5、傷だらけの従騎士《エスクワイア》

「ふう」


 ときは過ぎ、ヴァニアス暦九八四年。〈雪解けの知らせテイーザ〉が終わる〈白羊の月ラーム〉一日。

 春一番の日が昇る前に王都ファロイスを出発し、ゼ・メール街道を東へと進んできた従騎士エスクワイアセルゲイ・アルバトロスは、目的地に着くと、張り詰めた太股に気合いを入れ直し、馬上からひらりと降りた。一年ぶりの聖都ピュハルタは十八歳になったセルゲイには少し小さく見えた。

 苦々しい思い出を上書きしたくて、思わず深呼吸をする。

 それは、これから始まる予定の茶番劇への溜め息に変わった。

 街路樹――プラタナスの頭から生い茂る葉は、たっぷりとしていて、美女のけぶるようなソバージュを思わせるし、シラカバの凛とした清潔感溢れる立ち姿は尼僧のよう。おいでおいでと手招きする柳の流麗さは白魚がごとく、まさに先日夜伽をしてくれた若いイーシアの女のなめらかな手指を想起させる。

 セルゲイは、そんな彼らの間を渡りゆく薫風を嗅ぎ、そこに自らを重ねた。

 気まぐれに女の髪を匂っては首筋にくちづけ、耳に熱い甘言をささやいては明日の他人たる。

 本物の恋ができればと一夜のアバンチュールに心身を焦がすこともあるが、それはそれ、一夜限りで終わる関係の気楽さばかりが先立つ。深くは踏み込めない。それに恋愛の果てに所帯を持つなど、責任が重すぎる。一瞬の恍惚に見合わない。また、ため息が落ちた。

 栗毛の愛馬チェスナの首筋を労いに撫でてやると、彼女は誇らしげに喉を鳴らした。

 一緒になって深呼吸をすると、春らしい青草の瑞々しい匂いが胸いっぱいに満ちた。

 ぶん、と耳のすぐ近くを蜂が通り過ぎていった。飛び去ったほうを見れば、夏へ向けて背丈をぐんぐん伸ばしている草の合間に、赤、白、黄など色とりどりの小花が咲いていて、その間を蜂たちが嬉しそうに行き交っている。細い足にくっついている花粉の塊が、蜜蜂の証明だ。黄金色の甘い蜜を想像して、少年はにっこりした。

 のどかな光景、花の香りを纏った風、それを喜ぶ人間。明るい色彩、春めいた淡い期待感があたりに満ちている。

 刀礼を翌日に控えた少年がやってきたのは、小姓時代から慣れ親しんだ聖都ピュハルタだ。

 白亜の城壁街に守られたベルイエン離宮の中心には国教スィエルの聖地〈水の祭壇〉があり、そこからこんこんと湧き出る清水の流れを壕に流し込んでいる。

 聖地巡礼か、あるいは今日の宿を得るためか。入場を待つ人々の列はいつでも、跳ね橋から城門まで伸びて、聖都のただ一つの入り口まで続いている。


「今日はさすがに並ばないとな」


 かつては神聖騎士団のお仕着せとマント、そして金色の拍車を身につけた先輩騎士ドーガスを入場証代わりに、別門から入場していた。その際、騎士は馬を下りる必要も無い。

 だが今日は勝手が違うので、門から少し距離を取ってゼ・メール街道の上で馬から降りた。

 愛馬チェスナの綱を引いて歩く。


「セ、セルゲイ」


 セルゲイは、はっとして振り向いた。

 そこで連れ合いの少年が白馬の上でもたついていた。具体的にはひょろ長い足をうまく蹴り上げられずにいる。


「嘘だろ」


 セルゲイの首筋を汗が滑り落ちていった。出発する時、乗れると言ったのを信じたのに。あまりにも下手すぎる。汗ばむような春の陽気に似合わない、陰気な色をしたマントが全ての動きを阻害しているのかもしれない。それにしてもだ。


「グ……殿下! 体重を片脚にぐっと乗せて――」


「いいから、早く……!」


 セルゲイが慌てて手伝い、四苦八苦しながら下ろしてやった瞬間、少年のフードはすっかり脱げ落ちてしまった。艶めく黒髪と海色の瞳が陽の下にさらされる。それは、彼をヴァニアス王国で唯一無二の存在にしてしまった色彩だった。


「まずい!」


 セルゲイはぎょっとして少年のフードを被せ直し、きょろきょろとあたりを窺った。

 グラスタン・ウィスプ・スノーブラッド・ヴァニアス――セルゲイと同じく齢十八を数えるこの少年こそ、シュタヒェル騎士が命に代えても守らねばならない世継ぎの王子であった。

 あの日からセルゲイは彼だけの従騎士だった。明日叙任されれば晴れて王子近衛騎士となる。

 グラスタン王子も、従騎士の腕の中で筋張った身体をこれ以上ないほど固まらせている。

 ばれたか? 早鐘のような心臓の音が麗らかな春の日を浸食する。

 しかし、セルゲイと目が合ったゼ・メール街道の人々はくすりと微笑んだだけだった。


「ところで今朝の新聞、読んだ? またドラゴン騒ぎですって」


「子どもの投稿でしょう? どうせ、大きな鳥でも見たんでしょうよ」


 そしてこんなふうに、それぞれの連れ合いとの世間話に戻り、街道を行った。


「ふう……!」


 腹の底から出た安堵のため息が喉を鳴らした。嫌な汗がもう一つ二つ首筋を落ちていく。

 二人の女性には友人同士がふざけているように見えていたのならそれに超したことはない。


「すまない、セルゲイ」


 黒々とした太い眉を傾けた王子は、フードの下からハイバリトンの上澄みと申し訳なさそうな視線を従騎士に投げてきた。それに苦笑いで答える。


「馬に乗れるっておっしゃってたじゃないですか。昔、独りでピュハルタに来たことがあるって。そのとき乘ったって」


 そう。グラスタン王子はかつて王都ファロイスの王城ケルツェルから家出をしたことがある。それは奇しくも十六歳の成人を迎えたその夜だったそうだ。そしてそのまま叔母である神子姫に滞在を許され、御前試合当日までの一年間、ベルイエン離宮にて静養していた。家出の理由はまだ教えてもらっていないが、これがきっかけで良縁を得たことだけは聞いた。

