6、王子と赤薔薇姫

 今でもありありと思い出す。グレイズはあの日、生まれて初めて自分の名で騎士団長デ・リキアと副騎士団長ドーガスを呼びつけて、宣言した。


「除名は撤回せよ。謹慎が明け次第、従騎士セルゲイ・アルバトロスを我が従者とする」


 そして自ら説得し選びぬいた騎士にして友になりたい男こそセルゲイであったものの、悲しいかな、グレイズにとって彼はもっとも不得手とする人間だった。

 当初、会話を試みるも一言で終わるあっけらかんとした調子には肩透かしを食らった。

 同い年である以外の共通点が見あたらず、話題も見つけられない。そのうち過酷な修行と国王の禿げ頭に対する悪態を聞くことが増えたが、同調したくとも悪口は主義に反した。

 よく言えば豪快、悪く言えば粗雑な彼は実に戦士らしいし、そこに憧れる部分もある。

 しかし、知的か、あるいは信頼に足るかと問われると、まだ疑問が残るのも確かだ。

 女性を敬い大切にし〈愛の歌ミンネ〉も捧げることのできるフェミニストである点は大変好ましく評価できたが、初対面の女とでも一夜を共にするという、グレイズの貞操観を逸脱した、とんでもない噂も数多く聞いた。好意的にとらえるならば、男性社会出身のために、女性の魅力にめっぽう弱いのだろう。そうだとしても騎士があからさまに鼻の下を伸ばすのはどうかと思う。

 このようにグレイズにとって初めて接する人種なので、この一年ストレスは少なくなかった。

 そして御前試合から一年後である今日、グレイズは初めてセルゲイと二人きりになった。

 なれた、と言うほうが正確かもしれない。二人の従騎士は国王ブレンディアン五世に付き添ったりしごかれたりの忙しい日々を過ごしてきたから。

 初めて下した命令に、まだどきどきしている。セルゲイを呼びつけた神子姫の意図は知れないが、ならばと息巻き、グレイズも小さな冒険に出たのが、今回の旅路であった。

 道すがら盗み見たセルゲイは、年の近さが嘘のような屈強な肉体を持っていた。

 その横顔は実に静謐、彼を特徴づける鷲鼻も素敵で同性ながら見惚れてしまうものだった。

 いったい、何を思っていたのだろう。

 グレイズは、愛しいマルティータに通されたベルイエン離宮の中庭で、誰も見ていないのをよいことに、東屋のベンチに腰掛けるなり両の手足を投げ出した。

 わからない。

 いくら騎士の心中を想像すれども、グレイズはセルゲイではないので微塵も理解が及ばない。

 裏表のない性格のようだが、何か隠し事の一つや二つ、あってもおかしくはない。

 しかし。グレイズは呻った。主君が従者の全てを知る必要はないのか。

 けれど言ってくれたではないか。少しずつ相手のことを知るべき、擦り合わせるべき、と。

 ため息は重たい。新鮮な空気を平たい胸いっぱいに吸い込むと、苦みある青草やほの甘いウィスティリアと咲きたての百合の凜とした香りが、混じりあいながら鼻を抜けていった。

 心地よさに、瞳を閉じる。祭壇から湧き出る清水が中庭の小川に注ぎ込む涼しげな音や、近く遠く日向を喜ぶ小鳥たちの戯れる声が、耳にも心にも優しい。

 聖都ピュハルタの最奥、白亜に輝く離宮ベルイエン擁するスィエル教の聖地〈水の祭壇〉は、いつ誰が訪れても緑と花に満ちている常春の庭で、グレイズのお気に入りの場所だった。


「スィエルの神々に祝福されているのよ」


 という、叔母――神子姫ミゼリア・ミュデリアの言葉がありありと蘇る。

 スィエルの聖地のほとんどが、ヴァニアス島の原住民ワニア民族――水色の頭髪と瞳、そしてその血に魔法の〈ギフト〉を持つ彼らが太古の昔から大切にしてきた場所だ。〈水の祭壇〉もその例に漏れない。歴史的観点から言えば、あとからやってきたソレナ民族――グレイズたちヴァニアス人の祖先が入植の最中に略奪した場所でもある。

