10、十戒、その身に帯びて

 ダイヤモンドの形をしたヴァニアス本島を出発して数日。

 空と海のまばゆい青さに挟まれて、順風満帆、に進んでいる。


「何が〈栄光なる王子プリオンサ=グローマ〉号だ」


 王子近衛騎士セルゲイ・アルバトロスは、腹の底からため息をついた。

 胸の上下に合わせて鎖帷子がささやかな音を立てた。そのはずだ。

 だが、風の音轟く〈栄光なる王子プリオンサ=グローマ〉号の甲板では、まったく聞こえない。

 代わりに鼓膜を打ち鳴らすのは、青空を滑るあほうどりアルバトロスの甲高い雄叫びだ。

 小さな身体に大きな翼。若々しく羽を伸ばし、風を乗りこなしては、波の角で遊び、緑の島に休む。波を街に、島を女に変えればまさにかつての自分だ。自由気ままなあほうどりの姿に、王子近衛騎士になる以前の無責任な己が重なる。

 しかし苛立ちの原因は別にあった。恋の真似事をしていた自分のことはこの際どうでもよい。

 今は深い慈愛グラスタに満ちた王子を支えてやらねば。

 ごめんよ、グレイズ。馬鹿のつくほど、まっすぐな王子。

 胸の内で呟いた主君への小さな謝罪は、誰でもないセルゲイの胃を引き絞った。

 唯一無二の友であるセルゲイを信じてくれた彼への裏切りを働いている気分だ。

 考えれば考えるほど、理不尽である。

 これは子を愛する親がやることでも、窮地を救われた騎士が恩人に返すことでもない。

 当時九歳だったセルゲイが、見栄と家名の維新を掲げた父親に、本人の意思にかかわらず、ドーガス子爵家に突然放り込まれたことも、この件に比べれば小さく感じられるから不思議だ。かといって、父を許すわけではないが。

 いっそ青い怒りに燃える矛先を首謀者たちにつきつけてやりたいが、ことごとくここにはいない。

 国王ブレンディアン五世は騎士団長アルケーオ・デ・リキア卿と共に、今、国民の盾として王都ファロイスの守りを固めている。やがて来る敵襲に備えているのだ。

 憧れが地に落ち侮蔑に転じるのだけは、幼い日の自分に免じて、どうしても避けたかった。

 セルゲイ少年は小姓になる以前からシュタヒェル騎士団長――奇しくも同期であるフェネトの父だ――を見上げ、憧れ慕ってきた。君主にかしずきながらも決して丸まることのない立派な背中、風格を損なわぬデ・リキア卿に強く逞しき、そして優雅な理想の騎士像を重ねていたのだ。それを、フェネトと揃って騎士ドーガスの後ろから羨望のまなざしで見つめていた。

 彼こそ、王国に咲き誇る薔薇の大輪を守る立派な茨(シュタヒェル)であると。

 だが心の中の小さな声は、卑劣な大人を罵り、己の砂金のような正義を尊んでいる。

 今はただ、頭をぐしゃぐしゃに撫でまわしてくれる風だけが、心地よい。

 少年が頭を掻きむしりたい気分でいっぱいなのを、風は察してくれたのかもしれない。


「セルゲイ」


 その時、暖かい男声に呼ばれた。聞き慣れたバリトンに振り返る。


「ドーガスさん」


 他でもない、シュタヒェル騎士団副団長ユスタシウス・ドーガスだった。

 紆余曲折あり王子近衛騎士となったセルゲイがドーガスの隣――戦場に立つのは、これからが初めてである。今、息の詰まる船尾楼から連れ出してくれたのも、彼だ。

 容赦なく吹き付ける風の中、二人の騎士は隣り合って手すりに身を寄せた。

 髪油で撫でつけていた前髪が強風でこぼれて、視界を邪魔してくるのが煩わしい。


「よい風が吹いているな。お前の〈ギフト〉のお陰か?」


 無意識のうちに噛みしめていた奥歯を開放すると、潮の香りが胸いっぱいに入り込んできた。


「俺の風の力なんて、ちっぽけなもんですよ」


「ほう」


 セルゲイの視界の端で、騎士ドーガスは面白そうに眉を持ち上げた。


「お前の風貌に惚れ込んで、風の精霊ヴィンドゥールが味方をしてもおかしくはないがな」


「どうせ俺は顔だけの三枚目です。それに風なんて、自前のヨットの帆を張るぐらいでほかに使い道なんか思いつかないっすよ」


「そう、いじけるなよ」


「いじけてません」


 セルゲイがそっぽを向くと、ドーガスも彼の狭いひたいを水平線に向けた。

 ドーガスは、精悍で穏やか、言葉の節々に賢さと品の良さが滲む。そして何より知的な男だ。

 彼の隣にいると、自分の分不相応さを思わされる。本来ならば天地がひっくり返っても騎士にはなれない商人一族アルバトロス家の三男がシュタヒェル騎士――しかも、王子近衛騎士になってしまった。伝統ある貴族や士族に面目ない事態だとは思う。