 王子は海色の瞳を泳がせた。


「あのときは無我夢中で。乗ることは出来る。だが、降りるのはどうしても苦手で……」


「あー……」


 それは乘れるって言わねえんだよな。

 セルゲイが飲み込んだ本音をどうやって知ったのか、王子はしょぼくれかえった。


「何から何まで迷惑をかけて。私はいつも駄目だな……」


 少年のくちびるが情けなく曲げられて形のよさを台無しにしている。


「決めつけると本当にダメになりますってば」


 王子のしょんぼりと余計に縮こまった背中を、セルゲイは軽く叩いて励ました。

 その拍子に背筋がピンと伸びると、身長もぐんと伸びた気がした。

 あの日――セルゲイを迎えに来た時の凛然とした気迫は演技だったのだろうか。


「誰でも苦手なものはあります。俺が悪かったです。こういうのは俺がちゃんとしておくべきだったんです。でも、殿下もできないことはできないって、なんでも最初に言っておいてくださいよ。そうしてもらわないと俺、カバーできないからさ。――あっ」


 セルゲイは、回りすぎた舌をくちびるごと右手の中に閉じ込めた。

 それは王子も同様だったらしい。彼は瞳を丸めたあと深呼吸を繰り返し、くちびるを舐めたと思いきや、突然セルゲイの行く手を塞いだ。


「セルゲイ、ずっと言おうと思っていた。遠慮はいらない。騎士団の気の置けない友人にするようにしてほしい。私たちは同い年で、そして〈盾仲間〉になる間柄だ」


 正直面食らった。いや、合点がいったというのが正確だろう。

 この一年、何かにつけて物言いたげな視線を送ってきたり二人きりになろうとしているのは感じていた。そのまなざしがあまりに熱くて、彼が同性愛者ではないかと疑ったこともある。

 それが友人宣言とは。少しほっとすると同時に、現実を知ってくれとも思う。

 同い年、〈盾仲間〉で王子近衛従騎士。確かにそれは周知の事実ではあるが、かといって、突然友だちになるわけではない。ましてや王太子と商家の従騎士だ。ブーツに同じ色の拍車を付け同じ騎士団の鎧を纏えども、二人の身分には超えてはいけない一線がある。それぐらいセルゲイにもわかる。小姓・従騎士の同期たちに尋ねてみても口を揃えて言うだろう。礼を失すれば首が飛ぶと。あくまで契約上の主従関係に過ぎないのに、このうら若き貴人は何か勘違いをしているらしい。

 セルゲイは軽く咳ばらいをした。それだって時間稼ぎにはならないけれども。


「殿下、それは命令ですか?」


「友情は命令で持つものなのか?」


「そうじゃありませんけど、そうしてもらわないと俺の首が飛びます」


「命令がなければ、友にはなれぬと?」


「いやあ……」


 二人きりになったと思えば、随分ぐいぐい来るな。しかも返しにくい事ばかり言う。

 その割には、もしょもしょといじけた調子なものだから気を遣う。


「ご命令いただくと、俺が楽っていうか――」


「忠信を主とし、己に如かざるものを友とすることなかれ。セルゲイ、私より強く高潔な心ある君とならば友になれると思うのだ」


 悲しいかな、この言い方がすでに強要であると、彼は理解していないらしい。


「……しかし心までは強制したくない。君が嫌ならば、遠慮なく断ってくれていい」


 セルゲイが答えあぐねていると、王子はすぐに拗ねた。そうはいかねえだろって。

 王子にはこれまで友だちがいない。このように意思疎通がこんがらがるなど人付き合いが不器用なので薄々そうではないかと思っていたが、確信に変わった。高貴な身の上のために交流が制限されたなど理由はいろいろ挙げられるだろうが、とにかく友だちを作った経験がないのだろう。友だちがいなくなったことも。ちくりとセルゲイの腹が傷んだ。

 いや、まてよ。セルゲイは一つ訝った。

 王子には婚約者――サンデル公女マルティータ姫がいたな。

 マルティータ姫は恐らく彼にとって初めての友であり恋人なのだろう。

 男のセルゲイ相手にともすれば恋人のように心と体を寄せてくる理由がわかるというものだ。

 逆に言えば、友人関係に失敗したこともないはずだ。

 そう考えた瞬間、セルゲイの首が閉まり、胸がどくどくと嫌な音を立てはじめた。


「……別に、殿下のことも、殿下を友だち扱いするのも嫌じゃないです」


 それから逃げるように、気づけば声を絞り出していた。いじけた声音が情けない。


「でも物事には順番ってのがあるんですよ。俺の気持ちを置いてけぼりにしないでください」


「ではどうすれば?」


 知らねえよ! と一年前のセルゲイならすぐに返していただろう。それをごくりと飲み込む。

 実際、セルゲイ自身も友だちの作り方などよくわからない。説明されることもすることもなかった。なんとなく知り合って、顔を見れば挨拶して、暇が合えば食事で愚痴を分かち合い、ときに衝突しては仲直りをして、ほんの小さなすれ違いに断絶する人もみた。