 しかし皮肉なことに、こんにちのスィエルの教えはワニア民族の信仰に源流を持つ。

 こうした歴史的背景と特殊な血のために、ワニア民族のほとんどが淘汰されつつあるのは、今も昔も変わらない国政課題のひとつだ。

 グレイズは急な頭痛に顔をしかめた。学びを深めるごとに、課題がどんどんと現れる。

 歴史的な課題に限らず、現在、王家が直面している問題にしても、そうだ。

 ここしばらくの間、父王ブレンディアン五世は裏切り者ヴィルコ・オルノスに執心している。

 国王の愁眉の間に皺が深く刻みこまれた原因は、離叛した私掠船しりゃくせん船長ヴィルコ・オルノスが立ち上げたルジアダズ海賊団と、彼ら海賊がヴァーナ諸島にほど近い西方のファーラシュ海のペローラ諸島を我が物顔で行き来していることだ。

 海賊団の襲来に備え、シュタヒェル騎士団も臨戦態勢で海岸線を固めている。

 海運業にも影響が及んでいるのは自明で、セルゲイの生家であるアルバトロス商会も、武装商船団を結成したと噂に聞いた。

 どちらかが拮抗を破った瞬間、戦争が始まるのだろう。それが遠くない未来に思える。

 国政を知れば知るほど、問題が山積みだ。

 自分を含めてこんな調子では、未来になかなか明るい展望を持てない。

 

***


 忘れもしない。成人した二年前のこと、王子は王宮ケルツェルから単身飛び出し、聖都ピュハルタの離宮ベルイエンに逃げ込んだ。叔母は彼をただの甥として受け入れてくれた。


「お前の求める強さとは、何かしら」


 あの息苦しい夜、常春の庭の〈水の祭壇〉にて甥を清めながら国教スィエルの宗主ミゼリア・ミュデリアは新緑の瞳を一つまたたかせた。星空にも金髪が光そのもののように輝いている。


「知を有し、武に長け、この世の雄たること。覇王になることです、叔母様」


「それは兄様の言葉でしょう。お前は本当にそれでよろしいの」


 神にその身を捧げている聖なる処女おとめのまなざしは、実母のそれよりも温かく感じられるから不思議だ。事実、グラスタンを育ててくれたのは叔母とこのベルイエンの人々に他ならない。


