11、薔薇姫の出奔

 セルゲイが息を切らして着いたペデスタル城では、すでに戦いが始まっていた。

 村を燃やす炎が城壁を赤く染めあげていて、中からは大なり小なり剣戟の音が聞こえてくる。

 しかしセルゲイの網膜には、竜と少女のシルエットがくっきりと焼き付いていた。


「わけわかんねえよ!」


 セルゲイは吼えた。両手に剣と盾が無ければ頭を掻きむしったところだ。

 代わりに一つ大地を蹴って、開きっぱなしの城門をくぐる。

 自分はただ、国王の計画通りに動いていただけだ。けどこんなに筋書が変わるか?

 屋内に明かりが明々と灯っているのが、かえって怪しい。

 遠くに人の声もする。音を潜ませ、用心深く進むうちに、くぐもった声がくっきりしてくる。

 廊下の壁を背にして窺うと、舌っ足らずな罵声が廊下中に響いていた。

 しっかり聞き取れるような滑舌のよさはない。絶対、すきっ歯だ。

 騎士はそろそろと、未だ褪めぬ勝利に早々と酔いしれて目前でとどめの一撃を放とうとしている海賊の背後に近づき、首根っこを長剣でひと思いに薙ぎ払った。

 鈍い音とともに、海賊は倒れた。ごろりと転がった男の口元から濁った泡が溢れる。


「助か……った……」


 廊下の壁際に追い詰められていた顔見知りの従騎士は、ずるりとそのまま尻餅をついた。

 彼の背が引きずったあとが赤く描かれている。血だ。


「テオ! 俺だ、しっかりしろ!」


 セルゲイは同僚に駆け寄り、彼の肩を抱いた。


「今、助けてやる! 人を――」


「で、殿下、を……」


 まだ男になりきれていない少年の細面が、これ以上なく歪んでいる。

 テオが腕を重たそうに使い震える手で指さすほうから、まだ争う声が聞こえてくる。

 二人の友人の間で、セルゲイの心が揺さぶられる。


「どっちだ? 上か?」


 と、セルゲイが尋ねたのと、テオの頭が力なく傾いたのは、ほぼ同時だった。

 彼の灰色の瞳はそのまま、虚空に釘付けになった。

 身体の温もりがある。まだ、彼の命を感じる。腹の傷を塞げば、また笑いあえる気がする。

 しかし、ぐったりと投げ出された四肢が、テオのスィエルが去った証拠だった。

 腕の中にいるのは、かつてテオだった身体だ。

 今、セルゲイが担いで〈栄光なる王子プリオンサ=グローマ〉号に戻れば、蘇ってくれるかもしれない。

 そして、国で神子姫ミゼリア・ミュデリアに治癒を施してもらえれば。

 彼が二度と動かないことをうっすらと悟りながらも、にわかに認めたくはない。


「テオ……」


 騎士が震える顎をぐっと噛みしめた口の中で、涙の味がする。


「……すまない」


 セルゲイは遺体をできるだけ優しく壁に寄りかからせた。

 そして、おもむろに立ち上がり、駆けだした。

 後ろ髪は引かれっぱなしだ。しかし、王子近衛騎士の肩書きが、彼を主君の元へ走らせた。

 グレイズを死なせてはいけない。それが、セルゲイの一番の任務なのだから。


「あンの、馬鹿王子!」


***


 進むほどに、あちこちにテオと同様に倒されたシュタヒェル騎士がちらほら顕在する。

 彼らの名前を呼ぶだけで、涙がこみあげる。切りがない。

 寝込みを襲われたに等しいシュタヒェル騎士たちは剣を手に応戦するので手一杯のようで、大半は隙と腹をつかれて倒れていた。

 しかも、海賊たちの汚れた肌と嫌な臭いのするぼろきれは、闇によく馴染む。

 あらゆる条件を踏まえても、相手に分があった。

 それにしても、部屋の戸を一枚一枚開ける時間も惜しい、

 セルゲイは、廊下で出会う敵はなぎ払い、味方はいたわりつつも問い詰めた。


「グレイズ! 王子は!」


「マルティータ様を探して階上へ!」


 セルゲイは、騎士たちが口を揃えてそう言うのを信じて、セルゲイも最上階へ行った。

 だのにそこは、侍女すらいないもぬけの殻だった。

 少女特有の甘い匂いが残っているが、今は味わっているときではない。

 ふと、城の上の怪物と娘の影を思い出す。

 翼を持つ巨大な生き物――ドラゴンなど、伝説上の存在だ。