 そんな他愛もない日常を繰り返すうちに増えたり減ったり、そして続いていくのが友だちだと思っていた。人々と関わるうちに勝手に構築されるもの――人間関係を意図的に作るだなんて考えたこともない。

 いや。心当たりが一つある。人肌恋しい夜にたまたま女の子と出会ったときに使うテクニックはある。酒を飲みかわして話を聞いてやるとか、あらゆる美点をでっちあげるとか、歌ってやるとか。すると、たちまち心と体を許して一気に距離を縮められる。だがそういう付け焼刃な関係は男女に限るものだし、大抵一晩きりで終わるものだった。


「少しずつ相手のことを知っていくんです。相手の好き嫌いを知るとか、一緒にいる時間を増やすとか――」


「この一年共に過ごし君を知った。共に座学も訓練も受けた。私と違い、筋骨逞しく武芸の勘がよい反面、興味のない話を一つも覚えない。好色家が玉に瑕。これで十分ではないのか?」


「十分?」


 たったの一年で? セルゲイはかちんときた瞬間に吠えていた。


「それで俺のすべてを知ったつもりかよ? 一緒に酒も飲んだことないのに?」


 一つ本音を言ってしまうと、もう駄目だった。


「それは殿下の言い分だろ。さっきからずっと対話のふりして俺の話は全然聞いてないだろ。友だちだと思うなら相手の話は聞けよ! そんでお互いの言い分を擦り合わせるとかするもんなの! それでよく恋人ができたよなァ! ッカーッ! 信じらんねえ!」


 叫んだ少年に、ゼ・メール街道を行く人々の注目が集まる。だがそれすらも気にならない。


「対話の、ふり……」


「そう。望む答えが出るまで意見を押し付けてさ。人を自分の思い通りにしたいんだろうけどそういうのすぐ見透かされるからな」


「君の、言い分……」


 きょとんと、あるいは呆然とする王子の顔に、セルゲイは我に返った。

 苛立ちに任せて失礼を言葉にしてぶつけてしまった。だが今さら引き下がることもできない。


「……そう。別に全部肯定することもねえけど、ちょっとは聞いてくれって……そういう話」


 頑張って言葉を濁したが、反対に冷汗が滝のように溢れる。やばい。

 この国で二番目に偉い少年に首を刎ねろと言われれば、誰も反対しない。

 固唾を呑んでグラスタン王子の返事を待つ時間は、永遠のように長かった。


「私は父上と同じことを君にしていたのか……」


 そのうち、とぼとぼと歩いていた王子の足が止まった。


「ありがとう、セルゲイ。忖度無しの助言、痛み入る」


「……俺、首ですかね」


 人の気も知らないで。セルゲイは溜め息を深呼吸に隠すと、歯の隙間からぼそぼそ言った。


「いいや。誰が君を手放すものか。口調は直さずそのままで頼む。気風のよさが気持ちいい。君は港町の生まれだったか。だから潮風のようなのだな。傍若無人だが広々としている」


 と、王子はほろ苦く微笑んだ。


「益者三友。直きを友とし、まことと友とし、多聞を友とするは益なり」


 それはまるで呪文だった。そもそも同じヴァン語だったかも怪しい。

 王子の言う意味がわからなくて、セルゲイはくちびるを一文字に結びきった。

 二人の間に重たい沈黙が横たわる。


「……と」


 居心地の悪さに生唾を飲み込んだそのとき、続きが始まった。


「東洋の君子論にあった。隠さず直言する素直な者、裏表のない真心のある誠実な者、博識な者を友とするのは有益である、と」


「ふうん」


 手元にない書物をするりと引用されると、育ちの違いをまざまざと感じさせられる。加えて、本の知識を披露するときのグラスタンの顔と言ったら。まるで世界の理や世界一美味しいもの、宝物を見つけたように輝くのだ。なるほど、話してみるとわかるものだ。距離感がわからずにいたのはセルゲイも同じかもしれない。


「その逆とかってあんの?」


 ほとんど無意識に尋ねてちらりと伺うと、王子の瞳に明るい光が入った。


「ある! 損者三友。便辟を友とし、善柔を友とし、便佞を友とするは損なり」


「えーと、つまり?」


「体裁を飾る素直ではない者、表面を取り繕い媚びへつらう者、口先だけ達者で誠意のない者を友とするのは有害である」


 ちくりと痛んだ心に思わず顔ごと背ける。俺はそんなに立派な男じゃない。


「こうした者は宮廷内で――特に父上の周りでよく見かける。気性の荒い父上に取り入るのはさぞかし大変だろうが、それとて何の意味があるだろう。立身、虚偽、欺瞞。金満を得られたとて、真の幸福を逃がすだけ。よりよき人生のためには、騎士道の何たるかを知るべきだ」