坤輿こんよを巡るマナやスィエルでさえ、全知全能でも完全無欠でもないの。なぜだとお思いかしら」


「わかりません」


 と、惨めさと申し訳なさに涙を零しつつ答えると、叔母はその手で頬を包み込んでくれた。


「愛を知るためよ」


 その優しい言葉は彼女が癒やしの〈ギフト〉を持つ〈ヴァニアスの神子〉である証明のように思えた。そして彼女は言葉通り、グラスタンを本物の愛に導いてくれた。


***


 泉の聖水にて身を清められたグラスタンは、程なくして懐かしの自室に通された。

 ここならば安全だと思えたが、身体はまだ震えていた。恐怖か、嵐か、そのどちらもか。

 不安な気持ごと毛布にくるまったその時、扉が叩かれた。

 息をひそめ、身体をこわばらせていると、可憐な声があった。


「もし、もし」


 子どもだ。この幼いソプラノに、どれだけ安心したことだろう。


「何か?」


「起きていらっしゃった! マルティータと申します。お着替えをお持ちしました」


 扉越しにも微笑みが伝わるような愛らしい声につられて、グラスタンは思わず許可した。

 彼女は着替えを運んだと思いきや小さな手で大きなマッチ箱を使って蝋燭に明かりを灯してはそそくさと出て行き、次は甘い香りのする温かい飲み物を持って現れた。

 蝋燭の灯りに輝く赤髪、揺れる影、少し裾の短いスカートにぱたぱたと子どもらしい足音で一生懸命働く姿が危なっかしくて、目が離せない。


「では、失礼いたします――」


「待って」


 それでなのか、思わず引き留めてしまっていた。


「君は、大丈夫なのか」


「えっと、何がでしょう?」


 自分でも何を言っているのか訳がわからない。とにかく、彼女と話したかった。


「こんな夜遅くに働いて……眠る間もなく……その……」


 マルティータは大きな銀色の瞳をまんまるにしたあと、にっこりしてくれた。


「はい、とっても眠たいです。ですので、明日はお寝坊しようと思います」


「ふっ……」


 今度は、グラスタンが笑う番だった。侍女が堂々と寝坊を宣言するとは自由にもほどがある。


「アハハハ!」


 笑ったのはいつぶりだろう。覚えていないほど昔に思える。

 ケルツェル城では英雄の、世継ぎの、そして微笑みの仮面を強いられてきた。

 腹を抱えて笑う王子に、マルティータが真剣に戸惑っている。

 くちびるを尖らせて困惑する顔もまた可愛らしい。


「神子姫様もお許しくださいましたけれど」


「叔母様が?」


「はい、そうなんです。きっと神子姫様もお昼ごろまでぐっすりされますよ」


「それはいい。では、ともに夜更かしといこう」


「眠たくなられましたら、お休みくださいね、殿下。お布団をかけて差し上げますから」


 その夜、若い二人はそれぞれに毛布にくるまりながら話した。

 人見知りの自負があるグラスタンだったが、この娘とは肩肘張らずに会話を楽しめた。

 これこそが、公女マルティータ・サンデルとの出会いだった。当時十四歳であった。


***


 この家出から、ベルイエン離宮にて再び静養の日々を送ることになったグラスタンは、マルティータと少しずつ近づいていった。

 ある時は図書室で、ある時は常春の庭で、またはグラスタンの部屋で。

 叔母ミゼリア・ミュデリアの眼差しを近く遠く受けながら、二人は逢瀬を繰り返した。

 マルティータがサンデル公爵家の長女であること、ベルイエン離宮には修練を兼ねて神子姫の側仕えに出てきたこと、そして〈ギフト〉を持たぬことを教えてくれたなら、グラスタンも自らの不自由で窮屈な人生を零した。愛読書を交換し、読みあったこともある。何より、彼女は〈獅子王の再来〉の二つ名の重さに背を丸める学者気質の王子に寄り添ってくれた。

 そのうち、どちらともなくグレイズ、マルーと特別な愛称で呼び合うようになった。

 元々グレイズ・ルスランとは、マルティータがつけてくれたものだ。

上品グレイスでお優しく、慎み深い」から、グレイズと複数形にしたそうだ。

 長ったらしくけばけばしい実の名よりもこざっぱりとしているし、何より、世間が求める〈獅子王の再来〉グラスタンから遠ざかることができて、グレイズも気に入っていた。

 ルスランは言うまでもなく、二人の共通点の一つで大切な物語『ルスランとリュドミラ』からとったものである。

 持たざる者同士の孤独を分かち合える唯一無二の相手――マルティータの前でなら、自分らしくいられた。これから共に生きて、重ねていけばいい。 

 彼女に関わることならば未来も明るく感じられた。彼女の笑顔が咲く世界にせねばと思う。

 二人は高貴な出身と、非才なる己を責める昏い思いなど、いくつもの憂いと秘密、孤独とを少しずつ共有しあった。互いに恋に落ち、愛しあい、婚約するまでに長い時間は必要なかった。