 セルゲイは浮かない気持ちで、顎を上げた。

 視界の端、少し離れたところを仲間のガレオン船が波の尾を引き引き進んでいる。

 どの帆もぱんと張り詰めていて、ご機嫌そうだ。

 俺とは真逆だよ。セルゲイは啜りがてら、鼻のてっぺんに思い切り皺を寄せた。


「ドーガスさんは国王陛下と騎士団長閣下に反対してくれたんでしょう?」


 自分の口からは、確かにいじけた音色がした。


「もちろんだ。陛下や閣下のお考えだとしても私の主義に反する。作戦のために我々の貴婦人方を危険にさらしたくはなかった」


 ドーガスは間髪を入れずに答えてくれた。よかった。師の高潔さは損なわれていない。


「よかった。俺、ドーガスさんを軽蔑せずに済みます」


 ハハ、とセルゲイが立てた笑い声は思った以上にわざとらしくなってしまった。

 気まずさを誤魔化すのに言葉を重ねる。


「そもそも、グレイズ――王子殿下を海賊にけしかける必要なんかないと思うんす。海賊をぶちのめす言いがかりなら、他にいくらでもつけられたはず。ヅラを奪った侮辱罪とか」


「やめろ」


 ドーガスが厳しく吐き捨てた。そう、国王の頭頂部が近年薄く心許ないのは禁句なのである。


「王子殿下とマルティータ様……二人ともかわいそうです。息子の幸せを目の前で取り上げなくちゃいけないほど、国王陛下は海賊野郎が憎いんですか? それとも、そこまでして息子を鍛え上げたいんですか?」


「どちらもなんだろうな」


 騎士の静かな同意が、新手のウミネコの甲高い鳴き声に混ざった。


「陛下は、ご自身が獅子王でありたかったのだ。そのお気持ちが殿下に向くのは、もっともな成り行きだろう。それに世継ぎの王子であらせられるグラスタン殿下が経験を積むのは、よいことだ。殿下もまた、王国にかしずく騎士のお一人なのだからな」


 セルゲイは理解に思わず鼻を鳴らした。納得はしていない。


「お前の言う通り、その気になればいつでも本物の戦争を起こされるような陛下が茶番で澄まそうというのだ。丸くなられたものよ。これには付き合って差し上げねばなるまい」


 ドーガスが国王の肩を持つのはもっともだ。彼は、善きを讃え悪しきに苦言を呈する男で、それは主君であっても変わらない。己の正義に実直な騎士だ。

 しかしセルゲイには、彼の言うようにどっちもどっちだとは思えないのだ。

 金色のたてがみをたなびかせ青い瞳を燃やす国王のほうがよっぽど獅子然としているではないか。

 内気な王子の黒髪をわざわざ逆立て、青い瞳を悲しみに波立たせることもなかろうに。

 セルゲイは思わず、空へ腕を伸ばした。

 海鳥がひらひらと自由奔放に飛ぶ。掴めるものなら掴んでみろと言っているようだ。

 彼らはどこからやってくるのだろう。緑の島々で休まず、わざわざ海原の上を泳いで。

 ご機嫌な彼らの足を引っ張ってやりたくなるが、手のひらは虚空を掴むばかりだ。


「でも、こんなこと正義じゃない。騎士道に反してる」


「ならば、この作戦に参加しなくてもよかったのだぞ」


 セルゲイは返す言葉もなく黙りこくる。

 ドーガスの言う通りだ。


「知っているだろう。我々が帰依するのは主人ではなく、あくまで騎士の十戒なのだから」


 先輩の声は暖かく、そしてどこか乾いていた。

 騎士の十戒。優れた技術を持て。勇気をもって、弱者を救え。いつも正直に高潔たれ。誠実であれ。慈悲深く寛大であれ。信念を持て。常に礼儀正しく、無私にして崇高な行いに身を投じよ。これは剣を手にするとき、何度も暗唱させられたものだ。