「それ、本人たちに言ってやりゃいいのに」


「言って利があると?」


「言わないと変わんねえだろ」


 二人は視線を交わらせた。


「私は敢えて命令しない。だが、いつか君から友と認められるように努力しよう」


「わかった。後悔するなよ」


 従騎士は、こぼれ落ちてきた前髪を撫でつけた。


「そういえばさ、なんて呼べばいい? 殿下の名前は国中のみんなが知ってるぜ。〈獅子王の再来〉グラスタンってな」


 この重圧のせいで、すっかり猫背が板についていることはセルゲイだけが知っている。

 しゃんとすれば雰囲気が出るのにもったいない、とも。


「私のことはグレイズ――グレイズ・ルスランと呼んで欲しい」


 ふうん、とセルゲイは何の気なしに受け止めた。悪くない。彼の本名に似ているし、それでいてどこかで聞いたことのある音列だ。しばらくして思い当たる。


「ルスランって『ルスランとリュドミラ』の?」


「知っているのか!」


 王子――グレイズの顔が目に見えて明るくなった。


「なんか子どものとき読んだなーって。話は覚えてないけど」


「単純な話だ。勇敢な騎士ルスランが悪の魔術師に攫われた婚約者リュドミラ姫を助けに冒険し、困難を乗り越えた二人は結ばれる。原作はオペラだが、本で読むのもいい」


「へ、へえ……」


 聞いたことのある筋書にどきりとする。よりによって、息子の愛読書をなぞらえるとは。

 勘づかれやしないだろうな。緊張するセルゲイの横でグラスタンは蕩々と続けている。


「ベルイエンの私の部屋に蔵書がある。今夜貸そう」


「や、それは今度――」


「清廉潔白な正義の騎士の物語だ。叙任、ひいては禊の前に読むに相応しいと思うけれども。ルスランは途中、同じく姫を愛する別の騎士に裏切られたり、美女に魅了されることもあるが、いつでも自身の正義と誠実を貫く。その真っ直ぐさに白魔術師が、そして天が彼を味方する」


 王子は立て板に水、ものすごい勢いで語りつくすと、熱い吐息を深呼吸で冷やし、セルゲイを眩しそうに見上げた。


「憧れなんだ」


 言葉通りの純粋な憧れが、瞳をきらきらと潮のように輝かせている。とても直視できない。


「彼のようになれたらと、ずっと願っている」


「……なれるんじゃねえの、いつか」


 視線を逃がしたセルゲイだったが、王子が空気を食むのは見えていた。


「セルゲイ、前……!」


 グレイズが突然、さっと背中に隠れた。

 不思議に思って見回すと、軋む跳ね橋はいつの間にか後方に去り、代わりに目の前に城門があった。話し込んでいるうちにじりじりと列は進んでいて、セルゲイたちの番が来ていた。

 彼が入場を待つ人々の列の先頭に立つと、真っ白なお仕着せの神聖騎士が槍を交差させた。


「名を名乗れ。用件を述べよ。荷を見せよ」


「はっ」


 セルゲイは怖じ気づいて縮こまるグレイズを引っ張り隣に並ばせてから、剣を胸に掲げ、顎をそびやかした。


「シュタヒェル騎士団所属、ドーガス卿が従騎士セルゲイ・アルバトロス、同じくグレイズ・ルスラン。ヴァニアス王国第一王女にして、聖教スィエルの宗主にあらせられる、清らなる〈ヴァニアスの神子〉ミゼリア・ミュデリア殿下の名の下に呼び招かれ、王都ファロイスより急ぎ馳せ参上いたした!」


***


 ピュハルタ市街に入ってからは楽なものだった。

 城門のすぐ傍にある厩に運良く空きがあって二頭の馬を簡単に預けられたし、道すがら宿屋〈桃色の芍薬ピンキー・ピオニー〉亭で狙っていたチェッカーボードケーキを二つ買えた。

 白と桃色がボード板よろしく交互に並ぶ見た目にも美しいケーキはこの店の名物である。

 母から娘へと受け継がれている菓子のおいしさに、知る人ぞ知る名店となっている。


「セルゲイ、私もこれを知っている!」


 さっと頬を薔薇色に染めた王子の声はやはりふわふわしている。気が抜けてしまいそうだ。


「美味いよな、ここのケーキ。それにやっぱ手土産があったほうがいいだろ?」


「気が利く」


「なに、紹介料さ」


 感心の眼差しがあまりにくすぐったくて気付けば口から冗談が飛び出していた。

 が、肝心のグレイズはきょとんと首を傾げただけだった。


***


 裏路地から大通りに出ると周りが人々で賑やかになった。

 きょろきょろと見回すグレイズの顎が上がりっぱなしだ。ヴァニアス本島の中央部に位置する王都ファロイスの出身――生粋の都会っこであるにもかかわらず、見るもの全てに首を伸ばし青い瞳を輝かせている。二年前に成人してからもぐんぐん背丈を伸ばし、今や六フィートの身長を誇っているのに、まるで小さな子どものするようだ。今だけは猫背も少し直っている。

 無邪気にもほどがある。セルゲイの心が不思議とこそばゆくなる。

 しかし、白で統一された壁と建物の面白さはいつまでたってもわからない。


「そんなに楽しいか?」


「ああ! 一度、馬車から降りて歩いてみたかった。ようやく、夢が叶ったぞ!」


 グレイズは笑顔を満開にして、従騎士を振り返った。


「セルゲイ、君のお陰だな」


 穿ったところの一つも無い、なんとまっすぐな少年だろう。

あまりの眩しさに、セルゲイはたまらず目を細めた。

 覇王然と武力を誇る国王と比べて、人はなにかと王子を気弱だとか小心者だとか評価する。

 けれども彼の美点は雄々しさではない――少なくともセルゲイはそう思っていた。


「けど、しばらく神子姫様のところにいたのに知らなかったんだな、〈桃色の芍薬ピンキー・ピオニー〉亭」


「ああ。チェッカーボードケーキは宮廷で作らせているとばかり思っていた。しかし、よく知っているな。話したことがあっただろうか?」


 丸められた王子の瞳は、美しく大きなサファイアを思わせた。それか新品の硝子玉か。

 風の吹き渡る一点の濁りもない青空のようだ。と、人波に流されぬよう首の向きを直す。


「親父さんが何につけても言ってたろ。『ピュハルタで一年サボったツケだ』って」


「……そうだな」


 ちらと視線でグレイズを伺うと、水を得た魚であった様子がみるみるうちに萎んだ。なんとわかりやすいことだろう。檻から出て羽を伸ばしていたところに、檻そのものである父王を思い出したからに違いない。