 実際、ヴァニアス王国唯一の公爵家令嬢との婚約は、誰にも反対されなかった。

 あの厳しい父さえも、それまで各家から押し寄せていた縁談をすべて断ってくれた。

 そして、グレイズが十七歳の誕生日を迎えるころ、父ブレンディアン五世が離宮に現れた。

 彼はわざわざ迎えに来たのだ。


「妻を娶るならば、それに相応しい男になるのだ」


 要約すると、成人を迎えた王太子として王の騎士に叙任されること、そして、その際必要な〈盾仲間〉を御前試合にて選出せよ、そしてマルティータの成人を待つ間〈盾仲間〉とともに一年の修行を積め、という話であった。しかも御前試合はグレイズの知らぬ間にセッティングされており、既に決勝戦に出場する従騎士が決定しているという。

 マルティータとの婚約を許してくれた手前、断ることなどできなかったし、父王の求める格式ばった覇道のすがたについては、遅かれ早かれ見せねばならないので、グレイズはしぶしぶ承諾した。

 御前試合の前日、グレイズはベルイエン離宮の自室にてひとしきり駄々をこねた。


「離れたくないよ、マルー」


「わたくしも」


 マルティータは膝に乗っているグレイズの頭を優しく撫でてくれた。

 十五歳になったマルティータは依然として少女であったが、グレイズが昏い思い出に打ち沈むときにはこうして姉のように慰めてくれた。


「ファロイスに戻れば、またしこたま絞られる日々だ。この一年、録に剣も握っていなかったのを父上は目ざとく気づくだろう。また、修行の日々だ」


「でも、陛下はグレイズ様の身長が半フィート以上も伸びた事をご存知ありませんわ。きっと逞しく素敵な騎士様におなりです」


「私は王太子だぞ。この平和の世で剣を振るう機会なんてないのに」


 がばりと身体を持ち上げて婚約者の顔にいじけてみせると、彼女は咎めるように瞳をしばたたかせた。


「いいえ。技も知ですわ。そのお体に武芸の叡智を刻み込むのが修行かと存じます」


「君もやるかい?」


 と、グレイズが覗き込むと、マルティータは小さくくちびるを突き出した。


「花嫁に武術が必要でしたら」


「いや、君の可愛い手に武器など持たせるものか」


 二人はどちらともなく手を取り合い、くすくすと微笑みを交換した。

 開いた窓辺でレースのカーテンがふわりと広がった。やがて冷たい風が吹き付けて、夕暮れの端を運びながら常春の庭の花々を無造作に散らすだろう。


「一年か」


 悪戯な風に飛ばされかけたショールを引き寄せて、マルティータに着せてやる。

 ジャケットを着ていても首元が冷やされると寒い。

 繋いでいる指先から微かに感じる温もりが、一層寒さを、いや寂しさを引き立てる。


「婚約を認めていただいたのですもの。一年ぐらい我慢できますわ」


「私にはとても長いよ、マルー」


「一年が終われば、そのあとはずっとお側におります。わたくしの命が尽きるまで」


 そう言うと、マルティータはうっとりと瞳を閉じた。

 何を期待しているのか、グレイズにはすぐにわかった。けれど、それには答えられない。

 これまで幾度となくくちづけの衝動に襲われてきたけれど、彼女を傷つけまいとしてぐっと押さえ込んできた。彼女の許可無くしてはできない。それはほとんどグレイズの誓いであった。

