8、最高で最低の日

 グレイズは、晴れて国王近衛騎士となったセルゲイ・アルバトロス――同い年の騎士にして唯一の〈盾仲間〉が下がるのを見届けた。

 心臓が張り裂けそうに暴れている。これで終わりではない。次は、自分の番だ。

 一度下がり、傍に控えていた大臣の手を借りて、騎士のマントを王太子のシロテンのマントに替えると、再び〈水の祭壇〉の前に向かった。

 頬に、背に、後頭部に、参列者の注目を浴びる。痛いほどだ。視線が矢ならば、グレイズは穴だらけになっていただろう。彼らに悪意はないことはわかりきっている。参列者の誰もが、今日、この日、これからヴァニアス王国の新たな歴史が刻まれるのを目に焼きつけんとして、常春の庭へ集まったのだから。だが、壺中(こちゅう)の自覚があればこそ、萎縮せずにはいられない。

 この無数の目に慣れる日が来るのだろうか。

 真新しいシルクのスーツは、グレイズを守ってはくれない。

 遠い未来に持つ錫杖や宝玉、王冠でさえも。

 祭壇の前で待つ時間は、永遠のように長かった。

 視界の端で、セルゲイが身じろぎをした。日頃飄々としている彼でも、緊張することがあるようだ。もしくは、儀式に飽きたか。

 セルゲイらしいな。そう思うと面白くて、グレイズのわなないていた指先が次第に落ち着きはじめるから、不思議だ。

 その時突然、奏者の素早いブレスがあった。

 あまりにも大きく聞こえたそれにグレイズが体ごと驚いた瞬間、コルネットたちが高らかに祝福の和音を天空へ捧げた。

 天も、明るい響きと小気味よいリズムを喜んだらしい。

 雲間がみるみるうちに開き、常春の庭へ陽光が惜しみなく降り注ぎはじめた。

 間もなくだ。渇いた喉にはもはや、飲み込むものは何もない。

 コルネットの余韻が残る中へ、微かな鈴の音がどこからともなく混じりだす。

 清涼な音色に気づいた参列者たちがざわつく。彼らがまばらに首をまわしたそのほうから、スィエル教の司祭を先頭に、神職の乙女たちの行列が現れた。

 鮮やかな刺繍の白装束を身に着けた彼女らは、左右それぞれの手に鐘と香とを持っている。

 涼しげな音と香りとをあたりに振りまいて、場を清めているのだ。

 水を打ったように静まりかえっている中、乙女たちの鐘の音と、行列のしずしずとした足音、〈水の祭壇〉から生まれ続ける小川のささやかな流音が、いつになく大きく聞こえる。

 その行列の殿しんがりに斎主たる神子姫ミゼリア・ミュデリアが、そして神子姫の手前には、グレイズが待ちわびた生娘の姿があった。

 顔はヴェールに覆われていて、見えない。

 ああ。

 グレイズはこみあげた思いを吐息にして、落とした。

 早く、顔を見たい。

 グレイズは少女の乳臭い面立ちがふっくらと熟し開花するさまをずっと見てきた。

 成人を待つ日々、会えずにいた一年で彼女はまた一段と美しくなった。

 それでも、飽きることはない。いつどんなときでも、彼女を見つめていたい。

 全身をうち震わせる昂ぶりは恐怖や緊張ではなく、期待だ。

 出会った日から消えることのないときめきの熾火が熱い炎で心を燃え上がらせる。

 ただ一人、純白のドレスを身に纏っているマルティータは巫女たちの中にあってさえ、一際目立っていた。

 彼女が一歩踏み出すたびに、真っ白なドレスと薔薇色の髪にちりばめられた真珠が、星々のように煌めく。たっぷりとした裳裾は流れ星の穂のようだ。薔薇色の髪に繻子のヴェールが垂れ落ちるさまは、淑やかな彼女にふさわしかった。

 さらに、グレイズは知っている。

 聡明な頭脳と銀色のまなざしが、白光がごとき清らかな装いの下に秘められていることを。

 王子にとってこの世で一番の宝物――花嫁がしずしずと、ゆっくり近づいてくる。

 他でもない、グレイズと結ばれるために。

 マルティータが壇上のグレイズの隣に並び立つと、ふわりと、甘く華やかな香りが王子の鼻をくすぐった。第一印象は、弾ける果実のように爽やかなのに、鼻を抜けると蜂蜜のように、とろりとした甘さを残す。この日のために拵えた香水だろう。彼女をよく表現している。春風のように明るく気まぐれで、花開く予感まで誘う。マルーの白い首筋に顔をうずめたら、もっと甘い香りに満たされるのだろうか。