「悪かったって」


「君が謝ることはない。私が一年怠けていたのは事実なのだから――」


「別に一年休んだぐらいでうるせえのな。ケツの穴が小せえ! で、なんだっけ。俺の話か」


 いけない。セルゲイは本能的に口を挟んだ。生真面目なグレイズは事あるごとに自責を繰り返し、自ら萎縮するきらいがあった。すっかり落ち込むと面倒くさい。


「俺の方は、預けられた当時ドーガス卿が神聖騎士団にいらっしゃったから、その都合でな」


 セルゲイは自慢のハイバリトンをとりわけ明るく響かせて笑いかけた。

 すると王子は、指折り数える従騎士をはにかんでくれた。


「何年ぐらいだろ。九歳のときから十七歳までだから――」


「八年。八年の間、小姓時代から慣れ親しんだ街なのだな。私とは逆だな」


「っていうと?」


「私は九歳までピュハルタで暮らしていた」


 初めて聞く話だ。そして、息をするような自然な会話だ。やればできるもんだな。

 セルゲイは雑踏に警戒し耳を澄ませながら、聞いた彼の話に相槌を打った。


「九歳になったその日、父上にケルツェル城へ連れ出され、それから修行の日々を過ごした」


「逆どころか俺と同じだ。まるで小姓じゃねえか」


「ああ。幾度となくそう思った」


「それで逃げ出した、と」


「……そうだな」


 このように、二人は他愛ない話をしながら聖都ピュハルタを観光した。

 話してみれば、なんてことはない、生まれと境遇が特別なだけの奥ゆかしい少年だ。確かに騎士団ではあまり見かけないけれど、大学に行けば少なくない人種であろう。

 また、ゼ・メール街道での自らの言い分に誤りがあったことも認めねばならない。

 グレイズには対話の余地がある。この点で父王ブレンディアン五世と決定的に違った。

 セルゲイが従騎士として一年、ケルツェル城で見た限り、国王はほとんど独裁者であった。

 国会や議員という手綱が無ければ、敵とみなした者に全て噛みつくような狂犬であり、武器なきときには言葉の暴力を大いに振るうのだ。

 なんだ、全然話せるじゃねえか。セルゲイはこっそりとグレイズを認めながら反省した。

 王子と従騎士の間に深い溝を作り出していたのは、他ならぬ己であると。

 そのうちに、がたがたと重たい車輪の音が近づいてきた。

 王子は上機嫌で、すれ違う人々の顔の一つ一つを見ていて気づかない。


「よそ見すんなって」


 グレイズの首根っこを掴んで引っ張ると、彼のいた場所を商人の馬車が揚々と進んでいった。


「す、すまない」


 主君は何かにつけてすぐに謝り恐縮するから、セルゲイはそのたびに彼の猫背を軽く叩いた。

 その瞬間だけは背筋がしゃんと伸びて、元来の格好よさが現れる。

 いつもそうしていればいいのに。同時に師の気持ちを理解した気分でもある。

 むかし、ドーガスさんも同じ気持ちで俺を指導してくれてたのかな。


「あと、すぐ簡単に謝るなよ。なんでも先に謝るとなめられちまうぜ」


 今のはきつすぎたか。けれど本音には違いない。

 セルゲイは王侯貴族特有の奥ゆかしさや婉曲表現は苦手だ。商家の出身だからかもしれない。嘘をつくなどもってのほか、常に本音しか言えない。だから、師ドーガスから余計なことを言うなと釘を刺され続けてきた。グレイズとは毛色の違う不器用の自負がある。だからだろうか、彼が意見を口の中で弄びつつも、何も言えないのが鼻につくのは。


「そういうものか」


 サファイアブルーの瞳がしゅんと曇ると、セルゲイの罪悪感が音を立てて芽生える。


「勉強になる……」


 本来は主君であるグレイズを舎弟のように連れて歩くのは、なんだか複雑な気分がする。

 遠慮はしないと言ったものの、まだ気も使う。

 だが、王子本人はリラックスしてピュハルタを見物し、セルゲイに懐いている。そのためか、修行と付き添いの一年で知り得なかったことを、今日一日だけでたくさん見聞きできた。

 安心して観光ができるのは、俺がいるから、かな。

 そう思うことにすると、不思議な誇らしさがあった。


「セルゲイ、そろそろ、ベルイエンへ行かないか。……君の邪魔をしすぎたようだ」


 カフェのテラスでレモネードのグラスを乾かしたグレイズがおずおずと申し出た。

 それをセルゲイは、前者にイエスを、後者にノーを返して、言われた通りにグレイズをベルイエン離宮へ連れて行った。

 紅白の薔薇が並ぶ王家の紋章、通称〈ヴァニアスの薔薇ダブル・ローズ〉が縫い取られたシュタヒェル騎士団のマントさえあれば、離宮のすぐ隣に併設されている神聖騎士団の城までは自由に入ることができたし、離宮の城門まで行けばグレイズの王子としての顔が利いた。