 食事のたびに、この世に満ちるマナとスィエルへ感謝を述べるように。

 騎士がただひとつ封建制を覆せるとき、それは君主が十戒を逸脱するときだった。

 今回の国王の命令は、それにまったく当てはまる。

 でも。セルゲイは首を振った。


「それじゃあ、逃げるのと同じです。それに、グレイズがやると決めた。俺はあの人の信念に忠義を尽くさないといけません」


 ドーガスはうんともすんとも言わず、セルゲイの顔をじっと見据えてきた。

 主君との約束――友として名を呼ぶことで、ドーガスに角が立ったのかもしれない。

 なんだかばつが悪い。


「俺の主人はグレイズです。あいつが言う正義になら俺は従います」


 改めたセルゲイの声は、もごもごと言い訳じみた。

 緊張の一瞬のあと、先輩は破顔した。

 そして、一回り年上の彼は、優しく、だがしっかりと後輩の肩を抱いてくれた。


「立派になったな」


***


 それから太陽と月とが三回巡った〈白羊の月ラーム〉十三日の早朝。

 日が昇る前の昏い空に向かってまっすぐに伸びたマストの上、見張り台から声が上がった。


「見えた! サフィーラ島だ!」


 それと同時に、が、王子の船団を出迎えた。

 あちら側――シュタヒェル騎士たちが扮する偽物の海賊たちにもこちらが見えたのだろう。

 怯える必要はない。これだって示し合わせた茶番の一つなのだ。

 もはや嗅ぎ慣れた潮の匂いと景気のよい大砲の音が、長かった船旅の終わりを彩る。


「みんな伏せろ! セルゲイ! 君も最悪の場合には逃げるんだ!」


 サフィーラ島上陸のために装備を調えていたグレイズは、煙が上がり発破音が聞こえるたびにセルゲイの隣で縮こまった。


「万一、沈没でもしたら――」


「しない、しない」


 心底怯えている彼には申し訳ないが決して船には当たることの無い大砲を怖がるのは難しい。

 気の毒な王子の目に、今のセルゲイは、蛮族の攻撃にも物怖じせずに背筋をピンと伸ばしている凛々しく頼りがいのある男に見えていることだろう。

 そうだったらいいけどな。少し自信過剰な想像を騎士は心の中でそっと濁した。

 やがて威嚇射撃は止まった。

 懐中時計を見る時間がないのでわからないが、打ち合わせ通りならば二〇分ぐらいが経ったころだろう。

 波の落ち着いたころを見計らって、ドーガスが上陸用の小さな船を下ろすよう指示を出した。

 数隻ずつ下ろし、着水したところで数名ずつ乗り込んでゆく。

 波の影響をもろに受ける小舟の転覆を心配する王子を乗せて、セルゲイは同僚たちと櫂を手にして漕ぎだした。

 即興で、パブにいるスカートの短い娘についての歌をこしらえて漕ぐタイミングを合わせる。


 おお 酒に溺れりゃ 床が見える

   あの子のスカートの中身も見える

 よお 壁に踊りゃ 鏡が見える

   あの子が見ている誰かも見える

 そう 喉が鳴るなら 歌ってみせろ

   あの子がこっそり耳そばだてて

 おお 腕が鳴るなら さらってみせろ

   あの子がベッドで笑ってくれる


 乗り合わせた騎士には大受けだ。

 セルゲイがリードを止めても、誰かが先んじてくれるぐらいには、気に入られて覚えられた。

 かくいう本人は、口では単純な旋律をなぞっているものの、頭の中はこの馬鹿馬鹿しい茶番への不満でいっぱいだった。だから、波に八つ当たりするように力一杯漕いだ。


「あーあ! まったく、間違いだらけだよ!」


「ど、どこがだ?」


 セルゲイの背後で、小舟のバランスのために一緒になって漕がせている王子が喘いだ。

 うっかりした隙に飛び出した本音に、グレイズがすかさず反応した。


「歌詞を間違えたか? 至らぬ点があるのなら、指摘してくれ」


「そうじゃない――!」


「装備でも、心づもりでも、何か!」


 グレイズの言葉は、いつもよりもくっきりとして聞こえた。


