、今日の目的地であるトルパツィオ島には明るいうちに着くことができた。サフィーラ島から西南西に位置するこの島には小さな集落があるばかりで、規模もさほど変わらないように見えた。

 サフィーラから来た旨を伝えると、村人は快くグレイズたちを迎え入れてくれた。

 聞けば、昨夜、命からがら逃げ出してきた者も受け入れたのだという。

 マルティータになぞらえて赤き薔薇を意味する〈赤き薔薇〉タ・ロゼ・ダラク号と名付けたヨットを下り、一行は、遠慮無く一晩を過ごすことにした。


「我が君」


 侍女イーリスが楚々と、そしてくっきりとしたアルトで言う。


「用入りの物を買いそろえて参ります。お宿のほうも」


「ああ。気をつけて」


 グレイズが微笑むと、彼女も鏡写しのようにそうして、膝を折った。

 そこへ、小汚い男がすえた臭いとともに割り込んできた。魔術師キールヴェクだ。


「おいらも!」


 侍女の目元が思い切りひくついたのを、グレイズは見逃さなかった。


「ご心配には及びませんわ。心得はございますもの」


 と言ってくれたイーリスの腰ベルトで、いくつもぶら下げている大きな金属製の輪がしゃらりと同意の声をあげた。円月輪という武器らしい。

 こんなふうに侍女イーリスと魔術師キールヴェクが翌日の荷造りを名乗り出てくれたので、グレイズはセルゲイと共にドラゴンの目撃情報を聞いて回った。

 海賊ではないかと疑い、よそ者を毛嫌いする住民も多かった。

 そんななか、屋外で鮮やかな彩りの絨毯で悠々と昼寝をしていた老人は、眠たそうに口元の髭を動かした。


「おお、見たぞ。ドラゴンなぁ」


「ホントか!」


「まことか!」


 歓声を上げたセルゲイとグレイズは、揃って顔を見合わせる。


「火の粉が飛ばずによかったわいな」


 ほとんど皮だけと言ってよいくちびるでぷかぷかとされた水たばこの煙が青く香る。

 老人が言うには、夜風を浴びながらちびちびと酒をなめているとサフィーラ島が煙を上げて赤く燃えはじめた。それに気づいた彼は、おそるおそる様子を見ていたそうだ。


「クリフォードの奴が島を奪いにとうとうここまで来たんだと思った。だからよ、村中回って、明かりを消させたんだ」


 かさつき濁ったけだるげな声は深く、彼の人生の長さを思わせた。


「誰だ、そいつ?」


 セルゲイが口を挟むと老人はパイプを持っている骨張った右手首をゆらゆらさせた。

「ヴィルコんとこの〈しゃち〉野郎さ。べっぴんさんはそんなことせん」


「ヴィルコの、鯱……?」


 ルジアダズ海賊団首領の名――ヴィルコ・オルノスは、聞いたことがある。

 しかし彼が鯱まで飼い慣らしているとは初耳だ。

 王子が絵でしか見たことのない海の猛獣を操れるとは、さすが海賊と言ったところか。

 グレイズが少し引っかかりながらも明確に問えないうちに、老人は話を続けた。


「したっけ、黒い大きい影がうちの森まで飛んできた。すぐにわかったね。あんなでかい鳥はおらんもの。わしは祈ったよ。ドラゴンがすぐに飛び去るのを。触らぬ神に祟りなしってな」


 つまり、一度着陸はしたらしいのだが、別の場所に飛び去ったのだという。


「ここからまっすぐ北上していった……エスメラルダ島のほうだな」


 骨と皮だけの手で指し示す方を、王子と騎士は揃って見た。


「あすこの島のブロシャデイラの街は、ペローラでも大きいから、話ぐらいは聞けるだろ」


 目撃情報はとてもありがたかったけれど、グレイズはとてもがっかりした。

 マルティータがここにいないことが確定したからだ。

 つい、耳の神経をなおざりにしてしまったほどだ。

 落胆のあまり次の問いさえ見つけられない。


「んで、爺さん。このあたりじゃ、ドラゴンはごろごろいるのか?」


 それを知ってか知らずか、セルゲイが話を繋いでくれる。


「いんや。見るのは初めてだ。爺さんの爺さんが見たとかいうのを、嘘だと思っちょったくらいにゃ、伝説の生き物だ」


 老人はパイプを咥えて水たばこを胸いっぱいに吸うと、細く長く煙を吐いた。

 

金剛石に、玻璃に瑠璃。

蒼、紅、翠の珠をちりばめて、

繋ぎし真珠は泡沫のごとし。

遥けき天より落ちにし竜、

海原の抱きし宝に悦喜して、

紺瑠璃の褥、輝く黄金こがねに微睡まん。


 歌うようになめらかに紡がれた言葉は、独特のリズムでくるまれていた。


「それが伝説?」


「んだ」


「だってよ」


「あ、ああ。すまないご老体、もう一度歌っていただけるだろうか」


 セルゲイに小突かれたグレイズは、慌てて老人に聞き直した。

 そしてマルティータの日記帳に〈白羊の月ラーム〉十四日と走り書いたあと、詩句を書き取る。

 いつか彼女にやった万年筆を、巡り巡って自分が使うことになるとは。

 真剣になっているグレイズの手元に、ペンダントが引っかかって煌めいた。それは夜空から落ちてきた黄金の鏡を、イーリスがかぎ針編みで編みくるんでくれたものだった。

 礼を言ったときの彼女の微笑みは温かくてほろ苦かった。


「お嬢様からの大切な贈り物ですもの」


 そのペンダントは今、真昼の光とあたりの色彩をきらきらと跳ね返している。


「おお! そりゃ、綺麗な〈ウィスプ〉だなァ!」


「えっ?」


 老人が顎とパイプを落とすのと、グレイズがびっくりするのは同時だった。

 それは王子のセカンドネームだった。


「ご老人! な、なぜ、私の名を?」


 彼とグレイズはわけもわからず、丸めた目を合わせた。


「お、おお? お前さんじゃない、それだ。その金色の――」


「爺さん、これが何か知ってるのか?」


 セルゲイに顔ごと食いつかれて、老人は顎を引いた。


「なんじゃ。知らんで持っとるのか。〈ウィスプ〉はドラゴンが気に入った人間に贈るものだ。けんど、本当にドラゴンから〈ウィスプ〉をもらったことがある人なんて、聞いたことがねえ。ペローラ諸島では有名な鏡のお守り、それが〈ウィスプ〉さァ」


 老人は満足げに頷くと、拾ったパイプの口をシャツでごしごしと拭って、それをまた咥えた。


「しかしそれは色が違う。本物なら大事にしまっとけ。人に見せびらかすんじゃないぞ」

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