 しばしうっとりとしたグレイズだったが、まだ結婚の儀式は始まってすらいない。

 気を取り直した王子の視野に、黄金の輝きが訪れる。

 神子姫ミゼリア・ミュデリアだ。

 彼女は二人が一歩ずつ退いた間を進み、司祭と乙女たちが壇の下で膝をつく。

 それに倣い国王が、そして神子姫以外の全員が同様にした。

 神子姫が深々と腰を折ったのに合わせて、グレイズも頭を垂れた。


「母なる海よ、父なる大地よ、精霊たちの御手により我らに今日という日をお与えくださり、感謝します。あなたがたの娘にして〈ヴァニアスの神子〉ミゼリア・ミュデリア・ロテュシア・ヴァニアスの名の下、祝福を賜りますよう、我がスィエルをもてかしこみ申し上げます」


 スィエル教徒にとって、〈水の祭壇〉のような聖地での神前挙式はもっとも尊いものである。

 ヴァニアスの国教スィエルは、自然とその中から見いだした神を信奉する多神教だからだ。


「偉大なる母なる海、父なる大地、八百万の神、坤輿こんよを巡りしマナと精霊の御名みなの下、神子の祈りを捧ぐ。精霊の花嫁たる神子の名はミゼリア・ミュデリア。我が名において請う。今日この日、契りあう男女に祝福を与え賜わんと、畏み、畏み申す」


