3、王太子グラスタン

 グラスタン・ウィスプ・スノーブラッド・ヴァニアスはヴァニアス王国の第一王子である。

 兄弟はなく始祖王と同じ黒髪碧眼なことから、生まれた時から王太子の肩書と〈獅子王の再来〉のあだ名という大きな期待を背負ってしまった。

 始祖王とは、ヴァニアス国王の永遠の憧れであるエドゥアルガス獅子王を指す。

 それは九〇〇年以上も昔のこと。スノーブラッド伯爵家長男エドゥアルガスは、当時入植者同士の小競り合いが絶えなかった君主なきヴァニアス島の〈耐え難き沈黙の時代〉に終止符を打った。伝説によれば〈神隠し〉――無数の人々を連れ去り喰らっていた悪しきドラゴンを討伐したともいわれている。彼は協力者であった原住民族の神子を妻に迎え、民意ごとダイヤモンドの島を統一し、島と原住民族の名をとってヴァニアス王国を建国した。彼の出身家名は、世継ぎの称号として王太子に与えられるものとなった。彼の墓は見つかっていないが、代わりに王族のみが立ち入れる場にレリーフが祀られ、国会議事堂には伝説をなぞらえたステンドグラスが設置されている。

 奇しくもこの獅子王と同じ色彩を持って王家に生まれてしまったがために、グラスタンの人生は重苦しい期待と落胆で満たされていた。

 臣民が期待する〈獅子王の再来〉の二つ名、そして、その名に恥じぬ世継ぎたれと息巻いた両親は、熱心にグラスタンを教育を施した。

 特に金髪の国王ブレンディアン五世の拘りは常軌を逸していた。

 忘れもしない。過熱しはじめたのはグラスタンが九歳になってからだ。線が細く病気がちであった王子はしばらくの間聖都ピュハルタのベルイエン離宮にて、叔母ミゼリア・ミュデリア姫の庇護の下、療育の日々を送っていた。

 しかし九つの誕生日、人並みの顔色になったグラスタンを見た父ブレンディアンは、半ば引きずるようにして彼をケルツェル城に連れていった。

 それからは、真逆の生活を強いられるようになった。父は十六の成人も迎えていない子どものグラスタンを城内に限り常に随伴させ、大人の議論や父の趣味である稽古にも参加させた。

 後になって気付いたのだが、それはまるで、騎士と小姓のようであった。

 誰かが言うように、嫉妬を孕んでいたのかもしれない。なぜなら彼が生まれた当時、ヴァニアス諸島の南、フィスティア大陸で繰り広げられたという帝国の解体――通称エスパディア統一戦争はとっくに終結していた。血の気の多さを自覚したブレンディアン王子がいかに武勲を立てたくとも、時代が許さなかったのだ。

 エスパディア統一戦争から六〇年余が経った平和な現代にもかかわらず、父は覇道――武力と策略のなんたるかを息子に叩き込んだ。


「人徳など不要。人民一人一人の意見などいちいち汲んではおれん。従わせるにはとにかく武力だ。強大な力に恐れを抱かせれば抑止力となり、歯向う場合にはそれをもってねじ伏せる。結局は力だ。そして力を行使する機会はいつでも最適でなくてはならない。策は常に自ら持て。部下とて信用してはならない。決して騙されるな、騙すほうになれ。馬鹿では王は務まらぬ」


 このようにして文武両道を課せられたが、伸びるのは書き物の成績と身長ばかり。

 成人を越え十七歳になった今でも父からは一人前とは認められず、公の場に顔を出すことも許されていない。

 この状況である。友人を作れる状況などありえなかった。王城ケルツェルに訪れるシュタヒェル騎士が連れてくる小姓や従騎士に声をかけてみたくとも、悲しいかな、グラスタンにはその機会すら与えられなかった。

 したがって、孤独なグラスタン王子は書物を友とした。

 知るは城と離宮のみ。世間知らずの自覚もあり、本を通じて世界を学ぶほかなかったのだ。

 書物は、過去から現在に至るまでたくさんの優れた人物を生き生きと紹介してくれた。

 遙かな過去に去った、あるいは今を生きる学者たちは、まるでその場にいるように考えや文化を披露してくれ、歴史書は時の流れと数奇な運命の数々を教えてくれた。

 グラスタンは特に英雄譚を好んで読んだ。

 父の言う覇者――乱暴者の物語や悲劇よりも、愛ある勇敢な若者が誰かを救う話が好きだ。

 書物の英雄たちは物言わずともその行動で勇気と正義を示すよき師となってくれた。

 なかでも『ルスランとリュドミラ』という騎士道物語が一番のお気に入りで、勇敢で誠実な騎士ルスランに自らを重ねて夢想したこともしばしば。しかし、憧れは遠く、現実に打ちひしがれることもまた多かった。父に比べて臆病者で弱虫、ひょろ長いだけでさほど丈夫ではない身体、心身ともに勇者にはなりえないことは自分がよくわかっていた。