 英雄譚でのみ聞き知る、勇気ある男に倒される宿命をもつ悪の生き物。

 そんなものが、この期に及んで現れるはずがない。

 国王がドラゴンとも手を結んでいた? お伽話めいた予想でさえも現実味を帯びてくる。

 建国伝説よろしく竜退治で歴史に名を残すことなど、国王一人で取り組めばいい無謀な夢だ。

 ましてや、息子に肩代わりさせるようなものではない。

 まてよ。セルゲイは天啓のように嫌な閃きを得た。

 もし本当にドラゴンがいて、目前でマルティータが奪われようとしていたら。

 セルゲイの背中に悪寒が走った。


「グレイズ! 馬鹿王子!」


 セルゲイはマルティータの部屋を飛び出した。

 さらに上層へゆく階段を目指して走る騎士の汗の混じった鎖帷子が鳴り、なんとも言えない悪臭を立てる。屋上への階段を上ろうとしたその時、布まみれの男が転がり落ちてきた。


「ああ! 騎士様だ! 助けて!」


 男の慇懃な声に聞き覚えがあった。這々の体の男はセルゲイの足にしがみついた。

 その拍子に、たっぷりとしたローブのフードが脱げた。髪が月光に透けるこの男に見覚えがある。だが、今はそれどころではない。


「馬鹿野郎! 死にたくなけりゃ、とっとと浜辺へ逃げろ!」


「無茶だよ! 相手はドラゴンだよ! 金色のドラゴンがおいらを殺しにきたんだ! ねえ、話が全然違う! みんなはまだ? あの細っこい兄ちゃん独りじゃ人手が足りない――!」


 セルゲイは男の首根っこをひと思いに掴んだ。


「その兄ちゃんってのは、上にいるんだな? ああ?」


***


 ローブの男を放り出して階段を上りきったセルゲイは、唖然とした。

 星々を浮かべた濃藍の夜空と赤く燃える城下を背景に、黒い怪物が長い首を擡げている。

 輪郭に炎が映り込み金色に輝くさまは、まるで太陽が生き物の形をとったように見えた。

 顎が上がらない。浮浪者のうわ言だとばかり思っていたが。


「本物の、ドラゴン……!」


「マルー!」


 立ち尽くすセルゲイの手前で、少年が雄叫びを上げ竜へ剣を向けて突進した。

 姿勢も悪ければ、剣の持ち方すらなっていない。

 ほとんど捨て身の男の頭に、王太子のティアラが煌めいた。


「グレイズ!」


「グレイズ様! やめて!」


 少女の悲鳴がセルゲイのと、そして怪物の咆哮と重なる。グレイズの攻撃が命中したらしい。

 ドラゴンが大きく擡げた首をゆるりと下げたのを見て、セルゲイは力の限り駆けた。

 セルゲイが限界まで走り込んでグレイズの手前にたどり着いたのと、ドラゴンの鼻先が少年たちの目前に降りてきたのは、ほとんど同時だった。

 二つの月のような金色をした巨大な目が二人を睨み付ける。

 金が自ら発光するような瞳の真ん中には、夜よりも深い漆黒の瞳孔がある。

 それよりも、人間を丸呑みできそうな巨大な口や、いつでも障害をなぎ払える長い首に警戒しながら、セルゲイは背にかばうグレイズごとじりじりと後ずさった。

 正解と王子にたどり着けたが、素直に喜べなかった。状況は悪化してゆくばかりだ。


「無茶しやがって、馬鹿王子!」


「ハハ……ハハハ!」


 背中越しに吐き捨てると、王子はなぜか、からからと笑った。

 汗が顎を伝い、青い瞳の真ん中で瞳孔が黒々と開ききっている。


「信じられない! セルゲイ、来てくれるなんて!」


「信用ねえな!」


 震えて乾いた声に余裕はない。つまり、互いに空元気であることは自明だった。


「俺はこの光景が信じられねえよ」


 騎士が渇いたくちびるを舐めると、塩と砂が口に入り込んだ。

 それを粘っこい唾ごとひと思いに吐き捨てる。

 燃え上がる村の煙の臭いが目にも刺さり、今この瞬間が現実であると教えてくれる。


「ドラゴンの弱点なんか知らねえしな……!」


 セルゲイは、改めて剣を構えようとした。

 が、その時、ドラゴンの頭の上に赤いものが輝いて見えた。

 マルティータだ。ドレスの裾をはためかせ、うねる竜の首を樹の幹よろしく登ってゆく。

 なんという怖い物知らずだ!