 彼女に自分のような辱め――望まぬ交渉を受けさせたくはない、ただその一心から。

 だから、左手の薬指にくちづけ、その手を優しく引いて、心を込めて少女を抱きしめた。

 腕の中、胸に身体を預けてくれる彼女は小さくてやわらかくて、温かかった……。


    青い林檎にかじりつき

      去る日の悔いに顔しかめ

    赤い林檎の蜜すすり

      ある日の恋に目を細め

    林檎が銀ならなにしよう

      くる日の財に隠しこめ

    林檎が金ならささげもの

      ゆく日の光にかざしましょう


 夢と悩みの浅瀬から聞こえてきた甘やかなソプラノで、グレイズは気がついた。

 浅い微睡みを漂っていたつもりが、いつの間にか深く眠り込んでいたらしい。

 東屋の暗がりを、薄ぼんやりと薔薇色が満たしている。

 まるで、花々の褥に横たわっているような気分だ。

 うっとりと瞳をしばたたかせる。

 それが愛しい少女のものだと気づくやいなや、グレイズは弾む心臓にまかせて飛び起きた。


「マルー!」


 知らないうちに、婚約者マルティータがグレイズの傍にいてくれた。


「はい、あなたのマルティータです」


 マルーの愛らしい顔が視界を占有していた。

 身体を預けられ、鼻と鼻が触れあいそうなほど近づいていたので、慌てて顎を引く。


「会いたかった」


 喜ぶ勢いのままマルティータを抱きしめると彼女はくすくすと小さく悲鳴を上げた。本物だ。


「グレイズ様、苦しいですわ」


「すまない。夢のようで」


 グレイズは短く詫びると、身体を離し、彼女のまだ大人になりきれていない柔らかな輪郭を両手で包み、うっとりと覗き込んだ。夢に見た出会いの頃から二年、彼女はすっかり貴婦人然とした風格を纏うようになったが、それでもまだ蕾のようで少女と呼ぶのが相応しいだろう。