「ファロイスの土産だ。当番の皆で分けたまえ」


 と、グレイズの代わりに言ったセルゲイが飴の入った瓶を門番に渡す。

 彼らは突然現れた王子に驚き、丸めた目と口を、そのまま笑顔にした。

 それを見たグレイズの口元が小さくほころんだのを、セルゲイは見逃さなかった。


「じゃ、俺はここで」


「一緒ではないのか」


 きびすを返した従騎士の軽く挙げた手にかじりつかん勢いで、グレイズが追いかけて来た。


「叔母上に呼ばれたのは君だ。私はただ、それにかこつけてついてきただけで――」


「寄るところがあるんだ」


「ならば私もともに」


 フードを肩口に落としながら言うグレイズの額で、金細工のティアラが煌めいた。

 セルゲイは肩をすくめてみせた。


「お前の知らない奴に会うんだぜ。大丈夫。時間までには戻る」


「……わかった」


 忠犬のように生真面目に頷くグレイズに、セルゲイは一つニヤリとしてみせた。


「ケーキ、マルティータ様と一緒に食べながら待っててくれよな」


 その瞬間、グレイズの顔が一瞬で上気した。

 やっぱりそういうことか。セルゲイはにんまりした。

 寡黙で遠慮がちな王子が、なぜか急に問答無用でセルゲイを呼びつけてピュハルタへお忍びで連れて行けと命令したのには、やはり特別な理由があったのだ。


「いや、君を待つよ、セルゲイ」


 セルゲイは首を傾げた。その拍子にぽきりと筋が音を立てる。


「お姫様も待たせちまうけど?」


「それは我慢してもらうよ。彼女もきっと、君に会いたいだろうから」


 明るく微笑んだグレイズがチェッカーボードケーキの一つを両手に抱えて離宮に入っていくのを見送ると、セルゲイは再び歩き出した。


***


 騎士がブーツを鳴らしながら向かったのは、高級住宅街だった。

 貴族のアパルトマンが密集する中で一際大きな庭の、茨の巻き付いた門をくぐる。

 すると、使用人に車椅子を押されている男の影が見えた。

 ごくりと唾を一つ飲み込んで、セルゲイはこわごわと右手を挙げた。

 ブロンズの髪の男は残された左目で、笑顔を貼り付けている従騎士をすぐに認めてくれた。


「フェネト……」


 二歳年上の彼――フェネトは現シュタヒェル騎士団団長デ・リキア伯爵の長男で、かつてのセルゲイの同期である。

 去りし日々にドーガス子爵のもとで共に研鑽を積んだ友人にして、もっとも未来ある従騎士の一人だった彼は、あの事件をきっかけに騎士団を退団していた。


「二人きりにしてくれ」


 セルゲイは、使用人に二つ目のチェッカーボードケーキを持たせると、彼に代わって車椅子を押す役目を引き受けた。使用人が扉の影へ消えたのを見計らい、車椅子を押しはじめる。

 再び転がり出した車輪が、きいと一つ音を立てて、散歩道の小石を踏みしめた。


「元気にしてたか? 足はどうだ?」


「悪くない。医者から杖をついてでも歩けと言われているぐらいには」


 フェネトのテノールにくすりと笑いが混じり、少しほっとする。


「でも、響くから車椅子を使っているんだろ?」


「みんな過保護でね。どこへ行くにも連れて行ってくれるのさ」


「大事なデ・リキア家の跡継ぎだもんな」


 降り注ぐ木漏れ日に似た柔らかいテノールに、彼の上機嫌が窺われる。

 セルゲイは彼に気取られぬよう、安堵の息を細長く吐き出した。


「目の方はどうだ?」


「ご覧の通り、痛くもかゆくもない」


 と、言って、フェネトは眼帯に守られた右目を軽く撫でた。

 セルゲイはぎくりとして、足を止めてしまった。


「フェネト、俺――」


「謝るな。そのために来たんじゃないだろう」


 車椅子から肩越しに見上げてくれる親友のブロンズの髪が、陽に透けて金色に燃えている。


「もう十分だ。謝罪なら言葉でも金でも、必要なだけもらった」


「でも、あんなことがなければ、お前は今でも騎士団にいられた!」


 セルゲイはフェネトの背中に向かって、勢いよく、深々と頭を下げた。

 もう、何度目かもわからない。

 あれは、セルゲイが負った罪で、これからも償い続けなければならないものだった。


「何度謝っても気が済まない。だって、全部俺が悪いんだ。あの時、俺が剣を間違えたと試合を中止していれば。あんなことがなければ、お前が王子近衛騎士になっていたはずだ!」


 黙りこくったままの二人の間を、さやさやという葉末のささやきが埋める。

 そこへ、砂砂利(すなじゃり)がちりちり言う音が混じった。

 フェネトが自力で車輪を回し、振り向いてくれたのだ。


「だから、もういいって、セルゲイ」


 彼は、今や一つだけになってしまった海色の瞳を切なげに弓なりにした。

 瞳を包む長い睫毛が優しく羽ばたく。


「買いかぶりすぎだ。僕に王子のお付きが務まるものか」


「そっちこそ。俺は永遠の二番手だと思ってる」


 と、セルゲイがくちびるを突き出したのとほぼ同時に、急に脛に痛みが走った。

 フェネトの左足が遠慮無く蹴ってきたのだ。


「俺の分も出世してくれよ、セルゲイ」


 彼は両腕で車輪を回し、友人に背を向けると、その先にある噴水に向かって進み出した。


「今後、国民がアルバトロスと聞いたときに答えるのが〈幸運の鳥〉――海運業の雄アルバトロス商会ではなく、叩き上げの騎士セルゲイ・アルバトロスとだというくらいにな!」


