第50話 シエロとの再会
ラニエリが階段を登っていくのを見送った後、司祭の一人がネーヴェの前にやってきて、頭を下げた。
「あなたのことは、シエロ様から伺っています。奥で話がしたいそうなので、こちらへ」
「分かりました」
司祭が手招きする。
ラニエリに付いてきた護衛たちが怪訝そうにするが、構わずネーヴェは司祭に付いて歩き出した。
「この先は女人禁制ですぞ」
「シエロ様のご指示です」
「……」
途中で、案内の司祭が他の司祭と揉めていた。
女人禁制とは、いったいどういうことだろうか。
ともあれ、シエロの指示は絶対のようで、司祭はネーヴェを連れて進むことが出来た。そして、呼び止められたのは、それが最後だった。
二人は聖堂の外に出る。
聖堂は街の中にあるが、深い森に囲まれている。街の喧騒から遠ざかり、ここだけは静寂に包まれていた。
奥庭には、いくつかの建物があり、ネーヴェはその一画に案内された。
年代を経た建物は、あまり掃除されていないようだ。目に付きにくい場所には蜘蛛の巣が張り、棚の上には埃が積もっている。家具は必要最低限で、本当に人が住んでいるのかと思うほど殺風景な屋敷だった。
建物の主は、外と中を区切るのが嫌だったのか、窓が多い開放的な造りだ。どこからも森が見えるので、屋敷の中なのに野外にいるような感覚になる。
「お恥ずかしい話ですが、ご覧の通り、あまり掃除が行き届いておりません」
ネーヴェの視線に気付いた司祭が説明する。
「ここでお待ち下さい」
司祭はネーヴェをベランダに面した応接室に通し、立ち去った。
飲み物も菓子も出さずに、である。嫌がらせではなく、単に来客が少なくて気がきかないだけのようだと、ネーヴェは察した。
それにしても、なんと静かなのだろう。
人の気配が、まるで無い。
ネーヴェは手持ち無沙汰になり、立ち上がってベランダに歩みを進めた。
ベランダの外を見ると、枯れ木が垂れ下がっている。
枝は太く、蛇の胴体のように、手すりや屋根に巻き付いていた。しかし、その全ては既に命を失い、からからに乾いて
「葡萄……?」
「昔、友人が植えた葡萄だ」
背後から、返答があった。
「手入れを損ねて、いつの間にか枯れてしまった」
「シエロ様」
振り返ると、部屋の入り口に、司祭衣を着たシエロが立っていた。
彼はネーヴェと視線を合わせ、淡く微笑んだ。
髭が無いと表情がよく見える。端正な面差しが浮かべる柔らかな笑みは、耐性が無ければ心臓を撃ち抜かれる威力だ。ネーヴェ以外の女性なら一撃で心を奪われている。
「よく来たな。俺に会いに来てくれたのか」
「たまたまですわ。聖堂に来る用事があって……本当に会えるとは、思っていませんでした」
シエロの声は、どこか甘い響きを含んでいる。
何となく気恥ずかしいネーヴェは、わざと素っ気なく答えた。
「シエロ様は、王都のどこにお住まいなのですか? 次はそちらに伺います」
「ここに住んでいる」
「え?」
「冗談だ」
人の気配がまるで無いので、この古い屋敷は、聖堂に訪れる数少ない人をもてなす施設かと思っていた。
ネーヴェが疑問符を浮かべると、シエロはさっと撤回する。
「俺は風来坊のように、好きなところへ行くのが趣味でな。ほら、お前とも葡萄畑で会っただろう」
「え、ええ。そうでしたわね」
嘘だ、とネーヴェは直感する。
もしかして、本当に、この
「お前を追っていた王子の
シエロは、話題を変えた。
家の話には触れられたくないのかもしれないと、ネーヴェは話を合わせることにした。
「ええ。びっくりしましたわ。まさか王位継承権を
「お前がなってみるか、次の王に」
「ご冗談を。だいたい、侯爵家の後ろ楯が無ければ、天使様に会えませんのに」
真面目な話ではなく、軽い会話だと思っての返しだった。
ネーヴェの言葉に、シエロは片眉を上げる。
「……まだ俺の正体に気付いていないか」
「何ですの?」
「いや。実際どうなんだ? 機会があれば、王位に興味があるか?」
やけに食い下がるシエロに、ネーヴェは困惑する。
「全く、ございませんわ。自分の分は
「好きなだけオリーブ畑が作れると言っても?」
少し、心が揺れた。
少しだけだ。
「オリーブ畑は、王でなくても作れますわ」
「石鹸を国民に普及させたくないか」
「……高価なので、庶民は買えませんわ」
「それをどうにかするのが、権力者の腕の見せどころだろう」
確かに、とネーヴェは考え込みかけ、はたと気付く。
「いったい何ですの、この誘導尋問は」
「気にするな。単なる俺の願望だ。俺は他人の願いを叶えられるが、自分の願いは叶えられないからな」
シエロはしれっと意味深なことを言う。
「お前に王になって欲しい訳ではないが、そうでなければ」
「?」
「……止めておこう。ここに招いたのは、俺のミスだったな。先ほどから、失言ばかりだ。忘れてくれ」
彼はそう言って、ちらと枯れた葡萄の木を見た。その深海色の眼差しに、かすかな痛みがよぎる。悔恨? それとも悲哀の念か。
しかし、ほんの数秒でその気配は霧散し、彼はネーヴェに向き直る。
「外まで送ろう。次は、別の場所が良さそうだ。ここは辛気臭いだろう」
ネーヴェは何か釈然としない。
二人は部屋を出て歩き始める。
先ほどから何だろうか。知って欲しいのに、知ってほしくないような、微妙なシエロの匂わせは。ネーヴェは、うじうじ曖昧な態度は好きではない。これが他の男相手なら切って捨てていたが、シエロ相手には単純にそうするつもりになれなかった。しかし、流されるのも納得が行かない。
「……掃除が先ですわ」
「何?」
ネーヴェは立ち止まり、シエロを
「天使様がいらっしゃるかもしれない場所を、あんな
シエロは目を丸くした後、くすりと笑った。
「分かった。お前の好きにするといい」
その声は、思いの外、嬉しそうだった。
反対されると思っていなかったが、少し不安だったネーヴェは、その優しい眼差しにほっとした。そして、ほっとしている自分に気付いて驚愕した。男の言葉にいちいち振り回されるなど、自分らしくない。それとも、シエロが特別なのだろうか。
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