第42話 男の矜持

 シエロと入れ替わりで、ネーヴェも湯に入った。

 久しぶりの広い湯船に手足を伸ばして温もる。この温泉は、肌もつるつるにしてくれるらしい。ネーヴェは自分の顔は武器と考えており、傾国の美女を目指す訳ではないが、ある程度綺麗にしておいた方が良いと思っていた。

 顔が良いとトラブルに巻き込まれることもあるが、それはそれとして不細工でも世の中生きづらいのだ。人は見た目に左右されるものである。

 ゆっくり温泉を堪能してから、脱衣場に戻り、新しい衣服を着る。

 廊下に出ると、待っていた下働きの少年に、冷えた果実水を渡された。


「私の前に出た男性は、どちらに案内しましたか?」

「はい、休憩所に案内いたしました」

 

 きっと少年は、シエロが貴族だと思って畏まったのだろう。

 何食わぬ顔で果実水を受けとるシエロが目に浮かぶようだ。

 ネーヴェは少年に礼を言い、休憩所がある二階のベランダに足を運ぶ。そこには長椅子が置いてあって、外の景色が見えるようになっている。

 モンテグロットの山は秋の紅葉を迎えており、森は小麦の穂先と同じ黄金に染まっている。樹木や、煉瓦の壁に絡み付くつたは赤く染まり、人の営みと自然が調和した美しい眺めとなっていた。

 長椅子に横たわったシエロは、そんな紅葉を見ておらず、目を閉じている。温泉に入って眠くなったのだろう。

 傍らのテーブルに置かれた硝子の器が空になっていたので、ネーヴェは少年からもらった水差しから果実水を注いだ。


「シエロ様。おかわりは、いかが?」

「……」

 

 シエロは気だるげに眼を開き、上体を起こして器をつかんだ。

 風呂上がりで暑かったのか着込んでおらず、最低限の簡素な衣服で衿もゆるんでいるのに、一流の仕立て人が縫った洒落た服に見える。顔が良いのは得なことだ。

 結ぶのが面倒くさかったのか、癖の少ない淡い金髪を肩に掛かるままにしている。それを見て、ネーヴェは彼の髪をいじりたい気持ちになった。

 男でも、長髪の一部を三つ編みにしてまとめたりするのは、別段おかしい訳ではない。むしろ、戦士は動く時に髪が邪魔になるので、長髪の場合は結んだりするものだ。

 女子の髪をいじくったことは多々あれど、男性の髪を結んだことはあまりない。それだけに、ネーヴェは密かにワクワクしていた。

 切らせてもらえないなら、いっそ、結ばせて欲しい。

 しかし、石鹸の件を通したばかりで、今言い出すと、強く拒否されるのは目に見えている。

 ここは我慢、我慢だ。


「少し……お話を良いですか」

 

 リラックスしているシエロの隣にいると心地よく、ネーヴェはこのまま、何も言わず彼の隣にいたいと感じている。しかし、落ち着いて話せる機会に、話しておかなければならない。


「お父様の手紙を読みました。お父様もカルメラと同じく、私に国外へ逃げて欲しいそうです。クラヴィーアから平原を抜けて、北の異国へ渡る手筈を整えていると」

「……」

「もし、私が国外に逃げると言ったら……シエロ様も、一緒に来て頂けますか」

 

 言いながら、心臓が高鳴るのを感じた。

 まるで、男女の告白のようだ。

 側にいて欲しいと感じた異性は、家族以外ではシエロが初めてかもしれない。この気持ちは、恋なのだろうか。

 分からない。ネーヴェは自信がない。王子に見初められた最初は、嬉しかった。ただ王子というだけで彼を善良だと信じた、純真な少女はもういない。婚約破棄など痛くもないとうそぶいていても、ネーヴェは無意識に傷付いていた。今や、恋や愛をただ美しいものと感じることは、出来なくなっている。

 柄にもなく、恐る恐る、シエロの様子を伺う。

 すると、こちらを見つめる深海の眼差しと目があった。彼は予想外に、優しい瞳をしていた。その蒼眼は、サンレモの晴れた日の海のように穏やかだった。


「……お前の提案に感謝する」

 

 シエロは、手に持っていた硝子の器をテーブルに置き、立ち上がる。

 そして、ネーヴェから視線を外し、山の紅葉を見た。


「お前は、俺の立場を知らないから、そのように誘える。勘違いしないで欲しいが、それは、俺にとっては僥倖だ。久しぶりに、本当に久しぶりに愉快な気分になった」

「……」

「俺は共に行けないが、お前が声を掛けてくれたことは嬉しく思う」


 やっぱり、断られてしまった。

 これはネーヴェの戦略ミスだ。相手の出自も事情も知らず、ただ何となく誘ってしまったのだから。

 残念な気持ちを表に出さないようにしながら、慎重に問いかける。


「シエロ様は、どうされるのですか?」

「俺は、この国の民を守る。はるか昔に、自分でそう決めた。これが俺の選んだ道だ」

 

 清涼な秋の風が、ネーヴェと彼の間を冷やすように通り抜けた。

 遠くを見据えるシエロの眼差しは澄んでおり、一点の曇りもない。

 その姿勢は、ネーヴェをして畏怖させる威厳に満ちている。シエロの本当の立場は知らなくても、彼が尊い身分だと容易に想像できた。

 人を真に高貴たらしめるのは、身分や血ではない。貴族や王族の血を引くから尊いのではなく、ただ、その責任を果たす在り方が尊いから、高貴なのだ。

 彼は遥か遠くを見据え、途方もなく大きなものを守ろうとしている。その意思は、とても眩しいように思えた。


「お前は、安全な場所に行け。俺は王都に戻る。どうもきな臭い雰囲気になっているからな。収拾しなければならん」

「葡萄畑は、もうよろしいので?」

「もはや隠居している状況でもないからな。人によっては、遅すぎたと言うかもしれんが」

 

 ぎりぎりまで、見守りたかったと、彼は呟く。

 よく分からないが、彼なりの理由があって、葡萄畑を耕していたらしい。

 王都に戻ると言うことは、やはり高位貴族だったということか。


「……シエロ様の行く道に、天の祝福があるよう祈っていますわ」

 

 ネーヴェは、重い口を動かして、何とか別れの言葉を告げた。しかし、胸中はさまざまな想いが渦巻いている。彼の事情に、無闇に首を突っ込むべきではない。物分かりよく答えるのが正解だ。そう理性は言っているのに、感情はネーヴェの思い通りにならない。

 きっと、洗濯が足りなかったから、物足りないのだ。

 そうに違いない。

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