7、〈盾仲間〉

 人懐こい性格、二枚目を自負する相貌、騎士として鍛え上げた若々しく男らしい肉体、場面や言葉にあわせて自由自在に多彩な音色を奏でられる、チェロのようなバリトン。

 どんな女性であろうとも二人きりになってしまえば籠絡できるという絶対的な自信を持っているセルゲイでも、三十歳年上のミゼリア・ミュデリア――神秘の力を宿す神子姫相手には、さすがに緊張した。

 まだ少年と呼べる年齢の従騎士を招いた彼女は、壁紙から家具、カーテンなど、全てが光を跳ね返す純白のサロンで、寝椅子に腰掛けた。

 風が、うっすらと開いた窓ごしにレースのカーテンを揺らしながら入り込んできた。

 甘い香りに誘われてか、クロッシェで彩られた清楚な胸元がゆったりと上下する。

 その時、目が合った。木漏れ日のような微笑みがとろりとこぼれる。


「ようやく、二人きりになれましたね」


 色白の相貌の上、陽に透ける黄金の睫毛が羽ばたく中央にはエメラルドがはめ込まれている。

 まるで双子のブローチのようだ。


「はっ」


 穏やかなアルトは微笑み同様に暖かい。だのに、ぴんとまっすぐになって動けない。

 小姓時代、騎士ドーガスから服の背中に突っ込まれた堅い定規の感触を思い出す。


「グラスタンとともにお頑張り」


 ミゼリア・ミュデリアは、きっぱりと言い切った。

 まるで母親にされるように、全てを知られ、見透かされたような気持ちがする。


「はい。俺を救ってくだすった殿下に、この身の限り、恩をお返しします」


 敬礼するセルゲイに、神子姫は満足げに頷いてくれた。

 彼女のけぶるような金髪が、ふわりと頬の周りで揺れては煌めく。

 そして二人は、見つめあった。

 不思議な沈黙が二人の間を埋める。

 長い間――いや、もしかしたらほんの数十秒だったのかもしれないが――黙りこくっているうちに、セルゲイはきょとんとしてしまった。俺はどうして呼び出されたんだっけ?


「あの、もしかして、それだけ……ですか?」


「ええ」


 神々しく微笑む神子姫も同様に小さな困惑を見せ、何が不満かと問いたそうでもある。

 いや、聞きたいのは、俺のほうですが!


「予知とか、未来視とか、そういうので俺にアドバイスを授けてくださるのかと――」


「視るには、視ましたわ」


 息巻き、前のめりになった従騎士を、神子姫は真っ白な手のひらで止めた。

 そして身を固めたセルゲイを一瞥すると、その手で大理石のテーブルに載っていた貝殻のように白いカップを摘まんだ。それを優雅に口元へ運ぶ。


「それに何の価値があるかしら」


 神子姫がつまらなそうにする理由は自明だ。

 彼女は王家に代々現れる神通力を持つ〈ヴァニアスの神子〉――国教スィエルにおいては、宗主であり現人神のような存在である。彼女の〈ギフト〉――治癒と予知の魔法を求める人々は後を絶たない。予知能力のあるミゼリア・ミュデリアにとって、未来が無味乾燥なものであったとしても無理はない。だが、それとこれとは話が別である。


「俺、気になります! だってこれから――!」


「けれど、未来――らしきものを知ったところで、先立つのは不安ばかりだわ」


 神子姫が尖らせた口のまわりに微細な皺が寄る。


「それに人生なんていくらでも転がるものです。それはお前が一番よく知っているでしょう。一つの出会いが、言葉が、行動が、これまでの、そしてこれからの運命をいくらでも変えてしまうことを」