 神子姫の静謐な語りかけに応じるように〈水の祭壇〉の中央から光が溢れだす。

 それはまるで、水面に触れた神子の手のひらから滲み出しているようでもある。

 青白い光は、色味に反して木漏れ日のように暖かい。

 ミゼリア・ミュデリアの細い肩がゆったりと上下した。

 それを合図に、グレイズは瞳を閉じた。

 水ともわかる。隣のマルティータも同様にしたことだろう。


「この者たちのスィエル灯火ともしびを繋がんとて、火よ、の者たちを暖め賜え。この者たちのスィエル、息吹を常に新たにせんとて、風よ、彼の者たちに吹き賜え」


 神子姫の語りかけに応じて、光がどんどんと強まる。

 暖かい光はグレイズの閉じている瞼の血の赤までも透かして見せる。


「この者たちのスィエル、血潮を満たさんとて、水よ、彼の者たちと共にあれ。この者たちのスィエルと肉体を繋がんとて、土よ、彼の者たちに豊穣なる恵みを与え賜え」


 神子姫のか細い喉から紡がれる祝詞は歌うようになめらかで、耳に心地よく、淀みない。

 ふくよかで豊潤なメゾソプラノの響きはかつて彼女が歌ってくれた子守歌のそれを思わせた。

 不思議な安心感に包まれながら、グレイズは耳を傾ける。


「光よ、闇よ、裏腹なるマナよ、絶えず手を取り合い、この者たちに多幸なる刻を与え賜え。我、光の神子なりて、汝の花嫁なり。彼の者たちに祝福を」


 ミゼリア・ミュデリアの声が消えると、瞼を照らしていたまばゆい光は波が引くようにだんだんと収束していった。


「なおりなさい」


 神子姫の静かな声に、グレイズを始めとする一同は、それぞれに顔を上げ、立ち上がった。

 グレイズは白く長い裳裾の花嫁に手を貸した。

 ゆっくりと祭壇から降りてきたミゼリア・ミュデリアの手には、ナイフがあった。

 金と銀、真珠とダイヤモンドが惜しげも無く使われたそれは、この儀式のために祭壇の泉の中で清められていたものだ。

 いよいよだ。グレイズは乾ききった喉を上下させた。

 頬に視線を感じて、ちらとその方を見る。

 そこではマルティータが薄いヴェールの下から銀色の瞳を不安そうにまたたかせていた。

 神子姫が、グレイズとマルティータの目前に降り立った。


「〈ギフト〉の交わりに、腕を」


 宣言に意を決したグレイズは利き手ではない左手を差し出した。

 隣の娘もおずおずと右手を差し出す。彼女は左利きだった。

 ミゼリア・ミュデリアはその手のナイフで、最初にグレイズの、次にマルティータの手首を浅く傷つけた。

 ぷっつりと膨らむ赤い血のしずくが垂れる前に、新郎新婦はその傷跡を触れあわせた。

 その身に流れる血、その血に宿っている〈ギフト〉を交わらせること。

 これこそが、スィエル教徒の結婚、契りの真髄であった。

 全身が粟立ち、ぞくりとした。

 体がこわばりながら、反面、愛しさと切なさに脱力してしまいそうでもある。

 それは、マルティータも同じだったようだ。

 戸惑いに似た銀色のまなざしがグレイズにすがりつく。

 花嫁のくちびると紅潮した頬に、まだ二人が知らない、恍惚の色さえ滲んで見えた。

 その瞬間、どこからともなく沸き起こった拍手に二人は包み込まれた。

 中庭、そして中庭を見下ろす回廊に押し寄せた人々が、ウィスティリアの花びらのシャワーを振りまいてくれる。

 夢を見ているような気分で空を仰いだ。

 ふと、隣を見る。

 そこでは、丸い顎と頬とを上げて手を振るマルティータがいた。

 幸せそうな彼女の顔だけで、息苦しかった十八年の人生が報われるような気がした。


***


 荘厳な婚儀のあと、新郎新婦は用意されていた馬車に乗り込んだ。

 ピュハルタ市街にて凱旋パレードを行うためだ。

 白と金で塗られた馬車は、この日のために作られた特注品である。

 互いの親に見送られてベルイエン離宮を発ち、白亜のピュハルタ市街へ出ると、静かな祈りの街が嘘のように賑わっていた。

 男たちは諸手を挙げて、女子どもは頬を染めて手を振ってくれる。

 その景色に、グレイズはうっかり涙ぐんでしまった。

 黒髪碧眼の王子――〈獅子王の再来〉と謳われつつも、その実、軟弱者のグレイズである。

 国民新聞ネイティオに風刺されるとおり、次の世を治めるにふさわしくないと自分でも思っているのだ。

 そんなグレイズのことを、国民は手放しで受け止めてくれた。

 寄せられた期待がなんであれ、この誇らしさを胸に彼らに応えたいと思わせられる。


「グレイズ様」


 マルティータが潤んだ瞳で見上げてきた。

 感極まったあまり、手のひらを彼女の手ごと握りしめてしまったようだ。


「す、すまない……!」


 慌てて緩めると、新妻は楚々と首を振った。笑顔なのに、今にも泣きだしてしまいそうだ。

 美しい表情が、彼女をより一層輝かせる。目が離せない。

 すると、見つめあう幸せな夫婦のゆりかごの横に、栗毛の馬が乗り付けた。セルゲイだ。

 鬣と尾っぽを丁寧に編み込まれた彼の馬が牝で、チェスナという名前なのをグレイズはよく知っていた。黒々としたつぶらな瞳が今日も愛らしい。


「セルゲイ様」