 と、車椅子の青年は背中越しに笑いかけてきた。

 彼の邸宅、その中庭を散策する二人に陽光が惜しげもなく降り注ぐ。

 いつの間にか強まった日差しに、気づけば少し汗ばんでいた。

 フェネトも同じだったのだろう。

 彼は真っ直ぐなブロンズの前髪を丁寧に耳にかけ直していた。

 ともすれば女性らしいこの仕草は、彼の手癖だった。二枚目だから様になる。


「わかった」


 セルゲイは友の車椅子に手をかけると、再び押しはじめた。


「せっかくだし、もう一発殴っておこうかな」


「止めろって。明日が刀礼なんだぞ」


 二人はくすくす笑いあうと、どちらともなく空を仰いだ。

 木々の緑葉が青空を額縁のように囲っている。

 デ・リキア家の三段仕掛けの噴水の前に着くころには、セルゲイのわだかまっていた気持ちも幾分落ち着きはじめていた。許しを与えてくれた寛大なフェネトには感謝しかない。

 薔薇の蔓が巻き付くベンチに車椅子を寄せて、セルゲイも座る。

 風に散らされた噴水のかけらが顔に涼しくて心地よい。


「いよいよか」


 と、フェネトが低く言ったのに、セルゲイは頷いた。


「ああ。お前は?」


「僕も参列を許された。お前の方は? 今日は一人か?」


「いや、殿下も。連れてけって命令された。マルティータ様によっぽど会いたかったんだな」


「そうか、珍しいな。籠もりがちのあの方が」


「殿下はあの方を心底愛してる。猫背ともしょもしょ声が直るのは、あの方の前でだけだ」


 セルゲイは苦々しく親友の横顔をじっと見つめたが、フェネトはそれを知ってか知らずか、噴水を残された左目で愛でている。


「俺さ、やっぱり、気の毒だと思う」


 気づけばセルゲイは、本音を零していた。


「ああいうの、血気盛んな陛下の思いつきそうなことだ。でも、デ・リキア卿まで賛成するなんて――」


「父上にもお考えがあるのだろう。僕は一仕掛け人として明日の刀礼と婚儀を見届けるだけだ。お前だってそうだろう」


 ドーガス子爵の庇護下でともに騎士の十戒――騎士道のなんたるかを学んだ男にそう言われると、セルゲイも返す言葉を持たなかった。

 騎士は、神や正義ではなく、まず主君とその家柄の名の下に頭を垂れて剣と盾、騎士の称号を得る。つまり家臣たる彼らが主君の命を背くことはすなわち、騎士を辞するのに等しかった。

 刹那、天空で微笑んでいた太陽が雲に隠れた。

 正義ってなんだろう。セルゲイは吹き付ける風の痛さに目をしばたたかせた。正しさとは。

 敵対する相手に勝ったとしても、失う物がある。いや。セルゲイは頬の裏を噛んだ。

 失う物のほうが圧倒的に多い。勝利に輝くのは栄光ではない。

 しかも、主君の考えに反対意見を持っている。

 俺、騎士に向いていないのかも。

 思わず吐きそうになった弱音を、フェネトの手前、ぐっと飲み込んだ。


「俺、納得できない。これまでも。きっと、これからも」


 そして、膝の上で拳を握り直した。


「でもこんなことでもなけりゃペローラ諸島になんか行けないからな。俺にも何かできるかもしれない。ま、期待せず待っててくれよ」


 フェネトは、はっとしてセルゲイを見つめてきた。


「お前、どうしてメイアのことを……!」


「マリ・メイア嬢。なんで妹がいるって教えてくれなかったんだよ。水臭い。デ・リキア卿から聞いたぜ。ペローラ諸島でのクルージングの最中に行方不明になったきりなんだってな。しかも生きていたら俺と同じ十八歳。俺、お前の代わりになんてなれないけどさ、探してくる。青い目にブロンズの髪、お前に似た娘なら俺にはすぐわかるって」


 これは任務ではない。けれど、騎士団長デ・リキアがこっそりと伝えてくれたところをみるに、一縷の望みを託してくれたに違いない。彼が肌身離さず付けているロケットの中、マリ嬢の幼い日の肖像画も目に焼き付けた。役に立てるのなら働きたい。


「お前の正義感にはお手上げだ、セルゲイ」


「奥様に似て、いいカラダに間違いないだろうし」


 へへっと笑顔を絞り出したセルゲイの肩を、親友が小突いた。


***


 ピュハルタの時計塔の鐘が二回鳴ったのを合図に、セルゲイはフェネトと別れ、急ぎベルイエン離宮に戻った。

 離宮の城門でこっそり飴を口に入れている神聖騎士たちに手短に挨拶をして早足で進む。

 すると、柱の陰からぬっと現れた白い影に行く手を塞がれた。


「セルゲイ・アルバトロス卿でお間違いありませんか」


 驚きに思わず身構えたが、小柄な少女だと気づくなり肩から力が抜けた。


「お待ち申し上げておりました」


 ふわりと甘く、それでいて芯のあるソプラノは、そよ風に薔薇が揺れるようだ。

 楚々と微笑む侍女の可憐さは薄いヴェールにも隠せていない。戯れる花びらのように渦巻く赤髪をまじまじと見つめるとほどなくして銀色の瞳をぱちくりさせる少女の名前を思い出せた。