 憧れと諦めの妥協に、いつしか未来の〈盾仲間〉――己の騎士がかくあれと願うようになっていた。

 成人した王太子には戴冠まで国王の騎士となる義務が課せられている。

 父王が健在なため、シュタヒェル騎士として叙任されることが決まっている。

 しかし、共に叙任されるにふさわしい騎士とは。

 はたして、そんな優れた男が見つかるのだろうか。そんな清廉潔白で愛に溢れる騎士など。

 父の公務――御前試合の下見に随伴しベルイエン離宮を訪れた先日、叔母に相談すると彼女はくすりと一つ笑った。


「始めから優れている人など誰もおりませぬ。あなたは温室育ちでまだ何も知らないのね」


 と言いながら、ミュゼリア・ミュデリアはぱんと一つ白い手を叩いた。


「『はい、今から死ぬまであなたと私は仲良しさんよ』とはならないの」


「私はそう望みます。そのような騎士でなければ私の〈盾仲間〉にはしたくありません」


 叔母は白く細い首から長い溜息を落とした。


「他人への期待は自分へのナイフよ」


 グラスタンは思わずくちびるを突き出した。このような甘えた態度を無意識に見せてしまうのは、育ててくれた彼女を実の母以上に慕っているからでもある。


「意地悪を言わないでください、叔母様。余計に惨めになります。父は勇敢であなたは聡明、私は弱虫の臆病者。これは生まれ持った〈ギフト〉で、変えられぬものです」


「あら」


 叔母は整えられた眉を上げた。その下でエメラルドの瞳が固く追及に光った。


「才能とは磨くものだわ。磨かれぬ銀器が一日で曇るように、怠慢は輝きを鈍らせる」


「わかりません」


「その頑固なところ、お兄様にそっくりですこと。ご自覚は?」


「いいえ。ありません」


「いいわ。好きになさい。いままでそうできなかったのでしょうから。けれども難しい話ではなくてよ。あなたとマルティータが一年かけて思いあい、愛を育むうちに恋人になっていったように友だちだって、だんだんそうなるものなの」


***


 そして訪れた約束の日、御前試合当日。グラスタンは貴賓席に閉じ込められた。


「欠席など言語道断。お前の騎士を選ぶための試合であるぞ」


 と、父王ブレンディアンはバスバリトンを響かせた。もちろん反論は許されるはずがない。

 ベルイエン離宮へやってきてから、ずっとこの調子だ。

 力を持ち、誇示できる王たれと言う彼こそ、自分の長所が息子に受け継がれなかったことをいつまでも直視できないのだろう。それは王子自身も、痛いほどよくわかっている。


「私が本当に獅子王だったらば、全てがうまく行くのだろうか」


 グラスタンは国会議事堂のステンドグラスと共に伝説に語られる王家の始祖エドゥアルガス・スノーブラッド王を思いながら、決戦に赴く二人の従騎士を見下ろした。

 式次第が進み、鎧兜の男が剣を交わらせた。甲高い金属音が辺りに散らかる。

 グラスタンは貴賓席の真ん中で縮こまりながら、すぐにがっかりした。

 二人の従騎士の力は見比べるまでもなく、一目瞭然だった。

 猛烈な勢いで攻め立てる騎士団長の息子が圧倒的に優勢を保ち続けている。技を披露するのとは違う。相手を力でねじ伏せてやろうという攻撃的な心までも見えるようだ。

 反対に、彼の同期だという従騎士は果敢な攻めを防ぐに終始している。

 ついに兜も脱げた。彼の長剣が折れた時、彼の命運も尽きるだろう。

 あまりに一方的で、これはとても試合と呼べるものではない。

 一騎打ちとは、実力の拮抗する二人が己の正義をかけて正々堂々と闘うものではなかったか。

 物語に読んだ、高潔なものとはほど遠い。どちらも王子の盾仲間に相応しくない。

 一刻も早く帰りたい。

 グラスタンが落胆に青い視線を落とした、その時だった。

 防戦に徹していた男が突然、剣を反転させ剣身を掴んだ。

 気がふれたか。心ない野次と同じ感想を持ったグラスタンは、見てしまった。

 男は相手の首に柄を引っかけると、その勢いで相手を地面に叩きつけた。

 重たい音が静まり返った場内に響いた。


「おお!」


 国王をはじめ、その場にいた全員が驚きに言葉を失い、次の瞬間に大歓声を上げた。

 鮮やかなカウンターの一撃――たった一度の反撃で相手を倒してしまった。

 それはほんの一瞬の出来事であった。


「すごい……!」


 グラスタンは、気づけば立ち上がっていた。

 心が熱い。まだ震えている。胸や手だけではない、全身を悪寒が駆け巡っている。

 ちりちりと爆ぜるような期待は、まるで自らが松明や花火になったかのようだ。

 なんという感動だろう。物語と婚約者以外で初めて、心を動かされた。


「彼の……彼の名は?」


 少年の喘ぐような呟きを拾ったのは父だった。


「セルゲイ・アルバトロス。アルバトロス商会の末弟だ。ドーガス卿の秘蔵っ子よ」


 国王がニヤリとしたのを気にもとめず、王子は食い入るように彼を目で追った。

 しかし、一つの悲鳴をきっかけに、称賛は誹謗中傷へと姿を変えた。

 見れば、従騎士セルゲイの一世一代の反撃で倒れた相手の回りに血だまりが出来ている。

 それに気づくなり、セルゲイは友へ駆け寄った。同時に、王子の隣にいた叔母も動いた。

 セルゲイが何を言っているかはわからない。けれど友を気遣い、助けを求めている。

 やがて彼らは人垣で見えなくなり、王室の面々もはける時が来た。


***


 しばらくしてフェネトの処置が終わり、セルゲイの処分が決まったという。

 しかし、グラスタンの頭はあの時からずっと冴えわたっていた。

 今の騎士団は、ブレンディアン五世の趣味と騎士団長デ・リキア卿の性格を反映した攻めに攻め、力を誇示して立身する武力主義である。いつでも覇道を行ける。これはグラスタンが尊びたい愛や優しさ、人徳、つまり王道とは正反対であった。

 その中にあって、いなし、交わし、受け止め、守りに徹することができる確かな実力。

 そして攻撃性の高い相手の隙を、一瞬で捉えて状況をひっくり返す賢さ。

 意図せず負傷させてしまった友を、真っ先にいたわる本物の優しさ。

 その全てが高潔で、まるでグラスタンが憧れる物語の崇高なる勇者そのものであった。

 彼しかいない。

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