「セルゲイには会えたのだね」


「はい。お送りして参りました」


 マルティータを特別にしている銀色の両目には、グレイズしか映っていない。


「それから、グレイズ様と、セルゲイ様も。ついに、言えたのですね」


 少女の熟れかけの瑞々しいくちびるから聞こえるソプラノには弱い。

 名を呼ばれる度に甘く心を締め付けられて、心に小さくて温かな灯火が燈るようだ。

 微笑まずにはいられない。


「どうして君が嬉しそうなんだ?」


「グレイズ様の嬉しいことですもの」


 彼の喜びを我が物としてくれるところも、彼女の素晴らしい長所のひとつだ。

 銀色の瞳を水晶のように輝かせて丸い頬を持ち上げるマルティータの愛らしさに、グレイズの胸がきゅんと疼く。ときめきと切なさにまかせて手をきつく握る。


「マルー。君は本当に優しくて、慈愛に満ちた子だね」


慈悲グラスタの名をお持ちのグレイズ様には、とても」


「では、いつくしみあおう。お互いを、この国を」


 晴天にウィスティリアの花びらが舞う中、グレイズは寄り添う少女の両手を取った。

 そして、常春の庭に渦巻く甘やかな薫風をたっぷりと吸い込んでから再び口を開いた。


「私の妻になってくれるね。君が十六の成人を迎えるのをずっと待ちわびていた。皆、祝福してくれよう。私たちの婚礼は明るいニュースになる。父上にも、もちろん国民にも」


 グレイズは滔々と淀みなく語りかけた。

 いままでもこれからも、マルティータへの言葉に詰まったことは一度も無い。

 思ったことをそのまま言うことができるし、彼女もまたそのままの彼を受け止めてくれる。

 彼女の前でなら、世界一の詩人になれる。

 父親の真っ赤な顔、大臣や議員たちの青白く、あるいは茶色い顔を前にしたときの顔面と喉がこわばる嫌な緊張感などはない。

 汗ばむ手のひらの中で、小さな両手が蠢いた。


「もう、何度も申し上げましたけれど、喜び謹んでお受けいたします。ですが……」


 遠慮がちに見上げてきた恋人の、赤い巻き毛が輝きながら揺れた。


「本当によろしいのですか。わたくしには〈ギフト〉の一つもありません」


「それこそ、何度も聞いた質問だね」


 前髪の下で、同じ色をした長い睫毛を楚々と羽ばたかせるのがいじらしい。

 自らが王室の悪いニュースになりかねない。彼女はそれを危惧しているのだ。

 ヴァニアス王家には代々、神秘の力持つ娘――〈ヴァニアスの神子〉が生まれる。

 理由は定かではないが、始祖王とその妻に由来があるのではと歴史家は語る。

 つまり、エドゥアルガス獅子王が娶ったワニア民族の神子シャラーラの力が今でもその血に流れているという話だ。マルティータもそれを信じ尊んでいる一人だった。

 建国から九〇〇年が経ち、現在ではワニア民族とその力も希少なものになってしまった。

 歴史以前からヴァーナ諸島に原住していたワニア民族――魔法使いの一族はソレナ民族によって二重――迫害と同化に追われたからだ。

 ヴァニアス島の南方、フィスティア大陸から入植してきた貴族は当初、ワニアたちを野蛮人として迫害していたが、彼らが神秘の力をその身に宿すと知るなり、立身出世を目的にその力を求めワニア民族との婚姻を繰り返した。また、エドゥアルガスとシャラーラの婚姻と建国をきっかけに融和が、そして意図せず同化が促進されたという見解もある。そして純血同士でのみ受け継がれるワニア特有の水色の髪と瞳、魔法の〈ギフト〉は時代とともに失われていった。

 こんにちでも、魔法の〈ギフト〉を貴ぶ風潮があり、現サンデル公爵は現存する唯一のワニアの集落ラズ・デル・マールからワニアの純血フレイントでしかも〈御山の神子〉を娶った。そしてマルティータが生まれたが、彼女は何のギフトも持っていなかった。

 こうした状況からマルティータは〈ギフト〉なき己を無能と考えてしまうようだ。

 しかしグレイズはヴァニアス人――ソレナ民族に魔法の〈ギフト〉が顕現する現象は過去にワニア民族と交わった名残――ただの先祖返りであり、くじ引きのようなものだと考えていた。


「マルー、私の赤薔薇さん」


 グレイズは、彼女の自分より一回り小さい顔を覗き込んだ。


「魔法の力がなんだ。魔法を使いたければ魔法使いに頼めばいい。知性があれば魔術にだって取り組める。君の長所は別にある。学生も投げる本を読みこなし、素晴らしい知恵を蓄えたじゃないか。医術書を読む娘など、私は君の他には知らない。私はこの世にただ一人の君を愛し、君と人生を共にしたい」


 グレイズは、マルティータの瞳に映る自分のさらに奥にある少女の黒々とした瞳孔を見つめながら、彼女の前髪をそっと耳にかけ直してやった。


「私のほうこそ、父上のように勇猛でもなければ剣や政治に長けてもいない。始祖様のような立派な王にはなれないだろう。しかし、私は神ではないからこそ人に頼れる。剣術はセルゲイのような優秀な騎士にまかせるほうが、ずっといい」


「そうおっしゃって、学びを放棄されるので?」


 小さくくちびるを尖らせ、的確に注意してくる少女の頭の回転の速さも、我がことのように誇らしい長所だ。

 グレイズは微笑み、顎を引いた。


「まさか。セルゲイは私の騎士で、友で、師となる男だ。君を守るためならばいかに不得手といえど全力で取り組もう。君に侮られぬ、君の誇りでありたいから。だからお願いだ、マルー。私の欠けたところを埋めておくれ。未来永劫、私の側にいてくれ」


「グレイズ様……!」


 マルティータはくしゃりと切なげに破顔して、グレイズに体重を預けてきた。

 細い身体のほどよい重み、少し早い鼓動、暖かい匂いに彼女の確かな存在を実感する。

 本当は思い切り抱きしめて、彼女を一番近くに感じたい。

 誰も、グレイズさえもまだ摘んだことのない桜桃のようなくちびるを味わってみたい。

 グレイズは頭がくらくらするような興奮を理性の内側になんとかとどめて、なるたけ優しく、思いの丈を込めて、そっと頭を撫でた。

 それは正解だったようだ。

 少女は日向を喜ぶ子猫のように目を細め、くたりと力を抜き少年の愛撫を受け入れてくれた。

 たわわに咲き垂れるウィスティリアの屋根の下、世界一可憐な婚約者と甘い風の吹く素晴らしい午後とに半ば放心していると、腕の中で少女がくすぐったそうに笑って身をよじった。