 隣に座るマルティータが手を振ると正装の王子近衛騎士は胸を張り肩をそびやかして見せた。


「凜々しくていらっしゃいますわ」


 新米騎士がニヤリとする。美女に見栄を張るとき、きまって彼の太い眉がぴくりと動く。


「殿下よりも?」


 グレイズがどきりとしたその時、花嫁がくすくす笑いながらよりかかってきた。


「それは、ごめんあそばせ」


「でしょうね」


 セルゲイはさも傷ついたというふうに両眉を傾けたかと思いきやすぐにくしゃりと破顔した。

 顔面に皺が寄るそれはまさに満面の笑顔で彼の長所――そしてグレイズの憧れの一つだった。

 ゆっくりと進む行列が中央広場にさしかかろうとしたところで、御者が急に手綱を引いた。

 前へ、馬車ごとつんのめるマルティータを、グレイズはその身を挺して抱き留めた。


「何事だ!」


 騎士たちがざわめく中、行列からは無数の嘶きが、観衆からは悲鳴が沸き起こる。

 セルゲイは愛馬を巧みに操り、ゆっくりとグレイズの近くで止まった。


「俺、見てくる」


「あ、ああ……」


 騎士が真新しい金の拍車をかけて去ると、馬車の周りと行列の先頭にそれぞれシュタヒェル騎士が集まってきた。

 剣を鞘から引き抜き警戒を強めるグレイズの耳に、奇妙な声が聞こえてきた。


「やあやあ、ご機嫌よう!」


 わざとらしい抑揚のついた男の声だ。耳につくそれが、どこからするのかはわからない。


「本日はお日柄もよく――」


「グレイズ、上だ!」


 チェスナを走らせてきたセルゲイが、天に弓を構えていた。そのほうを咄嗟に見上げる。

 そこには、建物よりも背高に伸びた蔓が蠢いていた。

 蔦がミミズのように犇めく上には、全身をローブで覆った人物が立っている。

 目深にかぶったフードと逆光で、顔まではわからない。


「魔術師か……!」


 騎士たちは編成を変え、観衆を避難させる一方、不審者を撃退するために動き出した。

 魔術師に向かって、次々と矢が注がれる。


「おいらに話をさせておくれよ」


 と、声がした、その瞬間だった。


「いやっ」


 グレイズは、少女の悲鳴に思わず振り返った。

 マルティータに蔦が迫っていた。

 彼女の足元からにょきにょきと伸びているそれは、細い足首に巻き付いている。


「マルー!」


 咄嗟に剣を引き抜く。

 グレイズが剣で切るのも追いつかず、蔓はどんどんと太く長く伸びては花嫁に巻き付く。

 諦めずに剣を入れ続るも、蔓はマルティータを隙間なく包み小さな籠のようになった。


「グレイズ様!」


 籠の隙間から必死に伸ばしている手を掴む。

 グレイズがぎりぎりまで握りしめていた手はするりと抜けて、王子の手の中には、レースの小さな手袋だけが残された。

 異常な速度で成長する蔓が二人を引き離し、マルティータの籠は矢の雨の中に向かってどんどん登ってゆく。


「打ち方、止め!」


 シュタヒェル騎士団長デ・リキアの命令が轟いた瞬間、騎士たちはその手を一斉に下ろした。

 あたりには、しゅるしゅるという蔓の成長する音だけが残った。


「ようやく聞く態度になったね」


 花嫁を奪った魔術師は一同を見下ろして、満足げに頷いた。


「おいらはルジアダズ海賊団ヴィルコ・オルノスの左腕、土の魔術師キールヴェク!」


 グレイズはぞっとした。

 ルジアダズ海賊団のヴィルコといえば、父ブレンディアン五世の宿敵だ。

 私怨を拗らせて、嫌がらせに来たのだろうか。

 グレイズの頭が真っ白になる。先ほどまでの幸せが、嘘のようだ。


「マルティータ姫を返してほしくばペローラ諸島はサフィーラ島に来い! どちらがペローラを治めるにふさわしいか、そこで決着をつけよう! それまで、姫は預かっておく!」


 魔術師キールヴェクは、グレイズが苦戦した蔦をあっという間にほどくと、その中に囚われていたマルティータの腰をとり、その場から姿を消した。


「誘拐だ!」


「なんてこと……!」


 ある者は泣き、ある者は猛り。まさに阿鼻叫喚、大事件の発生にあたりは騒然とした。

 傍にいる騎士団を直接糾弾する者もいる。


「軟弱者!」


 心無い誹りにグレイズの肩が落ちた。

 民衆のするように、泣きも叫びもできない。できたら、どれだけよかったのだろう。


「マルー……」


 最高の日は、たちまち最低の日になってしまった。


***


 ルジアダズ海賊団による王太子妃マルティータの誘拐に一番腹を立てたのは、国王ブレンディアン五世だった。

 怒り心頭の彼は、王太子グラスタンを大将に、シュタヒェル騎士団副団長、ユスタシウス・ドーガスを副将に据え、海賊団の殲滅と王太子妃の救出を命じた。

 あらゆる支度が滞りなく進んだ。

 国民の見送りを背に王太子のための新造ガレオン船〈栄光なる王子プリオンサ=グローマ〉号とその一団は、ヴァニアス島の西岸、港町セウラを西へと出航した。

 目指すはファーラシュ海を包むペローラ諸島、サフィーラ島だ。

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