第10話 虫除けスプレー

 数字が恋人と言ってはばからない宰相閣下は、今日も目の下にくまを抱えている。


「女王陛下の裁可をいただきたい書類を持ってきました」

 

 宰相ラニエリは、ネーヴェよりいくつか年上の若い男だ。フォレスタを代表する大貴族マントヴァ公爵家の現当主で、国政を一手に取りまとめる敏腕宰相である。

 仕事中毒のため城に泊まり込むこともしばしばで、健康的な生活をしていれば銀髪の貴公子なのに、いつも引きこもりの学者のように見える残念な男だ。

 ネーヴェは鼻先をかすめる汗の匂いに眉をしかめた。


「私の宮廷では不潔を禁じます。ラニエリ、今すぐ自宅に帰って湯あみをなさい」

「ご命令とあれば。しかし、帰宅はこの書類の後処理を済ませた後になります」


 手元には十枚を超える書類の束がある。

 家に帰る気がないな、これは。


「後処理くらい、補佐官に任せればいいでしょうに」

「あなたのいる城を離れるのが、怖いのですよ、女王陛下」

 

 ラニエリは、ひたりとこちらを見据え、得たいの知れない微笑を浮かべた。


「近衛騎士のノルベルトの配置換えについて、噂で聞きましたよ。夜にどこへ出かけられるつもりだったのです?」

「!」

「あなたがロスモンド伯爵の見え透いた罠に掛かるとは思えないが、降りかかる火の粉を払うためにも、ふさわしい身分を持つ男を選んだ方がいい。今は戴冠して間もないからうるさく言われないですが、そのうち山のように釣書つりがきが届くようになる」


 重厚なマガホニーの机の上に、男は身を乗り出して力説する。

 不意に、シエロが言っていた「虫除け」という言葉が思い浮かんだ。確かに、女王とつがって王配になりたいと望む男は、これから先、山のように現れるだろう。

 ネーヴェは話を聞きながら、書類にさっと目を走らせ、迅速に認可と不認可を選り分けた。


「煩わしい事態になる前に、私を選んだ方がいい。私以上の身分の男は、そうそういない」


 確かに、ラニエリは身分も立場も相当のものだ。

 この国で彼以上の権力者はいないだろう。

 傲岸不遜な、とある天使様をのぞいては。 


「ラニエリ、あなたは勘違いしています。私は正式な王が決まるまでの中継ぎです。区切りを付けて引退し、田舎でオリーブ畑を作って石鹸を量産する野望があるのですわ」

「石鹸??」


 疑問符を浮かべるラニエリの顔に、書類をたたき返す。

 ついでに、鼻先に薄荷ミントの香水をシュッと振りかけてやった。

 一瞬で空気が爽やかになる。


「殺菌と消臭効果のある香水ですわ。王城の中庭に生い茂るハーブから調合しましたの。一瓶さしあげます。これを持って家に帰りなさい」

「……いただけるのですか」

「何か不満でも?」

「いえ」

 

 ラニエリは何故か嬉しそうな顔になり、香水瓶を抱えて浮き浮きと去っていった。


「これが本当の虫除けですわ」

 

 ふん、と胸を張ると、部屋の壁際に立っていた護衛のフルヴィアが「おぉ~」と拍手してくれた。


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