 乾いたアルトを潤すためか、ミゼリア・ミュデリアは再びカップを口へ運ぶ。


「……だから、俺を御前試合に推薦してくだすったのですか?」


 セルゲイの問いは、ほとんど確信めいていた。

 御前試合を最後まで勝ち抜いたセルゲイだったが、当初は参加を辞退していた。

 しかし、他でもない神子姫がそれを引き止めた。

 彼女がわざわざ口を出す珍事に、国王や騎士団は驚きつつも了承した。

 結果、呪わしい事件を招いてしまい、後悔と懺悔の日々を過ごす羽目になった。

 今もそうだ。図らずも勝利の一打となった重たい手応えごと、夢に現れる。

 倒れた親友の血の臭いと呻きでさえも、ありありと。


「あれは、決まっていたことなんですか? 俺がフェネトを傷つけることがあらかじめ決まっていて、その結果グレイズの〈盾仲間〉に選ばれる、そういう未来を導くために俺を?」


 神子姫はゆるりと首を振った。


「運命を選んだのはフェネトのほう。自分を責めないこと。お前はよく頑張りました。わたくしはグラスタンが求めるに足る人選をしたまで」


 ミゼリア・ミュデリアはおもむろに寝椅子から両脚を下ろし、自ら身を屈めてポットを手にして、茶をくんだ。


「グラスタン、自分の殻に閉じこもっている気の毒な子。嵐の人生、自由は本の中ばかり。わたくしがしてあげられることはあれぐらい。ああ。マルティータのこともあったかしら」


 カップの中に顔を映していた彼女は、緑の瞳をついと少年に向けた。


「けれど、人を見る目はある。そうでしょう?」


 どきりとした。

 確かにグレイズは、どこか人とは違う観点を持っていた。

 乗馬が苦手だというのは優しさの裏返しで、金属製の拍車で馬の腹を蹴る行為に罪悪感があるからだと見てすぐにわかった。降りられないのも同じ理由だ。

 ピュハルタ市街では、行き交う人々の顔や家並み、あるもの全てをまるで今生の別れに記憶へ刻まんとするがごとく、一つ一つ注視し愛でていた。本人ではないのでわからないけれど、樹や花の根や、飛ぶ虫の翅の付け根、人の心根までもを見抜こうとする情熱、あるいは執念に似た何かを感じるのだ。おそらく、本人にも自覚はないだろう。

 不幸なことに彼はこれまで自分を的確に表現する術を両親たちからことごとく奪われてきた。

 この一年、彼の側仕えとして窮屈な生活をともにしてわかった。

 用心を重ねるうちに、沈黙を守りながら、注意深く観察をする力が身についたに違いない。


「単純に、お前たちはいい友だちになれると思うのだけれど」


「どうでしょう」


 セルゲイは顔を背けた。かつて親友フェネトを体もろとも傷つけた過去のある自分である。

 これから二度と、親友――ひいては友と呼べる存在を持てはしないだろう。

 友だちになりたいとわざわざ言ってくれたグレイズには、こんなことは言えないけれど。


「ゆっくりでいいわ。でもお前の優しさが必要なの。グラスタンのことを頼みます。それから、最後に……」


 ミゼリア・ミュデリアは、もうひとつのカップにお茶を注ぎ、セルゲイへ差し出した。


「片足の男に気をつけよ」


***


 叙任される従騎士は、前日に身体を清めて一晩中祭壇へ祈りを捧げねばならない。

 ケーキを一切れいただいたあと、セルゲイもその例に漏れずおこなった。

 しかも礼拝堂ではなく聖地〈水の祭壇〉で祈祷できるという、先輩騎士も羨む好待遇だ。

 明日、時を同じくして王国の騎士として叙任されるグレイズ――たった二人の〈盾仲間〉は、〈水の祭壇〉をセルゲイに譲ってくれた。気を遣うなと言ったが、王子は小さく笑った。 