「マルー、おいで! 降りるんだッ!」


「できませんッ!」


 夫と妻は、再会を喜ぶどころか、他人の距離で対峙していた。


「飛んで、エウリッグ!」


 マルティータが叫んだ。

 そして、首からバスタブをつるしたドラゴンが、頭をゆったりと擡げて両翼を広げた。


「マルー!」


 追いすがる王子を、強風が襲う。

 翼が羽ばたくたびに起こる旋風に、その場に立っているのがやっとだ。

 それでもグレイズは腕で顔をかばいながら足を前に出そうとしている。

 躍起になった結果、足を滑らせて身体ごと押し流されされそうになる。

 それを、セルゲイが慌てて覆い被さることで防いだ。


「マルー!」


 ごうごうという風と埃の中、グレイズの叫びがむなしくこだまする。

 しばらくして風が和らいだ。

 その隙にグレイズがセルゲイの下から無理矢理這いつくばって出ようとした。

 騎士はしかたなく重たい身体を起こす。

 王子は屋上を縦横無尽に駆けては止まり、星空に金色のドラゴンを探しているようだった。

 走る彼の先に闇があって、セルゲイはたまらず駆けた。


「グレイズ!」


 そして、王子を抱きしめた。

 彼らが立ち止まったそこは、ドラゴンが飛び立った瓦礫の跡で、足場はなくなっていた。

 あと一呼吸遅ければ、グレイズの命はなかったかもしれない。


「馬鹿王子! 無闇に走る奴があるか!」


「しかし! マルーを追わねばならない!」


「落ちて死んだらどうすんだよ、馬鹿!」


 自分自身が発した言葉なのに、どきりとした。

 グレイズのことは、かろうじて守れた。

 しかし、シュタヒェル騎士団の仲間たちはどうだろう。

 悲しみと後悔に、グレイズを抱く腕が緩む。

 それと同時に、ピンと伸びていた王子の背中がだんだんと丸まり、いつもの猫背に戻った。

 さきほどまでの勇ましさは、跡形もなく消えてしまった。


「馬鹿、か……」


 セルゲイは、黙ってグレイズの肩を抱いていた。


「君の言う通りだ……」


 俯いたグレイズの代わりに顎を上げる。

 その時、星よりも大きな煌めきが瞳を掠めた。

 流れ星かと思い瞳を凝らす。


「なんだ……?」


 セルゲイに応じて主君が擡げた頭の上に、とすんと何かが当たった音がした。

 頭に跳ね返った光は涼やかな音を立てて石の床に落ちた。

 騎士は拾いに屈んで、驚いた。

 しばらくそうしていると、王子も彼に倣った。

 二人が覗き込んだ床には、丸い鏡が落ちていた。

 夜にあって虹色を放つそれは、固い石床へ落ちたのにどこも欠けていない。

 おそるおそる拾い上げてみる。

 闇の中にあってさえ、セルゲイの相貌を金色に染めながら明るくくっきりと映した。

 その不思議な鏡の奥で、黒い影が泳いでいるのに気づく。

 はっとして天を仰ぐと、セルゲイとグレイズの真上に、影はあった。

 見上げる二人に見せつけるようにして空を泳いだ影は村の反対側の空へと飛び去っていった。

 炎に包まれる村、海賊の手で穢された城、姫と飛び立つドラゴン。

 まだ、夢を見ているような気分だ。


「なんだったんだ……」


 喘いだ喉が、乾いた音を立てる。

 王子と騎士が揃って膝を着いた瞬間、微かに声が聞こえた。


「グレイズ様、どうぞ逃げて。そしてお許しください。わたくしの冒険を」


 そよ風のように揺れる、少女のソプラノだ。


「マルー……! どうして――?」


 グレイズが首を回す。

 セルゲイも同様にしていると、マルティータの声が手元から聞こえてきた。


「それから、イーリスのこと、よろしく頼みます」


 先ほど落ちてきた、光のかけらだ。

 驚く二人が覗き込んだそこには、空の彼方へ消えた赤毛の公女の顔が映り込んでいた。


「そして、約束してくださいませ。ペローラのどこへ行っても、必ず迎えに来てくださると」


 少女の目元から、瞳と同じ色をした銀のひとしずくが落ちた。

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