「いままでに、何度プロポーズをお受けしたかしら」


 見上げてきた銀の瞳はうっとりと潤み、三日月のように清らかな光を集めている。

 その下で動くくちびるのなんと美味しそうなことだろう。

 ヴァニアス王家に魔法の力をもたらした伝説の神子姫シャラーラも相当な美貌を誇ったといわれているが、マルティータの花も恥じらう愛らしさには、とてもかなわないだろう。

 グレイズは欲望をごまかすようにマルティータの髪を指に巻き付けて戯れる。


「結婚したあとに、されなかったと言われないようにね」


「まあっ。では、今日が聴き納めでしたのね」


「しかし、これからは、なんと言って君の気を引けばよいかな」


「チェッカーボードケーキなんていかがかしら。それとも……」


 と、マルティータがグレイズの鼻先へ向かって首を伸ばしてきた、その時だった。

 どこからともなく鐘の音が響く。


「いけない!」


 マルティータがすっくと立ち上がる。

 三回で止まったそれが、今日のお茶会の合図であることをグレイズも思い出した。


「春の盛りを過ぎぬ間に、薔薇の咲くを摘むがごとし」


 そして歌うようなメゾソプラノが天から降り注いだ。

 と思いきや、金色の光を纏った婦人が、東屋のウィスティリアのすだれをくぐってきた。

 神子姫の歩みに合わせて、金色の光が移動する。


「お楽しみはとっておおき、可愛い子たち」


 グレイズは悪戯っぽく微笑むミゼリア・ミュデリアにすぐさま跪き、彼女の足に最敬礼を、そして立ち上がって手をとり、くちづけた。


「叔母様。セルゲイにお話はお済みで?」


「ええ。せっかくのケーキが傷んでしまってはね」


 グレイズがちらと彼女の背後を窺うと、中庭の入り口で、見慣れた従騎士がいた。

 セルゲイはお茶会の支度に行き交う女中に鼻の下を伸ばしていた。

 彼の瞳ならば、娘たちのお仕着せの中まで見通せてしまうのかもしれない。

 マルティータにも色目を使ってはいないだろうか。グレイズは警戒を強めた。

 セルゲイは、長身にしっかりと蓄えられた筋肉、均整のとれた戦士の体つきに加え、高い庇と立派な鼻に挟まれた甘い瞳を持つ。その様々な表情を見せてくれる緑青色の瞳が特に魅力的だと思えばこそ、憧れながらも嫉妬してしまう。


「グレイズ様」


 と、従騎士をじっとねめつけていた王太子の腕が温かく柔らかいものに包まれた。


「わたくしにグレイズ様しかいませんように、セルゲイ様にも運命の方が訪れるはずです」


 マルティータだ。彼女は婚約者の腕を全身で抱きしめてくれていた。

 心を濁らせた妬み、黒い気持ちがそれだけで浄化されるようだ。


「それを探すのに、出会う女性を手あたり次第に?」


「きっと寂しがりやなのです」


「どうしてわかるんだい、マルー?」


「目を見たら、なんとなく……でしょうか」


 睦みあう二人の目前で、神子姫がくるりときびすを返した。踊り子のような美しいターンだ。

 羽のように薄く透けたショールが彼女の軌跡を追いかける。


「さあ、お茶にしますよ」


 ふわりと舞うようにそれでいて足音も立てず中庭を闊歩するミゼリア・ミュデリアはまさに妖精の女王のようだった。


「お前も。おいでなさい」


「はっ!」


 白い首筋を伸ばした神子姫に手招きされたセルゲイは身体を棒きれのようにまっすぐにした。

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