「君にこそこの場がふさわしい。それに私は開けた場所は苦手だから」


 今この時、別の場所で、グレイズもこの世のマナとスィエルへ祈りを捧げているに違いない。


「片脚の男に気をつけよ」


 それにしても、神子姫ミゼリア・ミュデリアから最後に授けられたのが警告とは。

 満開のウィスティリアの花が揺れる常春の庭でただ一人、セルゲイはぼうっと瞑想をした。

 あまり集中できなかったけれども、つとめて。


***


 翌日、〈白羊の月ラーム〉二日、セルゲイが叙任されるこの日は特に晴天に恵まれた。

 流水が輝けば咲く花も鮮やかに香り、参列する人々の表情も明るい。

 しかし昼の光の眩しさは、夜更かしを強いられた従騎士には呪わしいものだった。


「セルゲイ・アルバトロス、前へ」


 突然名を呼ばれて、少年は身体を小さくびくつかせた。

 そう、今は叙任式の真っ最中なのだ。ぼうっとしていて忘れそうになる。

 無意識に一歩を踏み出す。

〈水の祭壇〉からこんこんと湧き出す爽やかな水の音、決して枯れることのないウィスティリアの花びらが舞う常春の庭にて、ヴァニアス国王と王妃、王子、神子姫、議員やシュタヒェル騎士団長果ては実家であるアルバトロス商会の面々など数えきれぬ人々の注目を全身に浴びる。

 トレードマークの鷲鼻に始まり、緑青色の瞳、丁寧に撫でつけて結んである真鍮色の髪の毛一本ずつでさえ審査されているような、奇妙な緊張感に背筋が伸びる。

 身につけているシュタヒェル騎士団のお仕着せの下、素肌や体毛、毛穴にまで視線が刺さって暴かれているような気がしてくる。女の子とのデート以上に緊張する。

 場違いな考えが頭をよぎるのは寝不足のせいだろう。

 セルゲイは自戒にくちびるをぎゅっと引いた。式次第を忘れちゃいけないからな。

 濁りなき深紅を湛え貴人の道を彩る絨毯は、セルゲイの銀の拍車がついた踵をしっとりと受け止めてくれる。日頃土埃にまみれているブーツを砂粒一つ残さず完璧に磨き上げさせられたのも、これを汚さぬためだと思えば納得がいく。

 もしかしたらその赤さは一〇〇〇年弱の歴史の中で青き血持つ高貴なる王族のために流れてきた血の深紅かもしれない。少年は想像と一緒にごくりと生唾を飲み込んだ。まさかな。

 セルゲイの行く先、剣を携え未来の騎士を待っていたのは、世継ぎの王子グレイズだ。

 まっすぐに突き立つ長身痩躯に、色は違えどシラカバの佇まいが重なる。

 黒髪の上から金のティアラをはめている彼は顔を緊張に引きつらせている。

 これが彼の初めての公務だからと、セルゲイは知っていた。

 近づくと、グレイズの青い瞳が海のように波立っているのがよりくっきりと見えた。

 俺がいるぜ。セルゲイがぐいと口を引いてウインクを送ると、王子はぎくしゃくと頷いた。

 それを見届けると、セルゲイは恭しく片膝をつき、こうべを垂れた。

 耳に、しゃらりという金属音が聞こえたと思いきや、右肩の上に剣身が置かれた。

 王子は無言のまま剣の両面でセルゲイの肩口を叩く。

 剣はやがて去り、再びあの涼しい音が届いた。


おもてを上げよ」


 ほう、と静かで低いため息が厳粛な場に落ちる。

 鞘に戻した剣を、そして盾とマントを、最後に金の拍車をセルゲイに与えた。

 今日この時から、セルゲイは本当に王太子グレイズの騎士――王子近衛騎士となった。

 これで二人は晴れて、同時に叙任を受けた〈盾仲間〉だ。

 グレイズもこの日、セルゲイを先立って国王ブレンディアン五世の名の下に騎士として刀礼を受けたのだ。

 グレイズが口を開いた。

 そのはずだったが、言葉は数回の咳払いのあと、ようやく聞こえてきた。


「な、汝……」


「殿下」


 セルゲイは小さく、しかしくっきりと遮った。あたりのどよめきが大きくなる前に続ける。


「俺と殿下はたった二人の〈盾仲間〉。どうか、殿下の心からのお言葉を頂戴したく」


 ほう、と感嘆と納得、賞賛と期待の声と拍手がさざ波のように起きる。

 王子は意外そうに瞳を丸めて観衆を見渡すと、彼らを慣れぬ手つきで納めてから、深呼吸に肩を上下させた。甘い風が吹きつけ、グレイズの黒髪を優しく揺らした。


「セルゲイよ。我が剣であれ、盾であれ、師であれ、よき友であれ」

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