「マルティータ様」


 セルゲイはすかさず若き貴婦人の白い手を取り、その指先に敬愛のくちづけを贈った。


「はい」


 彼女はにっこりして、膝をちょんと折って礼をしてくれた。

 挨拶の応酬を流れるように済ませた二人は、どちらともなく歩み出した。


「憶えに預かり光栄です」


「〈サンデルの赤薔薇タ・ロゼ・ダラク〉を知らない男なんかいませんよ」


 この幼い淑女こそ、サンデル公爵の娘マルティータ姫で、主君グレイズの婚約者だった。

 彼女はこの春に成人を迎えたばかりの十六歳で、本来ならばセルゲイのような見習い騎士が出会えるはずも無い高い身分の貴婦人である。実際、セルゲイも話すのは初めてで、これまでに数回、神子姫と共に行く彼女を遠巻きに見かけただけだ。彼女は修業のために、サンデル家の治める北方の〈湖水地方ヴェデン・ヴァリ〉からルンタ連峰を越えて神子姫の侍女として奉公に出ている。

 そう、グレイズがぼそぼそ話してくれたのを聞いた。彼と婚約してからは彼女が成人を迎えるのをずっと待ちわびていた、とも。


「ささ、こちらへ。ミゼリア・ミュデリア様がお待ちかねですわ」


 そういえば、先に離宮へ着いたはずのグレイズの姿が見当たらない。

 てっきり、この可憐な恋人とともにいるのだと思っていたのだが。


「えっと、グレイズ……殿下にはお会いに?」


「は、はい!」


 少女の頬が、髪と同じ薔薇色にさっと染まった。


「お疲れのようでしたから、今はお庭でお休みいただいていますの」


 嬉しそうにはにかむマルティータは、従騎士に構わず頬に手を当て照れている。


「まさか、挙式の前日にお忍びで来てくださるなんて夢にも思いませんでしたわ。ありがとうございます、セルゲイ様」


 可愛いという言葉で人を作り上げたらこうであろうという可憐な姫君に満面の笑みで感謝されて、従騎士は人目もはばからず笑顔をとろけさせた。


「いやあ、でも俺が連れ出したんじゃありませんよ。殿下が連れていけって言うから――」


「まあっ。あの方がご命令を?」


「ええ」


「では、愛称も道すがら?」


「そんなところです」


 静けさに満ちた離宮なので、自然と声がひそまる。けれど、グレイズの話をする二人の調子は不思議と明るくなるものだから、楽しそうな会話の残滓が廊下に残っていった。

 光でいっぱいの外から使用人が開けた扉を通り抜けると、宮殿内は真っ暗だった。

 廊下の端を行く使用人たちや、間借りを許されているスィエル教の司祭たちなども影だけの存在だ。顔が見えたところで、とも思う。今のベルイエン離宮にセルゲイの知己はいない。

 室内の暗がりに目が慣れたころ、〈水の祭壇〉がある中庭へ続く回廊に出た。

 今度は、中庭に惜しげもなく降り注いでいる光に目がくらんだ。

 中庭に憩っているらしい王子の姿は見えない。おそらく東屋に腰を下ろしているのだろう。

 ちらちらと光の粒そのもののように舞い散る花びらを横目にセルゲイは口を開いた。


「ところで俺、大丈夫ですかね」


 さて、落ち着いてみると様々な気まずさに顔が引きつる。王子を手下扱い、姫君を小間使い扱いした挙げ句、国王の次に偉い人を待たせたら、どんな罰があるのだろう。


「いいえ」


 セルゲイが身震いしていると、マルティータは花の揺れるような声で笑った。


「お約束の三時には十分間に合っておいでです。けれどグレイズ様がお持ちになったチェッカーボードケーキをご覧になった神子様が、目の色を変えられたのは確かです」


 セルゲイはぎくりとした。どうして公女は少年の考えがわかったのだろう。

 やはり神子姫が傍に置くほどの霊力を持っているのだろうか。


「えっ。俺、やっぱり牢屋行きですかね」


「牢屋? なぜですの?」


 侍女はきょとんと瞳を丸めて小首を傾げた。ヴェールと巻き毛が一緒になって揺れる。


「セルゲイ様がお戻りになり次第面会をし、何があっても三時にお茶会をするとは伺っておりますけれど」


 マルティータに導かれてやってきたのは、神子姫のサロンだった。

 そこは、皮張りのソファや書き物机、暖炉に至るまで、全てが白で統一されていた。

 壁にも淡い色彩で描かれた百合の紋様があるばかりで、貴人の部屋にありがちな絵画は一つもなく、簡易聖堂と呼ぶのがふさわしいほど生活感が無かった。

 窓からは〈水の祭壇〉を抱く中庭が一望できる。

 祭壇と東屋の天蓋を覆って揺れるウィスティリアの花が室内にまで甘い香りを運んでくる。


「ミゼリア・ミュデリア様、セルゲイ様をお連れいたしました」


 姉を慕うような甘いソプラノが花咲く。

 そして、寝椅子にゆったりと腰掛けていた女性がおもむろに立ち上がった。

 セルゲイは反射的に片膝をつき、頭を垂れた。

 ローブの裳裾が、ささやかな衣擦れの音と共に、セルゲイの視界に入った。

 少年はその隙間から見えるつま先――金糸のサンダルが包む足に恭しく触れた。

 それは神子に対して特別な敬意を表す仕草――スィエル教の最敬礼だった。


おもてをお上げ、セルゲイ・アルバトロス」


 セルゲイは言われた通りに顎を擡げた。

 陶器のような面立ちをけぶるような黄金の髪が包み、その中央には、瑞々しい若葉色の瞳が二つ穏やかに煌めいている。その若々しさはまもなく五十を迎えるようにはとても見えない。


「お久しぶりです、神子様」


 幽玄な美しさにぼうっとしているセルゲイを、妖精の女王はくつくつと笑った。


「お前は大きくなりましたね。さ、お話を手短に。お茶までには終わりましょうよ」

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