「きっとマルーは恐ろしく、心細い思いをしているに違いない。だから!」


 グレイズの力強い声に、騎士たちの漕ぐ手が一瞬止まる。


「一刻も早く、助けてやりたいんだ! そのためならば、私はなんでもする!」


 決然とした王子の言葉にセルゲイは息を飲んだ。

 そして、心ごと腕が震えて、なぜだか急に目頭が熱くなった。

 その時、小舟の推進力が上がった。

 仲間たちも同じだったのだろう。振り向き、顔を見合わせずともわかる。

 グレイズの心から溢れ出した純朴で優しく清い決意が、騎士たちの心を奮い立たせたのだ。


***


「舟だ!」


「誰でもいいから、助けて!」


 サフィーラ島の西岸に乗り付けると、甲冑姿のセルゲイたちは思わぬ歓迎を受けた。

 島民が着の身着のままで一斉に波止場へと押し寄せて、各々の船に乗り込んでいったのだ。

 セルゲイたちが乗ってきた小舟も、ある一家にたちまち奪われてしまった。


「敵ではないようだが、これは……?」


 大将であるグレイズが神経質そうに訪ねてくるが、セルゲイはすぐ答えを用意できない。

 島唯一の村ラ・ウィーマに煙が上がっているのも見えた。

 これも演技、筋書なのか? 村人を巻き込む話など聞いていない。ましてや追い詰めるなど。

 打ち合わせを遥かに超えた予想外の展開に頭が真っ白になる。


「ドーガスさん!」


「状況は!」


 ドーガス――もっとも経験ある指揮官が吠えた。セルゲイに遅れてやってきた副将の顔も青ざめている。つまり、本当に不測の事態である。


「ラ・ウィーマ村が燃えて、住民が自主避難しているようです! 聞くと、ルジアダズ海賊団に襲われたとのこと。出会う者から救助を要請されています」


 騎士の一人が答えると、ドーガスは頷いた。


「わかった。まずはペデスタル城へ! 王太子妃殿下の救出を優先!」


「ドーガス卿! 島民の命も救うべきだ!」


 その時、声と敬礼を揃えた騎士の中から、異論を唱える声があった。

 同時に騎士たちが手にしていた松明が一際赤く燃え上がり、その男の顔を照らし出した。

 なんとグレイズだった。珍しく背筋をぴんと伸ばした彼は果敢に噛みついている。


「我々は正義成す騎士だ。乞われたのなら救おう。それが騎士道ではないか」


 反対に、副将の顔は青ざめていた。それでもなおドーガスは落ち着き払っていた。


「仰る通りです。しかし殿下、それではマルティータ様が――」


「マルーがいるというその城には私が向かう」


 と、きっぱり言い放ち、王子は集まった全員を見回した。


「元よりこの島を占拠していた海賊の討伐が私たちの任務だろう。ここは二手に別れて一気に討とう」


 炎が闇から浮き彫りにしたグレイズの姿があまりに凛々しくて、セルゲイは我が目を疑った。

 正義と勇気に心を熱く燃やしながらなお、彼は上に立つ者として冷静に振る舞っている。


「セルゲイ以下は私と共に海賊の根城――」


「ペデスタル城」


 セルゲイが熱に浮かされたように一言添えると、王子は頷いた。


「ペデスタル城へ。村を襲っている今、城は手薄のはずだ。この好機を逃さない。城を取り戻した暁には、我が軍の旗を掲げる。無ければ私のマントを。ドーガス卿以下はラ・ウィーマ村へ海賊の排除と村民の救助に向かってくれ」


「グラスタン殿下……!」


 騎士ドーガスの感服しきった顔といったらない。陶酔とまではゆかぬが、感激に似た表情だ。

 その後ろに続く仲間たちも同様で、各々が秘めていた勇気や闘志が露わになったようだ。

 なぜわかるのか。それこそ説明は必要ないだろう。

 この場で誰よりも心を熱く震わせているのは、セルゲイなのだ。

 この短時間で、グレイズは打開策を立案し、指揮を取り、その上で仲間を奮い立たせてしまった。人は追い詰められると本性を見せるというが、王子には先天的な君主としての才があったようだ。それも、人心をも掌握する名君の片鱗が見える。末恐ろしいものだ。

 奇しくも国王ブレンディアン五世の目論見は既に大成功を修めつつある。

 あとはこの茶番を終わらせるだけだな。

 セルゲイの剣と盾とを握る拳が固まった。


***


 作戦を共有しあった一同は、海賊が根城にしている――という設定の地へ急ぎ向かった。

 ラ・ウィーマ村にさしかかると、二手に分かれた。

 あちこちに火の手が回っている。放火は自明で、家庭での火の不始末による火事ではない。

 最悪だ。木々の燃えて爆ぜる音と、下卑た高笑いとが混じりあい、地獄の様相だ。

 燃えさかる家の中からはみすぼらしい装いの男たちが金目のものや女子どもを引きずり出していた。ぞっとした。魂の抜けた肉体を愚弄する悪趣味な男をセルゲイは一思いにぶった切った。絶命したならず者を蹴り転がし、顔を見る。知った顔ではなくて一抹の安心を憶える、

 ペデスタル城に向かう道すがらなので遺体を葬ってやることもできない。せめてもの思いで近くにあった布を被せたり、草むらに隠してやる。

 いくら欲求不満の塊である仕込み――従騎士たちでも、突然罪のない島民を蹂躙するなど、ありえない。そもそも筋書通りならば、海賊役の男たちはペデスタル城に待機し、グレイズ率いるシュタヒェル騎士たちとの殺陣を演じることになっていた。


「この、蛮族が!」


 悲惨な現場に耐えかねたのか、同行の騎士たちも生死にかかわらず村人を助けている。

 彼が倒し、足蹴にした汚い男の腕には、刺青がくっきりと刻み込まれていた。


「やっぱり本物か!」


 疑念が確信に変わり、セルゲイの全身が粟立った。


「どうして本物のルジアダズ海賊団がここにいるんだ!」


 たまらず虚空に叫んだが、そうしたところで誰もわからないに違いない。

 海賊に斬られた村人や、上陸した騎士に倒された「本物」の身体が次々と土の上に倒れ落ち、重なる。それを見ながら、セルゲイは心を鬼にして剣を握り直した。

 できることなら、助太刀したい。すべきだ。止まらない歯ぎしりに顎がこれ以上なく痛む。

 覚悟を決めろ、セルゲイ。俺はただの騎士じゃない。


「城へ急ぐぞ!」


「あ、ああ!」


 セルゲイは背後にかばう主君グレイズではなく、自分に言い聞かせるように叫んだ。

 海賊と騎士とが炎の中で戦う地獄のような光景に自らも入り込み、警戒しながら進む。

 そのうちに、比較的小綺麗な格好をした海賊男が倒れているのに気づいた。

 刺青は無い。思わずセルゲイが屈むと、グレイズが剣の切っ先を男に向けた。


「セルゲイ、離れろ!」


「待て!」


 騎士の心臓がきゅっと縮んだ。


「ゾラ、ゾラ!」


 彼はシュタヒェル騎士団の従騎士エスクワイアで、今回の茶番のために海賊役を買って出てくれた一人だ。

 頬を軽く叩き、口元に耳を近づけて息を確かめる。彼の心臓はまだ動いていた。


「誰か、ゾラを!」


 セルゲイの声に応じて駆けつけた従騎士に知人を頼む。


「セルゲイ、なぜ海賊を助ける! この村を襲った蛮族だぞ!」


「説明はあとだ!」


 セルゲイは主君に背を向けて勢いよく立ち上がった。

 困惑する彼の顔を今は見たくなかった。それに今、真相を伝える時間の余裕などない。


「とにかく城へ行こう、グレイズ! マルティータ様が危ない!」


 騎士が王子の肩を掴んだ、その時だった。

 天をつんざくように高く、大地を揺るがすように低い咆哮が、あたりに響き渡った。

 生まれて初めて聞く、世界がひっくり返るような轟音に咄嗟に耳を塞ぎ、声の主を探す。


「あれは、マルー!」


 すると騎士よりも先に、王子が勢いよく駆けだした。

 一呼吸遅れて見た方向には黒い城の影が、そして城の上には巨躯の生物が翼を広げていた。

 陽炎かもしれないその影は、本の中にしか現れない伝説の生きものドラゴンを髣髴とさせた。

 その足元に小さくいるのは誰だろう。スカートと赤髪を弄ばれる娘のシルエットだ。

 ドラゴンとプリンセス。

 状況が許さないのに、セルゲイの脳裏にぼんやりと童話の挿画が浮かび上がる。


「……聞いてねえよ……」


 セルゲイの顎先から、つうっと汗が落ちていった。

 なのか? 本当に?


「聞いてねえよ!」


 騎士の雄叫びが、空を赤く焦がす炎の穂先に混じりあった。

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